41話 被告人質問:弁護人側
806号法廷控室で待つ間、いつものお三方がいない環境に、居心地の悪さや不安を感じ始めた私たち。あたまどりは2分ということでしたが、それ以外にも機材等の撤収に時間が掛かるのか、待っている時間がやたらと長く感じられます。
考えてみれば、私たちのような一般市民が、裁判員という重責をこなしていられるのも、裁判官お三方の手厚いフォローがあってのこと。一見威圧的にも感じられるあの真っ黒な法服に、どれだけ安心感を与えられていたのかを、今更ながら実感するのです。
そんな空気を破ったのは、裁判員4番(銀行員)さんの一言でした。
「何だか、すっかり裁判に出ることが常態化してて、感覚が麻痺してましたけど、よく考えたら、これって凄いことですよね」
「そうよね~。裁判官と同じ席に座るなんて、普通じゃあり得ないことだもの~」
「同じ空間に、凶悪犯までいますもんね!」
「まだ、今の時点では『推定無罪』ですけどね」
「あ、そっか」
「あはは」「ふふっ」
そんな他愛ない会話で、一気に空気が和みます。こんなことは、これが初めてではなく、彼の気遣いには何度も助けられていました。
例えば、感想や意見を求められて躊躇していると、自ら率先して発言し、後の人が続きやすくしてくれたり、さっきのように、他愛ない言葉を掛けて空気を和ませたりと、裁判官お三方を含め、全員からの信頼も厚い人です。
「5番さん、ちょっといいですか?」
「はい?」
4番さんから声を掛けられ、振り向いた私。
「ちょっと、ご相談というか、お願いがあるんですけど」
「私にですか? 何でしょう?」
「じつは…」
そう言い掛けたところへ内線電話で連絡が入り、続きはまた後ほどということに。
急いで配列を整え直すと、打ち合わせ通り、事務官の荒川さんが大扉を開け、先に入廷していたお三方を除いた私たち裁判員だけで、一列になって入廷したのです。
…が、いつもと勝手が違ったためか、ここでちょっとしたハプニングが発生。私の前を行く裁判員6番(中央市場仲卸)さんが、本来は左側へ進むところを、その前を行く裁判員3番(元大学教授)さんに続いて右側へ行こうとしたのです。
咄嗟に、背後から左側へ引っ張った私。
すぐに6番さん自身も間違いに気づき、ほぼ周囲に気付かれることなく進行方向を修正し、事なきを得ましたが、着席してすぐ、6番さんからは『助かりました!』、4番さんからは『good job!』のメモが回って来ました。
傍聴席は満員で、いつもの席にはAさんのご両親のお姿があり、中央にはマダムローズも鎮座。他にも、毎回傍聴している記者さんや、傍聴マニアらしき方々など、すっかり顔馴染みになっているメンバーも勢ぞろいしています。
こうして公判に臨むのも今日で最後になるのだと思うと、何だか感無量といった気分です。
「それでは開廷します。被告人は、証言台の前に立ってください」
新島裁判長さんに促され、一斉に全員の視線が注がれる中、おずおずと証言台に進む納刀被告。
ここまでの裁判の流れの中で、彼が発言したのは『人定質問』と『罪状認否』のときのみ、それ以降の証拠調べの間に、発言する機会は一度も与えられていませんでした。
この『被告人質問』では、納刀被告に対して、先ずは弁護人、続いて検察官、最後に裁判官と裁判員の順に、直接事件に関する質問を行うことから、被告人にとっては、法廷で自らが発言出来る最初で最後のチャンスとなります。
但し、何でも自由に話せるわけではなく、他の証人同様、あくまで訊かれたことに対してのみ答えるという形式。
その結果により、大きく判決に影響するだけに、如何にして、私たち裁判員や裁判官の心証にアピールするのかが大きな鍵となるため、弁護人側、検察側ともに、自分サイドに有利な発言を引き出そうと必死です。
特に弁護人側は、ここで一気に形勢逆転を勝ち取りたいところ。これまでの証人尋問とは比較にならないほど、双方ともにぴりぴりとした空気が張り詰めていました。
「それでは弁護人、被告人質問を始めてください」
「はい、裁判長」
そう言って立ち上がったのは、目黒さん。
その一方で、相変わらず何を考えているのか分からない表情で、全くと言っていいほど覇気が感じられない納刀被告。
特に緊張している様子もなく、また『諦め』や『投げやり』とも違う感じでしたが、いかにもやる気がなさそうな雰囲気に見え、こんな状態で被告人質問をやって本当に大丈夫なのだろうかと、こちらが心配になるほどでした。
「納刀被告、あなたはAさん、Bさん、Cさん、それぞれの女性に対し、本人の同意なく性交渉を強要した上、怪我をさせたとされていますが、これは事実ですか?」
「いえ、事実ではありません」
「では、どこが事実と違うのか、詳しく説明してください。まず、Aさんに関して、彼女と出会った状況から、お願いします」
「はい。私が彼女と出会ったのは、そう、彼女の自宅の前だったと思います。その際、彼女のほうからにこにこしながら近づいて来て、私に援助交際を持ちかけてきたんです」
口を開いた途端、先ほどまでのやる気のない態度が一変、まるで水を得た魚のように、目を輝かせながら、嬉々として当時の出来事を語り始めた納刀被告に、驚きを隠せず、ざわつく法廷内。
「静粛に! 弁護人、続けてください」
「はい、裁判長。被告人、そのときの状況を、もう少し詳しく」
「袖口をツンツンと引っ張られたので、何かと思って振り向くと、天使みたいな可愛い笑顔で、『援交しませんか?』って誘われたんです」
「児童買春は犯罪ですよ? あなたは拒否しなかったんですか?」
「無理ですよ、そんなの。いくら犯罪だと分かってても、あんな可愛い顔で、腕を絡めて見上げるようにして誘われたら、男ならそりゃ誰だって応じてしまいますよ。私も、気が付いたら家の中にいたという感じでしたから」
事情を知らずに聞いていたら、そのままストンと信じてしまいそうなほど、聞き手を惹きつけるような口調で能弁に語り、加えて穏やかな声色からは、とても凶悪な犯罪を犯すとは思えない印象を受けるのです。
その後も、性交渉した際の状況を逐一語り、どんなふうに自分たちが楽しんだのかを情熱的に表現する様子は、嘘とは思えないほどの臨場感に溢れ、徐々に誰もが彼の話に引き込まれて行きました。
当初の罪状認否で話した通り、Aさんについては、彼女のほうから『援助交際』を持ちかけられて応じ、その後、家にいたくないと言って自ら付いて来た彼女と、数日間一緒に過ごしたと主張。
Bさんについては、自分の好みのタイプだったので、一晩のお相手にと納刀被告から声を掛け、車中で関係を持ち、飲み物を買いに出ている間に車からいなくなったため、一人で帰ったのだと思ったと主張。
Cさんには、不注意から車をぶつけてしまい、病院へ送ろうとすると、本人から、大した怪我じゃないので、お詫びにドライブに連れてって欲しいと言われ、その途中で検問中の警察に職質され、無免許だったので、とっさに逃げてしまったと主張したのです。
「では、単刀直入に伺いますが、あなたにとって三人の被害者は、単なる遊び相手だったという認識ですか?」
「そんなことはありません。相手の方さえ良ければ、私のほうは真剣に交際するつもりがありました」
「真剣な交際とは、具体的にどういったものでしょうか?」
「勿論、『結婚を視野に入れた交際』という意味です」
「結婚ですか」
「はい。お恥ずかしい話、私には二度の離婚歴があり、そう言う意味では、自分でも結婚には向いていないのかもしれないと思う部分はありますが、暖かい家庭というものに強い憧れがあるのも事実なんです」
「なるほど」
「何より、誤解がもとで、幼い頃から心配ばかり掛けてきた高齢の母親を、一日も早く安心させてやりたいというのが、私自身の本音です」
目頭を押さえながら、そう言った納刀被告。
答え終えた瞬間、不意に唇の片側だけに小さな笑みを浮かべたのです。おそらく、本人さえも気付いていないほどの、僅かなアクションでした。
「以上です、裁判長」
「被告人は、元の席に戻ってください」
「あ、はい…」
弁護人側からの質問が終わった途端、あの饒舌ぶりが嘘のように、再び覇気のない表情へと逆戻りした納刀被告。この男の本性を含め、いったい何が真実なのか、法廷内に混乱が広がります。
一つ言えるのは、一般の証人と違い、法廷で被告人が嘘の供述をしても、偽証罪に問われることはないということ。
もし嘘がバレれば、裁判官や裁判員への心象が悪くなるので、少なからず判決への影響はあるものの、それ自体は別段珍しいことではありませんが、問題は嘘をついたかどうかということではなく。
というのも、通常、嘘をつけば話に矛盾が生じたり、挙動不審になったりするものですが、彼にはそういった兆候は感じられず、それでも、被告人と被害者の主張が真っ向から対立している以上、どちらかが嘘をついているのは紛れもない事実なのです。
私個人的には、納刀被告が嘘をついていると確信したものの、それが正しいとすれば、この『法廷』という特殊な場所で、臆することなく、まるで舞台の表現者であるかのように、嬉々として嘘の主張が出来るメンタリティー。
さらに、証言中とそれ以外の状態での、別人かと思うような態度の違いが意味するものが何なのか。
以前、新島裁判長さんが納刀被告の印象を『掴みどころがない』とおっしゃっていた意味が、実感として理解出来た気がしました。
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