47話 結審

 納刀被告が席に戻り、着席したのを見届けると、一呼吸おいて、新島裁判長さんが言いました。



「それでは、これにて結審します」



 その言葉が放たれた途端、裁判が始まってからずっと、この806号法廷内にピンと張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ気がしました。



「次回判決期日は、○月○日午後1時ということで、検察官、よろしいでしょうか?」


「お受けいたします」


「弁護人はいかがですか?」


「お受けいたします」



 検察官、弁護人双方の同意を得ると、新島裁判長さんはこっくりと頷き、



「それでは、次回は○月○日午後1時に、当806号法廷にて判決を言い渡します。

 本日は、これで閉廷します」



 いつも通り、全員が起立し礼をした後、退廷する私たちと法壇を挟んだむこう側では、刑務官に手錠と腰縄を装着され、相変わらず覇気のない表情で被告人用の出入り口から退廷して行く納刀被告の姿がありました。


 荷物を纏め足早に席を立ち上がる記者や傍聴人の皆さんを、手際よく誘導する事務官さんたちの様子とは対照的に、愛する我が娘の身体と心に大きな傷を負わせたその男の一挙一動を、座ったまま微動だにせず睨み付けているAさんのご両親。


 その一方で、結審したばかりの余韻を堪能する一部の傍聴マニアの方々もいたりと、ここに居合わせた人々の様々な思惑が入り交じり、雑然とした雰囲気に包まれていました。


 お互いの主張が真っ向から対立していることから、色んな人間模様を垣間見た公判でしたが、これですべての審理が終了し、法廷は判決を待つ段階へと移りますが、本当の意味での私たちのお仕事は、まさにこれからが本番。


 明日からは第6評議室の中で、外部と遮断されての業務に移行するため、しばらくの間、この806号法廷ともお別れ。次にここを訪れるのは、判決の日になるのです。





 法廷を出て、私語厳禁の長い廊下を移動し、第6評議室のドアを開けた瞬間、



「ああ~~っ! 疲れた~~!」



 大きな声でそう発したのは、新島裁判長さん。


 外見からは威風堂々として見えますが、やはりこの中で一番頭も気も遣うのは、言うまでもなく最高責任者である裁判長さんであり、その重責たるや、私たち一般市民には計り知れないものがあるのも事実。


 一先ず、公判と言う重責から解き放たれ、思わずそう叫びたくなる気持ちも、分からなくはありませんし、そんな人間的なところもまた、彼の魅力だと思えるのです。


 私たちも後に続いてなだれ込むように室内に入ると、あちこちから解放感に満ちた声が漏れ広がりました。



「お疲れ様です~! 一先ず、第一段階終了ですね~」


「皆さんも、リラックスしてくださいね~」



 熊野さんと稲美さんのお二方は、急いで法服をクローゼットに仕舞い、まだ法服を着たままテーブルに突っ伏している裁判長さんを横目にお菓子を配り始め、私たちも手分けして飲み物を用意して、一旦休憩となりました。


 私たちとは別ルートで、少し遅れて評議室に戻って来た司法修習生四人も合流し、みんなで一緒に疲弊した脳の疲労回復と栄養補給。美味しそうにスイーツを頬張る彼らを、愛おしそうに目を細めながら見詰める裁判員2番(女将)さん。



「何か、この時間が一番落ち着きますね」


「そうですね。こうしていると、裁判所にいることを忘れそう」



 そう話し掛けて来た裁判員4番(銀行員)さんに、にっこりと頷きながら答えると、左隣に腰掛けた熊野さんも、



「ホント、こうしていると、僕も裁判所にいることを忘れそうです」


「え? ご自身の職場ですよね?」


「いつもは違うんですか?」


「通常、法廷から戻っても、こんなふうに談笑するなんてありませんからね」



 確かに。ここへ来て、何より驚いたことの一つとして、いつでも好きな時に食べられるように、たくさんのお菓子や飲み物が用意されていたことでした。


 いつの間にか、それが当たり前のようになっていましたが、そもそも裁判所はカフェのような場所ではないのですから、一般市民である私たち裁判員が居心地よくお仕事が出来るよう、いかに裁判所側が環境を整え、気遣ってくださっているかということなのです。





 しばし歓談しながら休憩した後、新島裁判長さんがおっしゃいました。



「あらためまして、皆さん、お疲れ様でした。これで、一通りの審理を終えまして、次回からは評議に移ることになります。

 初公判を終えた日、皆さんに納刀被告の第一印象をお聞きしましたが、その後、彼に対する皆さんの印象は変わりましたか?」



 その問いかけに、頷く人、首を横に振る人、皆さん様々な反応です。



「そこでですね、今感じているそれぞれの印象で構いませんので、彼が有罪か無罪か、練習を兼ねて、評決を取ってみたいと思うんです」



 すぐさま、手分けして付箋を配り始める熊野さんと稲美さん。裁判官3人にはピンク、裁判員6人には黄色、補充裁判員2人にはブルーの付箋が、一人につき一枚ずつ手渡されました。


 一応、個人が特定されないよう、無記名で、『有罪』か『無罪』かだけを書き込むように指示された私たち。


 黄色の付箋を前に、私は迷うことなく『有罪』の二文字を記入。全員が記入し終わると、ふたたび熊野さんと稲美さんによって回収された付箋が、ホワイトボードに貼り出されたのですが、



「え…?」「嘘でしょ…?」「マジ?」「誰…?」



 色別に貼り出された付箋の中、一枚だけ黄色の付箋にあった『無罪』の文字に、室内がざわめきました。



「え~、一応、個人を特定しないということですが、もし差支えなければ、ご自身が記入された内容について、ご意見を頂ける方はいらっしゃいますか?」


「はい、裁判長」



 新島裁判長さんの問いかけに、挙手したのは、裁判員4番(銀行員)さんです。



「4番さん、どうぞ」


「私が『無罪』と書きました。ただ、本心から無罪だと思っているわけではないことだけ、お伝えしたくて」


「具体的にお話し頂けますか?」


「はい。実は学生時代にディベート部にいまして、ディスカッションをするにあたって、反対の立場からの意見があったほうが、見落としや思い込みを回避出来ると思うんですよね」


「なるほど。それで、4番さんが否定側の役を引き受けてくださると?」


「否定側の立場からも、間違いなく納刀被告が有罪だと証明したいんです。私自身にも、被害者と年齢の近い娘がいますので、とても他人事じゃないですから」



 その言葉に、拍手が沸き起こりました。



「4番さん、カッケーっす!」「本当、男前だわ~!」


「いやいや、へなちょこなので、すぐに白旗を上げるかも。皆さんお手柔らかにお願いしますね」


「はい! 私が論破します!」



 そう言ったのは、裁判員1番(女子大生)さんでした。



「一番さんも、ディベートを?」


「いいえ、まったく経験ありませんけど?」


「え?」「じゃ、何で?」


「ていうか私は、被害者の3人の女性たちと年齢が近いこともあって、あの納刀って男が、マジ許せないんですよね。多分、あの男は間違いなくやってると思うんです。だから…」


「私も、1番さんに同感よ」



 穏やかな口調で、微笑みかける裁判員2番(女将)さん。



「私も、ディベ…? ディ何とか、っていうのは分からないけれど、要するに、被害者の女の子たちが言っていることが正しいということを、今ある証拠から証明出来れば良いということなのよね?」


「ええ、その通りですよ。どちらの言っていることが、より整合性があると感じるかを、皆さんの感覚でジャッジして頂く、それが裁判員裁判なんです」


「もし、『あった』とも『なかった』とも判断出来ない場合は、被告人に有利になるんでしたよね?」



 私の問いかけに、頷く裁判官のお三方。



「死ぬほどの勇気を奮い立たせて訴えた彼女たちの思いを、私たちも真剣に受け止めなければいけないと思いますから、『分かりませんでした』で終わらせたくないんです」


「賛成!」「同感です!」


「僕も同感です」



 そういうと、隣の席の熊野さんも、にっこり笑って頷きました。



「それでは、次回から事件についての評議に入ります。週末はゆっくり休んで、英気を養ってくださいね。本日はお疲れ様でした」


「お疲れ様でした」



 こうして公判の全工程が終了。いつものようにお三方に裁判所玄関入り口で見送られ、それぞれが帰路に着きました。





 この日のニュースでは、今朝撮影された映像とともに、私たちが担当する裁判で、検察から懲役20年が求刑されたと報じていて、裁判官のお三方や、検察官、弁護人、書記官のみなさんが映っている様子を見ていたときでした。



「で、こうめさんはどこに座っているの?」


「えっと、向かって右側の裁判官さんの、ふたつ隣の席かな」



 夫に尋ねられ、そう答えた私。


 ふと、自分もあの場所に座っていることが、今更ながら不思議に思え、まるでもう一人の自分を眺めているような感覚に陥ったのでした。



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