28話 第五回公判(5日目)
裁判員五日目。土日にリフレッシュしようと遠出したことで、かえって月曜日が憂鬱になってしまうという悪循環。
それに追い打ちを掛けるように、駅から出た途端、滝のような雨の洗礼を受け、裁判所に到着するころには、靴の中までびしょ濡れに。大雨の洗礼を受けたのは私だけではなく、中でも一番お気の毒だったのが熊野さんです。
毎朝自転車で、3歳の息子さんを保育園に送り届けているのですが、今朝は園を出発して間もなく、大きな稲光が走った次の瞬間、けたたましい地響きとともに、近くのビルの避雷針に落雷したとのこと。
「マジで、死ぬかと思いましたよ! 同時に、土砂降りになるしで、まったく何て日だ! って感じです」
「あ、それでTシャツ姿なんですね?」
「風邪引くと嫌なので、さっき売店で買って着替えました」
「それにしても、クマさんの柄、可愛いですね」
「これしかサイズが合うのがなくて」
「ワイシャツの上から、透けて見えません?」
「法廷では、法服を着るから大丈夫です」
「そうですよね~! そのまま裁判に出たら、みんな気になって、内容が頭に入らないでしょうし」
その言葉に、思わず爆笑する皆さん。笑ってはいけないと言われている司法修習生たちも、下を向いて必死で笑いを堪えている様子でした。
「自転車通勤だと、突然の雨は困りますね」
「息子を濡らさなかったのが、せめてもの救いでした。それにしても、髪の毛最悪ですよ。僕、クセ毛だから、濡れると爆発するんですよね」
確かに、いつもとはまるで別人のように膨らんだ髪型を嘆く熊野さん。その様子を眺めながら、稲美さんも言いました。
「雨で濡れると、髪だけじゃなくて、法服も最悪なんですよね」
「法服がどうかしたんですか?」
「材質がポリエステルなので、正直、臭いんですよ」
「あれ? 裁判官さんの法服は、たしかシルク製じゃ…?」
「ところが、最近ではそうでもないんですよ」
そう言ったのは、新島裁判長さん。
そもそも、官公庁の備品は一部特殊な物を除き、すべて一般競争入札で落札した業者さんから購入することになっていて、裁判官や書記官の法服も含まれます。
複数の入札があれば、一番安い価格を出した業者さんが落札することになりますが、さすがにシルク製となると、どうしてもそれなりの価格になるため、かつては某百貨店が一手に請け負っていたそうです。
ところが近年、経費削減が提唱されるようになり、裁判官や書記官の法服の材質を『シルク』『コットン』から『シルク風』『コットン風』に緩和したことで、それまで価格で折り合えなかった多数の業者さんが参入出来るようになりました。
「ですから、私の法服は日本製のシルクなんですけどね」
「私や熊野さんのなんて、中国製のポリエステルですよ」
「支給された年代で、材質が違うんです」
「よかったら、触ってみてください」
そう言って、クローゼットから法服を取り出したお三方。
まったく同じデザインなので、一見しただけではほとんど違いはありませんが、タグを見ると、確かにそう記載されていて、よく見ると光沢が微妙に異なり、何より手触りが全然違っていました。
「シルク、さらさら!」「まるで別物ですね」
「君たちも触ってみますか?」
そう言われた司法修習生たち。彼らにとって、まさに『特別な服』になるわけですから、興味の示し方が私たち裁判員の比ではなく。弁護士志望の莉帆ちゃんも、熱心に手触りを味わっていました。
そして、驚いたことに、これを落札したのは、某ファストファッションブランドであるという噂。
さすがにタグにブランド名の記載はありませんが、囚人服なども同じブランドなのだそうで、確かに低価格と機能性の高さには定評がありますから、競争入札で勝ち抜くのも納得です。
すると、裁判員3番(元大学教授)さんが、苦笑いしながら言いました。
「何だか皆さんのお話を聞いていると、つくづく時代は変わったのだと思いますなぁ~」
「それは、どんなふうにでしょうか?」
新島裁判長さんの問いに、少しはにかんだような笑顔で答える3番さん。
「決して、悪い意味で言っているんではありませんが、私の時代には、熊野さんや稲美さんのように、ご主人が子供の保育園の送り迎えをしたり、食事や弁当を作るということは、考えられなかったもんです」
「私の主人もそうでしたわね。料理人でしたけど、家族のごはんは一度も作ったことがないし、子育ても当たり前のようにノータッチで。ホント、今の若い人たちが羨ましいわ~」
と賛同する裁判員2番(女将)さんに、新島裁判長さんも、ニコニコしながら言いました。
「かつては、男は外で働いて、女性は子供を産み育てながら家庭を守るという役割分担がはっきりしていましたからね。どんなに能力があっても、女性は結婚すると『寿退社』するのが当たり前だった風潮も、産休・育休は勿論、今は男性も育児休暇を取るべきという時代になりました」
「私だったら、おむつもまともに替えられなかったでしょうな」
「3番さん、それは慣れですよ。僕も最初は嫁に駄目出し食らってましたけど、やってるうちに出来るようになりましたから」
「え!? 4番(銀行員)さん、意外ですね!」
「自分も、4番さんは仕事一筋のタイプかと思ってました!」
「いやいや~、こう見えて僕、結構マイホームパパなんですよ。夜中のミルク作りもお手のものでした」
「羨ましい~! うちの旦那、一度寝ると絶対起きないタイプだから、夜中の授乳は、全部私一人でした」
「それは、補充2番(育休中ママ)さんが出来過ぎる人だからじゃないですか?」
「職業柄もあるんでしょうけど、安心して任せられるイメージありますよね」
「何か私、損なタイプですね」
「出来る人あるあるですね~」
今朝はそんな会話で盛り上がり、その後ミーティングに入りました。
本日の証人尋問は、午前中にAさん(女子高生)とBさん(OL)の診察をした医師、午後は被害者団体の代表、そしてBさんの会社の上司と、元婚約者による書面での上申書が読み上げられる予定です。
「元婚約者というのは?」
「事件の後、Bさんのほうから婚約破棄されているんですよ。それについて、ご本人からどうしても言いたいことがあるということなんですが…」
「何か問題でも?」
「ご本人にしてみれば、人生を滅茶苦茶にされたわけですからね。本当は、法廷で証言することを望まれていたんですが、かなり怒り心頭でおられましたので、今回は上申書という形で了承頂いたんですよ」
確かに、弁護人側の反対尋問からは、第三者の立場の私たちですら戸惑うような場面も少なくなく、証言台で冷静さを保てるかという部分を考慮すると、それがベターなのでしょう。
「とにかく、Bさんに関しては、証拠となる材料が圧倒的に少ないものですから、判断が難しいことは間違いありません。ドクターから、Bさんの全身の傷についての説明がありますから、そこからも判断材料がないか、皆さんにはしっかり考察していただきたいと思います」
「あ、それと、6番(中央市場仲卸)さんにはこれを」
そう言うと、直視出来ないほど血が苦手な6番さんのために、傷の写真をイラストにしたものを手渡した稲美さん。
そこまでするかというほど、細かいところまで気遣いをしてくださる裁判所の配慮には、本当に頭が下がります。
「ありがとうございます! 助かります!」
「よろしければコピーを置いておきますので、必要な方がいらっしゃいましたら、ご自由にお持ちくださいね」
後に、このイラストのおかげで重要な手掛かりを得ることを、これを描いた稲美さん自身も、気付いていないのでした。
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