第8話 和解

板敷きの床は、二人の心境を反映するように静かにきしんだ。


突き当たりを曲がった所に開かれたドアがあり、音はそこから聞こえてくる。包丁の音は既に止んでいた。


割烹着姿の女が、部屋の奥に見える。黒々とした窯の前で女は煮炊きの支度をしているようだ。


後ろ姿から昨夜の女主に違いない。そうにらんだ雄三は、どう声をかけようか迷った。居候としておいてくださいと言おうものなら、やなこったと、冷たくあしらわれるに決まっている。


メリッサはメリッサで売り言葉に買い言葉、負けん気の強い者同士、一歩も譲らないのが災いしそうだ。女同士だが、相性の悪い関係なのかもしれない。


ここは自分が出るしかないと雄三は奮起する。


(そもそも何で俺はここにいる? 別にメリッサを置いて帰ったっていいじゃないか)


だが、雄三のシャツの裾を握っているメリッサを置いてこの場を去るのは忍びない。できるだけ彼女の力になりたいと思った。


「あの……」


雄三が意を決して女主の肩に手を置くと、彼女は素早く振り返る。すると間髪入れずに、雄三の胸に飛び込んできた。雄三には見えなかったが、目尻に涙を浮かべ雄三に体を預けている。


予期せぬ珍事に、雄三もメリッサも開いた口が塞がらなかった。しおらしいを通り越して、爆弾が炸裂したような衝撃を二人に与えた。


それも束の間だった。女は悲鳴を上げて飛び退くと、手近にあった包丁を雄三に突きつけてきた。


「どこのどいつだい、あんた!」


昨夜の気の強い女主が、目を血走らせて叫んだ。度肝を抜かれるが、やはりこちらの方がしっくり来る。


「増田雄三です。昨日お話ししましたよね」


「あ?」


女主は未だ納得せず、包丁を両手で構えている。着物の袖からのぞく腕の細さは、今にも包丁の重さに屈してしまいそうだった。


雄三は相手を刺激しないように両手を上げていたが、入り口にいたメリッサが近寄ってくる。危険だ。雄三は声に出して止めようとするが間に合わない。


足音で気づいたのか、女主はメリッサに目を向けた。発作的な怒りが彼女の身内に充満している。それを見て取ったメリッサは胸を痛めた。


メリッサは少し前かがみになりながら、女主の手の上に手を重ねた。


それからメリッサは女主に言葉をかける。雄三には何と言っているのか聞き取れないが、心を込めて怒りを静めようとしていることでけは伝わってきた。


やがて女主の手から包丁が落ち、正体をなくしたように座り込んだ。


「さっきの部屋に運びまショウ」


メリッサと協力し、雄三は女主の薄い体を和室に寝かせた。ほどなくして女主は目を覚ました。


「思い出した……、そういや、異人さんと垢抜けないのがうちにいたね」


女主は、意識を取り戻してすぐ憎まれ口を叩いた。雄三は言い返したいのを堪えて、彼女を気遣う。


「あんまり食べてないんじゃないですか。ちゃんと食べないと」


雄三は、彼女の奇行を栄養失調による立ちくらみか何かだと解釈した。


「うるさいね。余計なお世話なんだよ」


女主はふてくされたように体を横向きに倒した。


その時、メリッサがコップに水を入れて戻ってきた。雄三と位置を入れ替え女主の頭の後ろに座る。


「お水、お持ちしまシタ」


「いらない……、と言いたいとこだけど、二日酔いには良い薬かね。もらうよ」


深酒が祟ったことを認め、メリッサの介助の元、水を飲んだ。


「どうも食欲がわかなくてね。あんた、名前は?」


「メリッサと言いマス」


この事件をきっかけとして、女二人は打ち解けたようだった。それを見計らい、雄三は部屋を出ようとした。自分がいなくても後はメリッサが上手くやるだろう。ここにいてもやれることは何もない。


「待ちなよ」


雄三が玄関に向かうと、女主が追いかけてきた。


「東京の奴は挨拶もなしに行っちまうのかい」


「お世話になりました」


形式だけ頭を下げると、女主は腰に手を当てる。


「行く当ては? 住み込みのつもりだったんだろ?」


やけに世話を焼きたがるのは、詫びのつもりだろうか。天気のようにせわしない女だ。雄三は肌がむずむずするのを感じた。


「まあ何とかなりますよ」


「あんた、これまで何やってきたの。学校は?」


身の回りを嗅ぎ回られると、うっとおしくなってきた。どうせ今生の別れとばかりに正体を明らかにする。


「真剣師をしていました」


「聞いたことないねえ。何を売るんだい」


命。と言わず、淡々と説明を始めた。


「金をかけて将棋を指すんです。でもたいてい俺は宵こしの金を持ってないから金主を見つけて金を出してもらいます。人の金だから簡単に負けられません。毎回必死ですよ」


と言って、人なつこい笑みを浮かべるこの男を女主は半信半疑の目で見つめた。


「つまり博徒ってわけだ」


「はあ、まあそんなもんですね」


どうしてそんな危ない仕事をやっているとまでは女主は聞かない。渡世を知る者として聞くだけ野暮だと思ったのだろう。


「でもうちに来たってことは足を洗って出直したいって思ってたんじゃないのかい」


「……」


雄三にはそこまで明確な考えはない。寝床があればそれで良かったし、土木などの肉体労働よりましだと考えていたに過ぎない。軍人との約束が反古になりかけている今、赤の他人に迷惑をかけるつもりはなかった。


「……決めた」


下を向いたまま、女主は雄三の肩を掴んだ。


「うちで使ってやるよ。どうせ放っといたらヤクザもんになるしかないんだろ?」


雲行きが怪しくなってきた。雄三としては労働から逃れたい一心なのだが、どうにも体が動かしがたい。


間近で見た女主の顔はやせていたが、命を燃やすように雄三を説き伏せる唇から目が離せなくなった。


(こうも真剣になられちゃかなわねえ。一つ腰を据えるのも悪くないかもしれない)


雄三は観念して首を縦に振った。もはや無理強いされる労働ではなくなっていた。その日暮らしに疲れていたし、半ば将棋から足を洗うつもりでいる。


「あたしは、あきら。明さんって呼びな」


「はい! 明さん」


雄三が素直なのを見て取り、明は満足げに頷いた。腹の中ではどれだけこいつから絞り取ろうか考えているから油断ならない。久しぶりに商売人の顔を取り戻して活気づいている。


ここまでは、二人にとって喜ばしい出会いだったのかもしれない。


しかし、彼らは否応なく時代の激流に巻き込まれていくことになる。


「ごめんくださーい」


表戸を叩く者がある。急を要するように何度もやられるから、やかましいことこの上ない。明は夕べの雄三を思い出して顔をしかめた。

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