33話 第六回公判(6日目)
裁判員6日目。昨日の豪雨と打って変わって、朝から雲一つないカンカン照り。気温も朝から上昇し、まだ梅雨真っ只中というのに、予想最高気温は30度を超えるとのこと。
湿度も相まって、身体が付いて行きません。
私たちが選任された刑事第6部裁判員裁判は、全日程が10日間のため、昨日で半分が終わったことになります。
当初は、お互いの名前すら明かされない状況で、上手くやって行けるのかという不安もありましたが、今では『○番さん』と呼び合うことへの違和感もなくなりました。
裁判所の表玄関は、概ね8時半頃開かれますが、関係者用通用口はもっと早くから開いており、皆さん8時過ぎには登庁されて、始業までの時間をとりとめのないお喋りで盛り上がるのが日課のようになっています。
話す内容も、時事ニュースから芸能人のスキャンダルネタまで色々、中には会社や家庭、友人関係の愚痴もあり、お互いの素性を知らないからこそ、踏み込んで話せることもあるのです。
そんな今朝の話題の中心は、裁判員3番(元大学教授)さん。
「じつは、昨日の裁判に、うちの家内と娘が傍聴に来ていたんですよ」
「奥さんと娘さんが!?」「えっ! マジっすか!」
「おっしゃってくださればよかったのに~」
「一度、実際に裁判を見てみたいとは言っていたのですが、まさか本当に来るとは思っていませんで、帰りに外で声を掛けられて、びっくりした次第でした」
「公判の後、僕たちが評議室から出て来るまで、ずっと待っておられたんですか?」
「ええ。家内が言うには、娘とふたりで食堂でお茶をしたり、庁舎内をあちこち見学したりして、時間を潰していたそうです」
すると、少し不安そうな表情で尋ねる、補充裁判員2番(車ディーラー)さん。
「けど、家族の人って、裁判を見に来ても大丈夫でしたっけ?」
「それでしたら、全然問題ありませんよ」
ちょうどそこへ、評議室に入って来たお三方と司法修習生たち。
にこやかに朝の挨拶を交わしながら、そのことについて、新島裁判長さんが説明してくださいました。
「皆さんが裁判員に選ばれたことを、ご自身のご家族や、仕事関係の方、親しいお友達に話すことは、まったく問題ありませんし、裁判は公開されていますので、どなたが傍聴に来られても自由です」
「それを聞いて、ホッとしました」
安堵の表情を浮かべる、裁判員3番(元大学教授)さん。
「但し、以前にもお話しした通り、ご自身が裁判員であることを、公共の場で公言したりすることはNG、これには、不特定多数の方が閲覧出来るような掲示板に書き込んだり、ご自身のSNSなどで発信したりすることも含まれます。
それから、法廷で遣り取りされた内容を話すのはOKですが、この評議室の中での発言内容に関しては、たとえご家族であっても、外部に漏らしてはいけないことになっています。内容によっては、刑事罰が科せられることもありますので、ご注意くださいね」
「ヤバ! 私、ちょっと旦那に喋っちゃったかも…」
「自分も。嫁に訊かれて、ざっくりとですけど…」
焦った表情でそう言った補充裁判員1番(育休中ママ)さんと、裁判員6番(中央市場仲卸)さん含め、同様に『ヤバイ!』という顔をしている私たちに対し、可笑しそうに笑いながらフォローするお三方。
「ちょっとくらいなら、大丈夫ですよ。人間ですからね、家族だとつい気を許しちゃうことはありますから」
「それに、今はまだ、公判の内容をおさらいしている程度ですし、一言一句漏らさずに、すべて話したわけじゃないでしょうから、心配しないでください」
「良かった…!」
「ただですね、裁判が結審した後、本格的な評議が始まりますが、そこでどんな遣り取りがされたかや、誰がどんな意見を出したかなどはご内密に願いますね。後、個人情報等は、特にお願いします」
「はい!」「分かりました!」
「以後、気を付けますわ~」
裁判長さんがおっしゃった『個人情報』の一つは、被害者や証人の方たちです。
公判では、AさんBさんなどの仮名になっていますが、手元にある裁判資料には、実名はもとより現住所や生年月日その他、詳細な情報が記載されており、とりわけ納刀被告に至っては、戸籍抄本の写しまで添付されていました。
私たちは、そうした情報を見られる立場にあるため、万が一、自分の軽率な発言で外部に漏らしてしまい、悪意のある第三者に伝わりでもしたら、取り返しのつかない事にもなりかねません。
そしてそれは、私たち裁判員の個人情報に関しても同じ。
親しくなるにつれ、ある程度は自分の素性を伝えあってはいますが、実名や住まいなどのプライバシーを公開しないように推奨しているのは、もし後で何らかのトラブルがあった場合を考えてのこと。
例えば被害者や加害者、その関係者などから、強い恨みを買うようなことがあった場合、最悪、芋づる式に私たち個人が特定されることを防ぐための、裁判所の配慮なのだと思います。
「それでは、ミーティングを始めたいと思います」
本日の予定は、午前中にAさん(女子高生)とBさん(OL)、午後からはCさん(女子大生)に対する被害者本人への証人尋問、その後、納刀被告の母親による情状酌量を求める陳述書の読み上げが予定されていました。
今回も、被害者本人への配慮から、高校生であるAさんは、前撮りされた『ビデオ録画』による証人尋問で、直接法廷に立つことはありません。
また、Bさんは別室に待機し、モニター越しに法廷と中継する『ビデオリンク方式』での証人尋問で、同じ裁判所の中にはいますが、私たちのいる806号法廷には来ません。
そして、Cさんは本人の希望で、自ら証言台に立つとのこと。但し、プライバシー保護の観点から、衝立で遮蔽しての証人尋問となります。
最後に、納刀被告の母親ですが、高齢であることや、現在の住まいが裁判所から少し遠いことに配慮し、陳述書は弁護人側が代理で読み上げるとのこと。
「今日の法廷は、もしかすると少し荒れるかも知れません。Bさんは、部屋は別とはいえ、また、Cさんに至っては、衝立で隔てられただけの同じ空間に、納刀被告本人がいるわけですからね」
「違う部屋だって、私なら堪えられないかも」
「そうよね」
裁判員1番(女子大生)さんの呟きに、大きく頷く女性陣。
「緊張や恐怖で、フラッシュバックを起こすことも考えられますので、その際は、すぐに休廷します。どうか皆さんも慌てずに、冷静に対処して下さるよう、ご協力をお願いしますね」
「はい」「分かりました」
「それでは、本日もよろしくお願いいたします」
いつものように身支度を整えると、もうすっかり通い慣れた迷路のような廊下を抜け、806号法廷に向かった私たち。
室内に入った瞬間、何かいつもと違う雰囲気を感じつつ、着席して間もなく、一枚のメモが回されて来たのです。そこには、新島裁判長さんの手書きで、
『中央、マダムローズ』
と書かれた文字。
見ると、傍聴席のちょうど中央付近に、大きな薔薇の髪飾りを付け、薔薇柄のピンクのワンピースを着用した中年女性の姿がありました。そう、彼女こそがこの裁判所で最も有名な傍聴マニア、『マダムローズ』さんです。
民事、刑事、地裁、高裁、家裁と、日々いくつも開廷されている裁判の中で、いつどこに現れるかは本人の気分次第。神出鬼没で、何か月も姿を見せないこともある彼女にお目に掛かるとは、ましてや、自分たちの裁判員裁判を傍聴しに来るとは。
初めて目にしたその姿は、異様ともいえるオーラを発し、明らかに周囲から浮いていましたが、威風堂々とした彼女の風格に、周囲の傍聴人の方々はじめ、法曹三者の皆さんも敬意を表しているようでした。
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