殺意の死

森山智仁

1

「ここの台詞、ちょっと説明的過ぎるかなと思うんですよ。次のコマの表情で十分伝わるでしょう」

「そうだね、確かに」

 と、雄一は顎に手を当てる。それから、眉間に皺を寄せて、苦々しげに言う。

「いやあ、本当にそうだね。俺なんでこんな下手クソな台詞書いちゃったんだろう」

「いえ、下手というほどでもないと思いますけど」

 と、編集の永井が取り繕う。

 永井は入社三年目。若い。私たちの作品に憧れてこの世界に入ったと、初めて会った時に言っていた。どうせ誰にでもそう言っているのだろうと思っていたが、その後の興奮や狼狽ぶりを見るに、どうやら本当のことらしかった。

 恐縮しながらも、編集者として、言うべきことはきちんと言っている。信用のおける青年。だが、肝心のことには気付いていまい。

「あり得ないよね、こんな説明台詞。素人かっつーの」

 雄一は原作者として、自分の書いた言葉の拙さを恥じている――かのように見える。誰の目にもそう見えるだろう。

「本当、何やってんだ俺。ダサいったらねぇよ」

 雄一は、書いていない。書いたのは私だ。

 大学の漫研時代から七年間、私たちはコンビで漫画を描いている。雄一が原作、私が作画。始めて半年で男女の関係になって、二年目の終わり頃に新人賞を取った。恋人同士のコンビでデビューなんてと、周囲に羨ましがられた。事実、幸せだった。

 しかし、デビューから一年で、雄一の才能の泉は枯れ果てた。いや、冷静に考えれば、ただのスランプだったのだと思う。けれど雄一には堪え性がなかった。それまでが順調過ぎたのだ。あっという間にやる気をなくして、机に向かうことすらしなくなった。

 仕方なく、原作も私が書いた。話を作る才能がないことはわかっている。無理やりひねり出した。必死だった。弱小野球部の高校生が、いきなりプロの打席に立たされて、震えながらバントの姿勢を取っている――多分そんな感じだ。

 雄一は自分で話を作る気力は失ったが、厄介なことに、他人の書いたものにあれこれ口を出す能力は残っていた。それで、私の考えた話を、いつもさんざんにこきおろした。たまにわざと見逃して、今日のように編集のいる場でぼろくそに言うこともある――そんなことをしても何の意味もないのだが。

 ただのダメ出し係。とても原作者とは呼べない。それでも、コンビの体裁を取り続けている。

 何故か?

 好きだから? それはない。「依存」も恋の形の一つとしていいならば、彼が書かなくなってからも、一年ぐらい、恋は続いていた。いつかまた書いてくれると信じていたし、たまに私の書いたものを褒めてくれたりすると、愛おしくてたまらなくなった。その約一年で、泥沼にはまった。

 今や、憎んでいる。指摘だけは的確だが、それぐらいは大した才能がなくてもできる。読んだものの批評を得意げにネットに書く輩がいるが、彼らも、彼も、書いてはいないのだ。素人。生みの苦しみを知らない――雄一は一時的にプロだったが、「安産」しか経験しなかった。

 切ればいい。何の得も、愛もないのだから、彼を捨てて、一人で頑張るなり、新しい原作者を捜すなりすればいい。そうするべきだ。それが一番、理にかなっている。

 そうできないのは、何故か?

「じゃあ、よろしくお願いします。恭子さん、気を付けてくださいね」

「え?」

「手。利き手じゃなくて良かったですけど、漫画家は体が資本なんですから」

「はい。すいません」

 転んだと、嘘をついていた。

 私が彼を切れない理由。それは――怖いからに他ならない。手を上げるようになったのは最近だけれど、昔から、少しでも気に入らないことがあるとすぐ荒い声を出す人だった。子供なのだ。才能のある人はえてしてどこか欠けているものだと、許せていた、昔は。

「それじゃ、お疲れ様です」

 永井が帰っていった。

 雄一はすぐさまソファに横になり、テレビをつけた。主婦向けのワイドショー。

「お昼、スパゲティでいい?」

「いいや。腹減ってねぇし」

 近頃は一緒に食事を取ることも少なくなった。パスタソースは、二人前で一袋のものでなく、一人前ずつ小分けになっているものを買うようになった。

 もし、別れたいなんて言ったら……いや、言えない。絶対に言えない。どんな目に遭わされるかわからない。

 テレビのワイドショーは、二日前に起きたストーカー殺人を話題にしている。今の私には、他人事とは思えない。

 私がある日突然いなくなったら、彼は血眼になって捜すだろう。草の根をわけても見つけようとするだろう。私はきっと、彼の執念から逃れられない。

 怖い。憎悪より、恐怖の方が強い。彼の怒声を思い起こすだけで心臓がどきりと鳴る。あの声に逆らってはいけないと、全身の細胞が学習してしまっている。

 ――憎かろうが怖かろうが、〆切はやって来る。仕事をしなければならない。私も昼食は後でいい。

 机に向かって、永井との打ち合わせで修正されたネームを元に、下描きを始める。私は仕事中音楽など聴かないし、できれば無音がいいのだが、テレビを消せとは口が裂けても言えない。

「警察には届け出ていなかったんですかね?」

「いえ、何度か相談には行っていたようなんですが、まともに取り合ってもらえなかったということなんですね……」

 テレビから聞こえる声につい耳を傾けてしまい、手が止まる。

 警察は頼りにならない。そう言い切っては極論なのだろうけれど、頼りにならなかった実例がいくつもある。警察に相談すれば大丈夫とは言えない。

 雄一が立ち上がり、テーブルの上の財布をポケットに突っ込む。

「どこ行くの?」

「取材」

 パチンコのことだ。だが彼はあくまで取材と言い張っている。

 何も言わず、雄一は部屋を出ていく。私も何も言わない。

 パチンコ漫画の構想を練っているのだという。パチプロの孤独な生活を描いた、ハードボイルド漫画。

 そんなもの描けるわけがない。今連載しているのは少年向けの月刊誌だし、並行して別の作品を描く暇もない。だいいち、私が描きたくない。

「ボーダー理論っつってさ、ちゃんと釘見て打てば勝てるんだよ。だから単なる運否天賦のギャンブルじゃねぇんだよ」

 一か月ほど前、大勝ちして帰ってきた日、雄一は機嫌良く、何度も同じ話をした。あれから、機嫌の良い日は週に一日あるかないか。ほとんど負けているのだろう。

 今は別々の口座を持っているからいいが、そのうち無心されるに違いない。冗談じゃない……でも、逆らえない。

 つけっぱなしになっていたテレビを消して、ため息をつく。これから私はどうなるのだろう。一生、偽りのコンビを続けなければならないのだろうか?

 かつては私も一人で漫画を描いていたのだ。話作りについて、飛び抜けた才能はないが、まったくの素人でもない。雄一の代わりに作り続けることで、コツや喜びもだんだんとわかってきた。

 押し入れの中には今までに届いたファンレターが箱詰めになっている。滅多に返事はできないけれど、全て目を通している。漫画家にとって養分のようなもの。読者がいるから描ける。

 ファンレターの多くは「話」についての感想だ。「絵」を褒めてくれる人は少ない。それはそうだろう。漫画の根幹はストーリー。それを書いているのは雄一でなく私なのに、誰もそのことを知らない。

 本棚に並べたコミックスの背表紙に目をやる。「原作=日野雄一」。その表記を見る度に、心がざわつく。

 違う。あいつは書いていない。それは私の作品だ。私の。私一人の。

 殺意が鎌首をもたげる。

 怒声や暴力に触れ続け、殺されるかも知れないと何度も考えたせいで、「殺す」という行為がかなり現実的なものとして感じられている。

 殺せば、罪。そんなことはわかっている。だから何? 「別れたい」――その一言を口にするより、包丁で一刺しにしてしまう方が、遥かに容易で、安全なことだと思える。

 冷蔵庫を開け、ペットボトルのアイスコーヒーを取り出す。コップに注いで、一気に飲む。

 殺意はあっても、勇気がない。きっと私にはできない。これでも漫画家だ。想像力には自信がある。いざ殺そうとした時、私は立ちすくむ。間違いない。

 再び机に向かい、深呼吸をして、ペンを取る。けれど、手がなかなか動き出さない。明日はアシスタントたちが来る。今日中に何枚か仕上げておきたいのに。

 雄一に断りなく、世間に公表するということも考えた。しかし、果たして信じてもらえるだろうか? 彼が何もしていなかった――正確に言えば、口出しはしていた――ことも、話を私が作っていたことも、証明できるものは何もない。それに、そんなことをすれば、運良く雄一から逃れられても、ほぼ確実に私の漫画家生命は終わる。トラブルを起こした漫画家なんてどこの出版社も使いたがらないし、そういったしがらみを跳ね除けるだけの名声や実力があるわけでもない。

 線が歪む。ペン先に見えない何かがとりついて、私の邪魔をしている。駄目だ。こんな調子じゃ描けない。


 夜十一時半、雄一が大量の缶ビールを抱えて帰ってきた。今日は勝ったらしい。

 言いたくもない礼を言って、飲みたくもないビールを飲む。雄一はパチンコ雑誌を開いて、私にわからない話を熱心に喋り続けている。今は笑顔だが、油断はできない。気のない返事をすれば、何かが飛んでくる。

 やがて、ベッドに引きずり込まれる。服を脱がされる。雄一の手や唇が触れたところが、ベタを塗ったみたいに真っ黒になるのを想像する。

 私は偽りの声を出す。身を守る為に。早く済ませてもらう為に。

 ねえ、雄一。楽しい? 気持ちいい? 私、どうしたらあなたと永遠にさよならできるんだろう。

 宏美の店、最後に二人で行ったのいつだっけ。私は時々一人で飲みに行ってるんだよ。知ってた? 学生の頃、あの店のカウンターで、よく漫画のこと話したよね。話作りも絵も下手だったけど、あの頃が一番楽しかったな。

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