第10話 五月病。

 入学しておよそ一月が経過した。

 月も改まり、みんな新しい環境にほぼ馴染んで、段々と余裕が出てくる。

 そうなると、余計なことを考えるゆとりまで出てくるものだ。


 それまで無我夢中でやってきたことをはたと振り返ったり。

 先のことが不安になって落ち着かなかくなったり。

 どこかの誰かさんのようにホームシックになったり。


 そう、一般的には五月病と呼ばれる症状である。

 

 良く出来ているもので、丁度この頃にゴールデンウィークが来る。

 久しぶりの帰省ということで、みんな面倒だなんだと言いながらも、どこかほっとしているような空気がある。


 私は違う。


 許されるなら寮に残っていたい。

 そして心ゆくまでぼっちを堪能したい。


 遠方から入学した生徒もいるので、ゴールデンウィーク中の帰省は必ずという訳ではない。

 だが、私は実家から帰省するよう命じられているのだ。


 実家のあの張り詰めた空気を想像すると、いてもたってもいられなくなる。

 どこへ行っても、一条家の令嬢という看板からは逃れられないが、それを一層感じるのが実家である。


 一挙手一投足に気品を求められ、僅かな気の緩みも許されない。

 大抵のことは自分で出来るのに、いちいち使用人の世話にならなければいけなかったりする。

 そして何より私を落ち込ませるのが、祖父母――特に祖父の存在である。


(ああ、憂鬱だ)


 祖父は、死ぬか児童福祉施設行きだった私を拾ってくれた。

 一条家の令嬢という言葉から連想されるよりは質素であるらしいものの、まともな生活を送らせて貰えた。

 そのことには感謝の念もあるが、それでも祖父への苦手意識は消えない。

 

 私への教育は、ほぼ祖父が選んだ家庭教師が行ったが、いわゆるしつけに類するものは祖父が自ら行った。

 祖父に拾われるまで礼儀作法などまともに知らなかった私は、何度鞭で叩かれたか分からない。

 苦手意識は、文字通り身体に刻み込まれているのだ。

 祖父と私の関係は、一般的な「お祖父ちゃんと孫像」からはかけ離れたものである。


 まあ、この辺りは前世の記憶が戻る前のことなので、実際に経験したのは和泉なのだが。


 ともかく。

 ゴールデンウィークを明日に控えた夕方、私は果てしなく気分が沈んでいた。


「はあ……」

「お姉さま。先程からため息ばかりついて。何度目ですの」

「24回目」

「え?」

「いや、何でもありません」


 ため息を数える癖のことは仁乃さんも知らない。

 彼女の台詞はテンプレだ。

 具体的に数字が返ってくるとは思わなかったのだろう。


「明日からゴールデンウィークですわね。お姉さまはどこかへお出かけなさるご予定は?」

「それがね……」


 確かに、帰省したからといって、何も四六時中家にいることはない。

 外出はなかなかの妙案に思える。

 しかし、祖父は私をあまり外に出したがらないのだ。

 問題を起こさせない――これが何よりも優先される。


 社交場に連れて行かれることはままあるのだが、必ずエスコート――つまり冬馬が一緒だ。

 祖父の冬馬に対する信頼は厚い。

 ナキにはアホアホ言われているが、冬馬のスペックは非常に高いのだ。

 この上ない家柄、完璧なマナー、気さくな人柄、注目を集めてやまない容貌、そして溢れ出るカリスマ。

 散々袖にしている私が言うのはなんだが、冬馬は超優良物件なのである。


 対する私への評価といえば、血統だけは超一流な、冬馬の金魚のフンである。

 家柄、マナーはまあ問題ないが、人柄や容姿、カリスマなどはまるっきり庶民だからである。

 祖父が徹底したお嬢様教育を施したとはいえ、所詮は後付の付け焼き刃。

 幼少期に一般人として育った私には、真の意味での令嬢としての素養がない。


 そんな私を、何故か冬馬は好きだと言ってくれる。

 理由は、実はよく分からない。

 前世で読んだ設定資料集にも詳しいことは書いていなかったし、和泉としての記憶にも確かなものはない。

 

 それを喜んだのは祖父である。

 口に出して「失敗作」と呼ぶ母の忌むべき子である私を、東城家の嫁に出来るかもしれない。

 祖父は積極的に冬馬と私の仲を推し進めた。


 景気は上向きつつあるというが、まだまだ予断は許さない状況が続いている。

 もともと協力体制にある一条家と東城家だが、血縁ともなれば未来はより盤石のものとなる。

 祖父には、そんな思惑があるらしい。


 伝統と格式はあるが、新しい風と国外へのパイプを求める一条家。

 若さと「外交」はあるが、伝統や格式が欲しい東城家。

 両家の利害は一致している。


 現代日本にあっても、名家の令嬢は、政略結婚の運命から逃れられないことが多い。

 散々批判されることだが、日本の企業風土において、血のつながりはまだまだ大きい。

 まして、実際に相互に恩恵があるとなれば、文句の出ようはずもない。


(まあ、ご破産になるのだけどね)


 冬馬は非常に高い社交性を備えているが、それが裏目に出るのだ。

 彼は面白いと思った人間と、男女を問わず非常に親密になる。

 自分を一番に想って欲しい和泉は、それに耐えられなかったのだ。


 彼女は冬馬に近づく(実際には冬馬が近づいた)人間に対して牙を向いた。

 そんな彼女のことを、冬馬は当然よくは思わない。

 二人の距離は徐々に開いていき、ある日、決定的な決裂を迎える。


 これにはナキが関係している。

 タイプはだいぶ違うが、ナキは冬馬の一番の親友である。

 冬馬とナキの関係は、冬馬と私とのそれよりも古い。

 

 ナキの家は音楽一家で、父はピアニスト、母はバイオリニストである。

 共に世界をまたにかける超一流のアーティスト。

 芸術の力は家の格差を覆す。

 むしろ、高い家柄の者ほど、芸術についての教養が求められる。


 それに、東城家とナキ一家の繋がりは、そういった打算以上のものである。

 冬馬の父とナキの父は、子ども世代と同じく親友なのだ。

 冬馬とナキはまるで兄弟のように育った。


 そして、そんなナキを、和泉は排斥しようと企むのである。

 具体的には、彼の左手をダメにするのである。

 バイオリニストにとって左手は命も同然である。

 和泉の凶行によって、ナキは音楽家生命を断たれるのだ。

 

 激怒した冬馬は、一条と東城の家同士の意向を無視して、婚約などなかったように振る舞うようになる。

 当然だろう。

 当然だが、逆に言えばそんな蛮行に及んでしまうほどに、和泉は冬馬のことが好きだったのだ。


(うん? でも……あれ……?)


 私はそこでふと思った。

 前世の知識を持ち、ゲームとは違った人格となっている私なら、その流れを変えられるのではないだろうか。

 ナキの左手を傷つけることなく、冬馬と結ばれる未来が、あり得るのではないだろうか。


(でもなぁ……)


 私は恋愛感情というやつがよく分からない。

 和泉の記憶を持っているので、知識としては知っているはずなのだが、実感が湧かない。

 単純な好悪の感情なら分かるのだが。


「仁乃さん」

「なんですの? お姉さまから話しかけてくるなんて入学以来初めてではありませんの」


 帰省の荷造りを終えて紅茶を飲んでいた仁乃さんに、ぼんやり考え事をしながら尋ねてみた。


「人を好きになったことってある?」

「ぶっ!」


 仁乃さんは紅茶を吹き出した。


「な、なんですの、いきなり。あ、いえ。恋バナならむしろ望むところですけれど」

「うーん。恋バナっていう訳じゃないんだけど……」

「違いますの?」

「何ていうかね、リアリティがないなって」

「恋愛の?」

「そう」


 汚れたテーブルをフキンで拭った仁乃さんは、少し真面目な顔になった。


「そうですわね……。例えば、私はお姉さまをお慕いしておりますが――」

「あ、うん。やっぱりいいや」


 参考になりそうにない。

 私は我に返った。

 ナキの左手を壊すのは絶対に避けるとして、冬馬のことはまた別の機会に考えよう。

 今は帰省のことだ。


 とはいえ、帰る他に道はない。

 憂鬱だが、たった数日のことである。

 せいぜいおとなしくして、お祖父様のお叱りを受けないように過ごすことにしよう。

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