第22話 誘拐事件とその顛末。

「……ここは?」


 気がついた時、私は広くて清潔なベッドの上に寝かされていた。

 察するにどうやら病院の個室らしい。


「……助かった……?」


 これは夢ではないだろうか?

 あるいは、また別の誰かに転生したりしていないだろうか。

 などと思っていると、私が寝ているベッドのすぐ脇に、人の気配があった。


「……お祖父様?」


 祖父だった。

 椅子に腰掛けたまま船をこいでいる。


「ということは……どういうこと?」


 まず、また転生したとかそういう展開ではないらしい。

 でも、どうしてここに祖父が?


「ナースコールとかした方がいいのかしら」


 逡巡しているうちに、祖父が目を覚ました。


「おはようございます。お祖父様」

「……」

「あの……?」


 祖父は暫くほうけたように視線を虚空へ飛ばしていたが、やがて私の方に焦点を結んだ。


「和泉」

「は、はい」

「どこか痛い所はあるか」

「い、いえ……」

「……そうか」


 祖父は、長い――本当に長い溜息をついた。

 そうしてぐっと目をつぶると、いつもの威厳ある態度に戻った。


「ナースコールをしろ」

「はい」


 ナースコールをすると、一分もしないうちに医師が駆けつけた。

 そこからは問診を始めとする各種検査のオンパレードだった。

 そして、その全てに祖父が付き添っていた。


「……」


 祖父は無言だった。

 無言で、ずっと付き添ってくれた。


 ひと通りの検査が終わって、私はまた個室に戻ってきた。

 祖父も一緒だ。


「あの……。ご心配をお掛けしました」

「……」


 祖父は何も言わない。

 どうしたものかと思案していると、佐脇さんが病室にやってきた。


「後は任せる」

「かしこまりました」


 そう言うと、祖父は入れ違いに病室を出て行った。


「ご無事で何よりです。お嬢様」

「あ、はい。ご心配をお掛けしました」

「現状を把握しておられないと存じますので、ご希望があれば私から説明を差し上げます」

「お願いします」



◆◇◆◇◆



 遠足の日、つまり誘拐されたその日のうちに、一条家と東城家の両方に脅迫電話が掛かってきたらしい。

 脅迫の詳細は教えて貰えなかったが、どうも単純な身代金要求ではなく、両家が有する会社の経営に関する要求だったようだ。

 内容は両家だけでなく、多くの他会社も含む事柄に関するものだったため、両家の一存で決められるはずもなく、交渉は暗礁に乗り上げた。

 この時点で、両家は警察に通報。

 警察も非公開で捜査に入った。

 

 両家は要求を金品に変えて貰うように粘り強く交渉したが、結果は決裂。

 犯人側からの接触が途絶え、事態は最悪の展開になると思われた。


 しかし、誘拐現場付近の捜査に当たっていた警察が、近くの貸し別荘から火の手が上がっていることに気がついた。

 警察が急行すると、燃え盛る別荘とそのすぐそばで倒れている冬馬と私を発見した。


「冬馬くんは無事なんですね?」

「はい。冬馬様は別のお部屋で治療を受けていらっしゃいます」

「でも、あの状態からどうやって……」

「それがですね――」


 犯人たちは別荘に火をつけて私たちを焼き殺そうとしたようだが、冬馬は火で縄を焼き切り、私を抱えて脱出したのだそうだ。

 一人より二人の方が、脱出は難しいに決まっている。

 しかも私は気を失って自分では動けない状態だった。

 火はあちこちに回っていたらしく、二人揃って脱出出来たのは奇跡に近いというのが、警察と消防の見解だった。


「冬馬様はやけどを負われましたが、命に別条はないとのことです」

「そうですか……」


 そうか。

 冬馬が助けてくれたのか。

 一人で逃げることもできたのに。

 こんな私を、命がけで。


「お嬢様にはお気の毒ですが……」


 と、手鏡を手渡された。

 見ると、ロングだった髪がショートになっており、前髪をかきあげると火傷の痕があった。


「額の傷はどうしても残ってしまうようです。医者も手を尽くしたのですが……」

「あの状況からこの程度で済んだのなら、むしろ僥倖です」


 何しろ命の危機だったのだから。


「大旦那様のご命令で、世界中から皮膚科の名医を探させております。しばしのご辛抱を」

「お祖父様が?」


 それは意外だった。


「誘拐の報をお耳になさってからこちら、大旦那様の心配され様は、それはそれは痛ましいものでした」

「あのお祖父様が……」

「この佐脇。これまで固く口止めされておりましたので申し上げませんでしたが、大旦那様はお嬢様のことを常に案じておられます」

「え?」


 でも、だって、祖父は――。

 あぁ、政略結婚の駒として、か。


「お嬢様が考えていらっしゃることは分かるつもりです。大旦那様はお嬢様を駒としか見ていないとお考えなのでしょう?」

「違うんですか?」


 佐脇さんは悲しそうに、無念そうに顔をしかめた。


「違います。大旦那様はお嬢様を大事な孫として案じておられるのです」

「……素直には飲み込めません」


 私にはまだあの鞭の音が聞こえる。


「それも仕方ないことかと存じます。大旦那様は、心を鬼にしてお嬢様の教育にあたってこられましたから」

「……」

「厳しいしつけは一条の令嬢として生きていくため、冬馬様との婚約は女としての幸せのためと思えばこそ」

「……」

「時代錯誤とお嬢様は思われるかもしれません。しかし、大旦那様は大旦那様なりにお嬢様を愛しておいでです」

「……」

「付け加えさせて頂くなら、今度のことでおそらく考え方を変えられたと存じます。孫に嫌われたまま去られてしまう、と血を吐くように仰っていました」


 あの祖父が?

 鬼のような祖父が?


「お嬢様が発見され病院に運び込まれてから、大旦那様はつきっきりで看病なさっていました。ほとんど寝ることもなく」


 祖父との会話を思い出す。


『和泉』

『は、はい!』

『どこか痛い所はあるか』

『い、いえ……』

『……そうか』


 あの時、祖父はどんな顔をしていた?

 ほっとしてはいなかったか。

 心底安心したような顔をしてはいなかったか。


「お嬢様。どうか大旦那様を許して下さいませんか」

「……」


 私は動揺していた。

 これまでのことが全て私のため?

 辛い体験のほとんどは和泉のものだけど、私だって厳しく言われたことはある。


『今の生活を諦められるか?』

『……』

『私の言う通りにするな?』

『……』

『返事はどうした』

『……分かりました』


 それに、和泉は私、私は和泉なのだ。


「今すぐに、とは申しません。少しずつ、お互いに歩み寄って頂ければというのが、私めの切なる願いに存じます」


 そう言って佐脇さんは深々と頭を下げた。


「分かりました」


 考えなければならない。

 私と祖父のこれからを。


「それでは、私は一旦失礼させて頂きます。何かありましたらまたご連絡下さい」

「はい……。あっ! あの……」

「何でございましょうか?」

「冬馬くんには会えますか?」



◆◇◆◇◆



「よう、和泉」


 冬馬の姿を見た瞬間、私は言葉を失ってしまった。


「まあ、驚くわな。どこぞの弱肉強食な人斬りみたいだもんな」


 冬馬の全身は包帯だらけだった。


「深刻な火傷はそんなにないんだと。痕に残るのもそんなにないってさ」


 そんなに、ということは何割かは残ってしまうのだ。

 そう思い至った瞬間、膝から力が抜けて崩れ落ちてしまった。


「お、おい! 大丈夫か、和泉」


 慌てて駆け寄ろうとする素振りを見せるが、どうも身動きがとれないらしい。

 その事実がまた、私を打ちのめす。


「ごめんなさい……。私……」

「なんで和泉が謝るんだよ。これはオレの勲章だぞ?」


 強がっているのが見え見えだ。

 こんなになったのは、私なんかを助けようとしたからだ。

 冬馬一人ならば、ここまでにはならなかったかもしれない。

 いや、そもそも誘拐の瞬間、私など置いていっていれば。


「お、おい、和泉! 待てよ!」


 私は冬馬の病室を飛び出した。

 いたたまれなかった。

 冬馬の優しさが痛かった。


 傷が痛くないはずがない。

 気にならないはずがない。


 あんな痛々しい笑顔を浮かべさせているのは誰だ?

 他でもない――この私だ。


 私は自分の病室に戻ると、枕に顔をうずめた。

 泣いてはいけない、と思った。

 そんな甘えは許されない。

 

 あぁ……。

 これは罰なのかもしれない。

 他人の存在がそんなに悪くないかもしれないなどと、ちらりとでも考えたことへの。


 冬馬、ナキ、いつねさん、仁乃さん、それから、それから。

 色んな顔が次々思い浮かんでは消える。

 私によくしてくれた人たち。

 そして、これから私に巻き込まれるかもしれない人たち。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 

 私は、覚悟を決めた。

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