32話 科学捜査研究所
第6評議室に戻ると、先ずは疲れた脳をお菓子でリフレッシュしてから、本日の公判の内容をおさらいした私たち。
「Bさんの場合、納刀被告の車に乗ってから、大怪我をした状態で、自ら派出所に逃げ込んで保護されるまでの間、目撃証言がほとんどない状況ですからね。AさんやCさんと比べても、現状の証拠だけで強制性行があったと認定出来るかは、なかなか難しいかも知れません」
Bさんの主張では、会社から待ち合わせ場所へ途中、道を訊くふりをした納刀被告に車で連れ去られ暴行。被告が車を離れた隙を見て逃げ、近くの交番に駆け込み保護されたのですが、逃げる際、斜面から滑り落ち怪我を負ったというもの。
一方、納刀被告の主張は、たまたま見かけたBさんが自分の好みのタイプだったので、一晩のお相手にと自分から声を掛け、交渉が成立し車中で関係を持ち、飲み物を買いに出ている間に、Bさんが一人先に帰ったというものです。
「納刀被告のほうも、性交渉があったと供述していますので、体液が検出されても矛盾はないんですよね」
「けど、どう考えても限りなくクロっすよね?」
「他の被害者の数だって、尋常じゃないものねぇ」
と、補充裁判員1番(車ディーラー)さんと、裁判員2番(女将)さん。
「ですが、以前にも言ったとおり、仮に100件中99件が強制性行だからといって、法廷で見聞きした証拠にもとづいて『犯罪の証明があった』と立証出来ない限り、残りの1件も有罪! とはならないんですよ」
「推定無罪の原則、ですか…」
溜息交じりにそう呟いた裁判員4番(銀行員)さんに、新島裁判長さんもこっくり頷いて続けました。
「ポイントは、Bさんが抵抗や拒絶した、もしくは抵抗出来ないほどの恐怖を伴う状況があったと認められるかなんですよね。何しろ、車の中という密室で起こっていることですから、本人たちの証言と、数少ない証拠の中で判断しなければならないんです」
「生憎、拉致現場付近や公園の駐車場に防犯カメラがなかったので、決定的な映像がないんですよ」
「唯一と言っていいのが、Bさんの怪我なんですよね」
と、熊野さんと稲美さん。
それが偶然なのか、それともあえて防犯カメラがない場所を選んでの犯行なのか、いずれにしても手口が巧妙に思え、弁護人側も必ずそこをついて来ることが目に見えています。
「だとすると、志摩先生がおっしゃっていた、Bさんの顔と首筋に付いた傷痕がどうして出来たのか、気になりますね」
「Bさんの傷が納刀被告の爪痕かどうかや、どうやって付いたかを、科捜研で調べて貰うことは出来なかったんですかね?」
「それだ!」
「そうよね、科捜研なら分かるはずだわ!」
騒めき立つ私たちに、熊野さんが説明してくれました。
「よく皆さんそうおっしゃるんですけどね、実際には、そこまで精密な鑑定は難しいんですよ」
「え? でも、よく被害者爪から検出されたDNAが、被疑者のものと一致して、犯人の身体の傷痕が動かぬ証拠、みたいなのありませんでしたっけ?」
「傷口の形状が一致したとか、ドキュメントやドラマで見ますよね?」
「確かに、鋭利な刃物と傷口の形状の一致だとか、人体でも、歯形や手形ならいけそうですが、よっぽど特徴がない限り、爪痕は難しいでしょうね」
「そうなんだ…」
「もっと言うと、サスペンスドラマで死亡推定時刻をごまかすために、アリバイ工作とかするじゃないですか? 司法解剖だと、実際にはせいぜい1日前後が良いとこなんですよね」
「マジ!?」「そうなんですか!?」
「亡くなって数時間以内なら、死体の状態から推測することは可能ですけど、季節や環境や個人差もありますから、24時間以上経過してしまうと、ズバリこの時間に亡くなったと断定するのは、かなり難しいんですよ」
「知らなかった~!」
「それじゃ、せっかくのアリバイが役に立たないですね」
「なので、状況証拠と併せて、だいたいの死亡推定時期を割り出すんですよ」
「そっか~、短時間のアリバイは使えないんですね~」
「じゃ、丸1日以上のアリバイを作らなきゃ」
「あと、状況証拠に壊れた時計とかっすかね?」
「メールの着信履歴も忘れずに!」
「ちょっとちょっと、皆さん、何やる気になってるんですか~!」
思わず、全員で大笑い。
すると、おもむろに立ち上がった新島裁判長さん。ホワイトボーに『科捜研』と書くと、
「科捜研とは? 最上くん」
突然のご指名にも動じることなく、すっくと立ち上がる司法修習生の最上くん。
「はい。科学捜査研究所の略称で、事件で押収された証拠を、『法医学』『化学』『物理』『文書』『心理学』の各分野で、専門的な知識をもって分析します」
「はい、ご名答」
完璧な回答に、賞賛の拍手を送る私たち。多分私なら、名称を答えるだけに留まったに違いなく、それすらも正解できるか怪しいものです。
以前、藤里くんも同様のことがありましたが、彼らの知識と頭の回転の速さには驚くばかり。ふと、莉帆ちゃんも彼らのようにちゃんと答えられるだろうかという、身内ならではの心配が頭を過りました。
「科捜研は、主に各都道府県警察刑事部に設置されていまして、そこで働く研究員の多くは警察官ではなく、『技術職員』という立場の方々なんですね。なので、残念ながら捜査権や逮捕権は持っていないんですよ」
「よく科捜研と混同されがちなのが『鑑識』ですが、鑑識官は刑事部鑑識課に所属するれっきとした警察官なんですよね。基本的な鑑識の技術は、警察官なら誰でも身に着けているんですよ」
稲美さんの補足に、すごく納得した私たち。
犯罪現場で採取された遺留品は、まず『鑑識』で分析が行われますが、より正確な分析が必要となった際に『科捜研』に送られ、さらに科捜研では扱えない大規模な分析が必要な場合には、『科学警察研究所』(科警研)が担当するとのこと。
ちなみに、鑑識官や科捜研職員は、都道府県警に所属する地方公務員なのに対し、科警研職員は警察庁刑事局所属の国家公務員、いわゆるキャリア組です。
「私、リーガル系や刑事系のドラマが大好きで、よく観てるんですけど、実際は大分違うんですね」
「自分も、すっかり信じ込んでました」
「ドラマや映画が全部事実なら、犯人は必ず崖で自白することになりますからね。ま、それならそれで、我々も楽でいいんですけど」
熊野さんの言葉に、思わず吹き出す人続出。冷静沈着な裁判員3番(元大学教授)さんや、裁判員4番(銀行員)さんまでもが、お腹を抱えて大笑いです。
「まあ、確かにドラマに出てくるような研究員さんはいませんが、お仕事の内容は、概ねあの通りです。
科学技術の発達によって、それまでは分からなかった事件の真相を解明出来るようになったことで、かつてのように供述だけで判断するのではなく、確かな科学的根拠によって犯罪を立証したり、逆に冤罪を防ぐことにも貢献しているんですよ」
新島裁判長さんの説明に、誰もが納得。ここにいると、普段は深く考えたこともないような事柄に触れることが、たくさんあると感じました。
「話が脱線してしまいましたが、Bさんのように圧倒的に証拠が少なく、双方の主張が食い違う場合には、皆さんで推理して、謎を解いて頂くことになります」
「謎を解く?」「推理、ですか?」
「ええ、まさに劇中で俳優さんがやってるように。善良な市民の皆さんの感覚こそが、頼りですからね」
この時は、よく意味が理解出来なかった私たち。余程のサスペンスマニアならいざ知らず、犯罪とはほぼ無縁な私たち一般市民に、犯罪者の心理が理解出来るはずもなく、まして事件の謎など、そう簡単に解けるとは思えません。
熊野さんや稲美さんも、にこにこしながら頷くだけで、新島裁判長さんのユーモアなのだろうと受け止めていました。
こうして、公判五日目も無事終了。
次回公判は、いよいよ被害者本人による証人尋問となるのですが、性被害者にとって、法廷で証言することがどれほど過酷なことなのか、私たちはその現実を目の当たりにすることになるのです。
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