2
そのブログの、私は唯一の読者だった。恭子おばさんの、秘密のブログ。私しか読者がいないと言い切れるのは、訪問者カウンターが毎日一ずつしか増えていないから。
誰かが検索して偶然見るということもない。パスワードがかかっている。
漫画家を目指している私にとって、親戚がプロの漫画家ということは幸運だった。アシスタントとして雇ってもらい、色々とアドバイスなども貰っていた。
三週間前、お手製のお給料袋に、一枚の紙切れが入っていた。このブログのURLとパスワードだった。
俄かには信じられなかった。雄一さんは、確かに見かけは少し怖いけれど、優しくて面白い人だと思っていた。
二人は私の理想だった。二人揃って才能があり、支え合って、愛し合っている。
「雄一さんと結婚しないんですか?」
「うーん」
「お金はあるでしょ。だいたい、今一緒に住んでるんだし」
「まぁ、色々とね……」
ブログを読みながら、いつかのやりとりを思い出していた。恭子おばさんの顔がやけに――隠そうとはしていたけれど――深刻で、その日から結婚の話には触れないようにしていた。
記事は毎日投稿された。ほんの一言だけの日もあれば、長文の日もあった。信じられないという気持ちのまま、毎日読んだ。次回作のネタでしたとか、何かのサプライズの仕込みでしたとか、そんなオチを期待していた。
先週の月曜日、仕事場にパチンコ玉が落ちていた。拾い上げると、恭子さんと目が合った。その表情で、すべて事実なのだと理解した。左手の怪我も裏付けになった。
その晩、ブログに投稿された記事のタイトルは、「佳奈へ」だった。
「私にもしものことがあったら、このブログの閲覧者用パスワードを解除して、一般公開にしてください。管理者用パスワードはメールで送ります」
それから三日後にあたる今日、恭子おばさんは死んだ。
私はそのブログの読者だったから、恭子おばさんは自殺したのではなく、殺されたのではないかと思った。
自宅で首を吊っていたということだったけれど、絞殺された後、吊るされたということだって考えられる。
雄一さんに対して殺意があることは、はっきりと文章に書かれていた。無理だと思いながらも、ついに進退窮まって――想像し難いが――雄一さんを殺そうとしたのかも知れない。そして、逆に殺されてしまった。
もう少し現実的な線として、別れを切り出したのかも知れない。それが、雄一さんの逆鱗に触れ、恭子さんが恐れていた通りの――それ以上の――事態になってしまった。
雄一さんの、私たちに見せる人懐こい笑顔でなく、ブログから読み取れる本性を思えば、かつての恋人に手をかけるということもあり得る。
ストーカー殺人。昨日もニュースで見た。自分の思い通りにならないからといって、命を奪ってしまう悪魔。病的なまでの自己中心性。
殺意や、殺人は、テレビの中だけのものではない。ましてやフィクションではない。日常と繋がっている。信じようが信じまいが、確かにそこにある。
もし恭子さんの死が自殺だとしたら、ブログにそれを仄めかす表現があったはずだけれど、私の見る限り、そんなものは見当たらなあった。雄一さんの攻撃性が伝染した……ということなのかはわからないが、ともかく、恭子さんの苦悩は攻撃的だった。内ではなく、外に向かっていた。
書けば、私が心配するから? だから、死にたいとは書かなかった? 考えられなくはないが、一番肝心な気持ちを書かないのなら、わざわざ私に告白する意味がない。
強い人だった。いつも元気で、仕事の愚痴さえ一度もこぼしたことがない。絵にも人柄が出ていた。いかにも少年誌らしい、勢いのある、男っぽい絵。
きっと自殺じゃない。殺されたんだ。でも、証拠は何もない。
――ミステリーは門外漢だけれど、自殺と見せかけた殺人が他殺だったと暴かれる、という話は何度も見聞きしたことがある。もし雄一さんが殺したのなら、警察が最後までそれに気づかないなんてことがあるだろうか? 真相はきっと明らかになる。
とにかく、恭子さんのメッセージの通り、あのブログを公表しよう。そうすれば、雄一さんが原作をやっていなかったことを世間に知らせられるし、警察の捜査も自殺には否定的になるかも知れない。
自宅を出て、駅前のネットカフェに向かう。こういうことに詳しいわけではないけれど、自分のパソコンを使うのは何となく危ないと思った。
足取りに、自然と力がこもった。恭子さんが死んだことはとても悲しいけれど、あのブログを私に託してくれたことが嬉しかった。使命感に燃えていた。雄一さんは……いや、雄一は、裁かれなければならない。
横断歩道で信号待ちをしている時、ポケットの中の携帯電話が震えた。取り出すと、雄一からの着信だった。
なんで、今? 何の用?
信号が青に変わったけれど、私は立ち止ったまま、唾を飲み込み、恐る恐る電話に出た。
「はい、佳奈です」
「よう」
雄一の声色は、普段と変わらなかった。
「もう聞いてるよな、恭子のこと」
「はい。……この度は、ご愁傷様です」
「どうしちまったんだろうな、あいつ」
「……」
「何か聞いてなかったか?」
「何か、っていうと?」
「悩みとか」
「……いえ、特に」
「そんなはずないんだけどな」
信号が、再び赤になった。
「え?」
「ちょっと前からあいつ、パソコンのネットの閲覧履歴消すようになってさ。何かあるなと思ってたんだ」
声の奥から雑音が聞こえる。雄一は屋外で歩きながら話しているらしい。
「ピンホールカメラって知ってるか? レンズが五ミリもないようなやつ。ああいうの、今は通販で買えるんだな。お前も盗撮には気を付けろよ」
声の揺れが止まった。立ち止まったのだろう。
「それでまぁ、パソコンの画面を監視してたわけだ。だからブログにあーだこーだ書いてたのは知ってる。ただ、管理画面のログインパスワードが伏せ字だったからわかんなくてさ」
信号が青になった。そこで電話が切れ、向こう側の歩道から、雄一が横断歩道を渡ってきた。
「『佳奈へ』って記事があったよな。教えてくれよ、パスワード」
今までの彼じゃない。目つきが明らかに常軌を逸している。
「何のことで……」
「とぼけんな」
低い声で一喝され、心臓がぎゅっと萎縮するのを感じた。体の震えを必死で押さえつけて、どうにか口を開く。
「パスワードを聞いて、どうするんですか」
雄一はさらりと答えた。
「あのブログ消すに決まってんだろ」
「自分の……」
怖い。声が詰まる。
負けるな。言え。言ってしまえ。恭子おばさんは私を選んでくれたんだから。
「自分のしてきたことを、隠すためですか」
「はあ? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。俺が何したって?」
「何をしたっていうか、何もしてなかったんでしょう」
「お前、まさかあのブログの内容信じてんの? 勘弁してくれよ。俺はちゃんと書いてたっつーの。根も葉もない噂立てられちゃ困るから消そうとしてんの」
嘘だ。ふざけるな。お前が恭子おばさんを……私の憧れだった、あの人を……。
「本当のことばらされそうになったから――殺したんですか」
「……殺した? 俺が恭子を? なんで? そんな笑えねぇ冗談言って許されると思ってんのか?」
その言葉には、何故か、真実味があった。それまでと気配が違った。演じていない。
「じゃあどうして恭子おばさんは死んだんですか?」
「こっちが訊きてぇよ」
雄一は、殺していない?
だとしても、パスワードだけは絶対に教えられない。雄一が原作の仕事を放棄していたことは事実。私にはそれを白日の下にさらす義務がある。
「ピンホールカメラ買ったって言っただろ? 何もパソコンの画面だけじゃなくてさ、色々撮れるわけよ、色々」
……まさか。
「あいつが全世界の変態野郎どものオカズにされんのと、今ここでパスワード俺に教えるの、どっちがいい?」
涙と一緒に、熱い、どす黒いものがこみ上げてきた。ああ、そうか。これが殺意か。
目の前の相手を、打ちのめしたい。葬りたい。倫理は彼方へと消えた。こんな奴がこの世界で呼吸をしていていいはずがない。
だけど――もう、どうしようもない。
ごめんなさい、恭子おばさん。約束、守れないみたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます