第11話 鈍色のゴールデンウィーク。(前編)
幽霊でも出てきそうな古い洋館の玄関をくぐって、私はすっと息を飲み込んだ。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
家令の
ロマンスグレーの髪を後ろに撫で付けた老紳士である。
もうかなりの歳のはずだが、そんなそぶりは微塵もない。
荷物を運び入れるよう、他の使用人達にてきぱきと指示を出していく。
「お帰りになられたばかりで恐縮ですが、大旦那様がお待ちです。お着替えになられましたら、書斎にお越しください」
「分かりました」
さっそくか。
さて、何を言われるのやら。
佐脇さんは大旦那様と言ったが、もちろん、旦那様もいる。
この家にはお祖父様の長男――つまり私の伯父一家も一緒に暮らしているのだ。
祖父母と伯父一家が暮らすのが本宅で、私が暮らすのは離れである。
用がある時に、本宅に呼びつけられるのだ。
まるで妾腹のような扱いだが、私としても本宅にはあまり近づきたくない。
一条家の者は、みな基本的に私をもてあましているからだ。
使用人の中には友好的に接してくれる者もいるが、祖父たちの手前おおっぴらには難しいようだ。
ちなみに佐脇さんは友好的でも敵対的でもない。
自らの職責に忠実である。
ひとまず一息つきたいので、離れに向かう。
離れまでは靴を脱いだまま行けるように、渡り廊下が続いている。
ほこり一つ落ちていないピカピカの廊下を歩いて自室にたどり着く。
鍵を開けて扉を開くと、百合ケ丘に行く前と寸分違わぬ姿がそこにあった。
当然だが、私が不在の間誰も入らなかったわけではない。
使用人たちが掃除をするために何度も出入りしているはずだ。
部屋の主に違和感を感じさせないようにしつつ、部屋を完璧に維持する。
それが一流の使用人である。
鞄を机の脇に下ろして、ベッドに腰掛ける。
部屋を見回すと、味も素っ気もない自室が見渡せた。
女の子らしい小物などは見当たらず、最低限の家具しか置いていない。
ここでは、最低限死んでいないことしか求められていなかったので、私も勉強と寝起きが出来さえすれば良かったからだ。
時間にして数分、三分にも満たない間、私は自室をぼんやりと見回していたが、はたと我に返って着替えをすることにした。
部屋の奥にあるウォークインクローゼットには、部屋着から社交用のドレスまで様々な服がある。
腐っても一条家の令嬢である。
一般家庭のそれと比べれば格段に多いだろう。
私は無造作に選んだ部屋着に着替えると、姿見を見た。
仁乃さんのような美人では決してないし、いつねさんのように可愛くもない。
極端に容姿に劣るという訳では多分ないとは思うが、雰囲気がまたよろしくない。
まあ、自分でも近寄りがたいオーラ出てるなぁとは思うけれど。
着こなしに悪い所がないことを十分に確かめると、両手で頬を軽く叩いて気合を入れた。
祖父との対面だ。
あまり待たせると何を言われるか分からないので、すぐに部屋を出る。
祖父の書斎は本宅の一階にある。
車椅子が必要なほどではないが、足が少し悪いので、階段は辛いらしい。
エレベーターを設置することも出来るのだが、祖父はこの家に愛着があるらしく、あまり手を加えたがらない。
祖父の書斎の前に辿り着いた。
シックな飾り彫りが施された、重厚な木製の扉を三度ノックする。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けて書斎に入る。
ぷん、と古い本の香りがした。
古書の並んだ本棚の前、アンティーク机の向こうに背を伸ばして座っている老人こそ、一条財閥総帥―― 一条
傍らには佐脇さんが控えている。
「帰ったか」
「はい」
「百合ケ丘はどうだ」
「有意義な時間を過ごしております」
祖父はもう六十を超えている。
なのにこの圧倒的な威圧感は何なのだろう。
祖父とのこれまでを考えれば仕方のないことなのかもしれない。
声が飛んでくる度に、あの鞭の音が聞こえてくる気がする。
「そうか。ならこの報告は悪質な冗談だな?」
「何のことか分かりかねます」
祖父は佐脇さんに合図して、紙束を受け取った。
「入学早々、人付き合いを一切しないと宣言したと書いてある」
「!」
やはり祖父の耳に入ったか。
教師経由かクラスメイト経由かは分からないが、ああ言えば一悶着あることは分かっていた。
それにしても早い。
「冗談ではありません」
「ふむ。ならばどういうことだ?」
底の見えない暗い瞳が、まっすぐに私を射抜いてくる。
手足が震える。
「私は学問に専念したいのです」
「学問と社交は相反するものではない。両立しろ」
「そんなことはありません。交友が足を引っ張ることもあります」
「そんな輩は当然最初から切り捨てるべきだ」
祖父を説き伏せるなど無謀に等しい。
だが、ここで引いてしまっては、あんな宣言をした意味が無い。
「交友関係を削ってでも、学問に生きたいのです」
「深い教養は必要だ。だが女に第一線の学問は必要ない」
古い価値観だ。
だが、祖父の年代ではそうした考えが支配的だった。
価値観は歳をとるにつれて変えづらくなっていく。
正攻法で行っても説得は難しいだろう。
「女の身でも、学があれば一条に貢献できます」
「お前にそのようなことは期待していない」
「っ!」
家の利益になると言ってもダメか。
「家のためを思うなら、少しでも有益な人間関係を構築しろ。特に東城家は」
「私は婚約に同意していません」
「お前の同意など求めていない。これは家同士の話だ」
ダメだ。
この人には、何を言っても無駄だ。
「有効な関係を築くべき人間をリストアップしてある。後で読め」
佐脇さんが資料と思われる紙束を渡してきた。
私はそれを受け取らなかった。
「どうした」
「お祖父様。私はお祖父様の操り人形ではありません」
「……」
「自分の幸せは自分で決めます。私に自由を下さ――」
「戯言は聞きたくない」
ぴしゃりと遮られた。
「お前に住む家を与えてやったのは誰だ?」
「……お祖父様です」
「お前が毎日食べている食事は誰が与えてやった?」
「お祖父様です」
「お前が今来ている服は誰が買ったものだ?」
「お祖父様です」
畳み掛けられて挫けそうになる。
「そんなお前が自由を求めるというのか。自分の力で生きてもいない分際で」
「ですから、自分の足で立てるように学問を――」
「なら、家を出るか?」
「!」
息が止まった。
「当然、百合ケ丘にはいられんな。公立の普通高にバイトをしながら通うか」
「……」
「或いは進学を諦めて職につくか? 中卒ではろくな仕事も無いだろうがな」
「……」
一条家には既に跡取りがいる。
伯父の長男だ。
私の義務教育期間も終わっているので、世間体は悪いかもしれないが、扶養義務もない。
私一人がいなくなった所で何の問題もないのだ。
もともと勘当ENDに備えるつもりで学問に力を入れだした訳だが、それは早くても高校卒業後の話である。
親もなく、中学卒業後、働きながら高校に通っている人は、現実にいるだろう。
でも、私にはとても真似出来そうにない。
今放り出されたら、為す術もなく破滅だ。
「今の生活を諦められるか?」
「……」
「私の言う通りにするな?」
「……」
「返事はどうした」
「……分かりました」
私は――負けた。
「用は済んだ。下がるがいい」
「失礼します」
その後のことはよく覚えていない。
気がつけば自室のベッドに倒れこんでいた。
乙女ゲームの世界がどうだとか、前世の記憶がどうだとか言っても、祖父には伝わらないだろう。
どうしようもない。
昨日考えたように、冬馬との仲を進めていく方向で行った方がいいのだろうか。
恋愛対象でもない男と一生連れ添うなど、現在の感覚では考えられないが、昔はそれが普通だった。
私は冬馬に恋愛感情を抱いていないが、彼は私を好きだと言ってくれる。
好いた男と一緒になるよりも、好かれた男と一緒になった方が幸せとも聞く。
ならばやはり――。
投げやりな気持ちで、受け取った資料を読む。
冬馬、ナキ、誠、柴田先生、仁乃さんなどの見知った名前が並ぶ。
ご丁寧に背景資料付きだ。
機械的に読み進めていくと、付き合ってはいけない人物リストまであることに気づいた。
こちらは、進んで付き合うべきリストよりも随分簡素であった。
「……え?」
その中には、いつねさんの名前があった。
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