第7話 夢の残滓
宿の薄暗い廊下を抜けた先に床の間があり、そこに二人は案内された。
六畳の部屋は桐の箪笥が置かれ、菖蒲の花が生けられている。
「なんだ、連れ込み目的じゃないのかい」
女は団扇を扇いで、涼を取っていた。雄三が誤解を説こうとしても悠然と構えている。
「だから言ってるじゃないですか。俺は仕事をしに来たんですよ」
雄三は出された茶をすする。温くて、でがらしみたいに薄い茶だ。喉に流し込む間も、宿の主とおぼしき女を観察する。
しどけなく座った素足に、目が行きそうになるのをこらえ、正面を向いた。
日焼けした肌に細い目元、つり上がったまなじり。薄い唇は、あざ笑っているように見える。落ち着いた態度から年増なのかと思われた。
「困っちまうねえ。連れ込みならぬ押し込み強盗みたいだよこの人は。見ての通り食うのがやっとでね、お気に入り着物もほとんど質入れしちまった。欲しいのがあったら持ってってくれてもいいんだけどね」
女の背後にある壷は無銘の品だったし、家具も最低限のものしか置いていないようだ。
それにしても肝の据わった女である。雄三が仮に強盗だったとしても、何も取らずに逃げ出してしまいそうな貫禄を持っている。
「はい! 私からもよろしいでしょうカ」
茶腕に手をつけず、正座したままだったメリッサが突然動いた。
「ああ、異人さん。あんた喋れたのかい。置物みたいだから忘れてたよ」
どこまでも人を食った態度に対しても、メリッサは堂々としている。雄三は意外に思った。
「私はお客サマです」
「あいにくだけど、お客様は神様だってのは迷信だよ。うちでは特にね」
「では商売なさっている事は認めるのデスね」
メリッサの指摘に、宿の女主が今にも噛みつきそうな顔をした。雄三は居心地が悪くなってきた。
「こんなとこまで来て言葉遊びしようってのかい。ご苦労さん。根負け根負け。今夜は泊まっていっていいよ。あたしはもう寝るから。朝になったら出ていってくんな」
障子を音高く閉めて女主が部屋から出ていった。同時にメリッサは上体をがくっと倒した。
「大丈夫か」
雄三が心配すると、メリッサは泣き出しそうな声で本音を口にした。
「は、はい……、怖い人でした」
どうしてメリッサがあの女狐に敢然と立ち向かっていけるのか雄三には不思議でならない。この時代、職業婦人の存在はそれほど浸透していなかったし、メリッサの職業倫理も不透明で余計に縁遠いものを感じたのである。
取り残された二人は、泥のような疲れとしばし戦っていたが、やがて倒れるように横になった。
紙で目張りされた窓は開きそうにない。蒸し暑くて死にそうだ。
「雄三、私はなしとげなければならないことがありマス」
電気を消そうとした雄三に向けてメリッサが言った。寝言のような繊細な言葉は、女学生のようでもある。しかし、雄三は悲壮な決意として受け取った。
「俺にもそういうのがあった」
「今はないのデスか」
雄三は電気を消した。情けない顔をしているのを見られたくない。
「ないよ。俺にはもう何もないんだ」
二
雄三は朝起きるのが大の苦手だ。故郷にいた頃は、母の世話になり、上京してからは師匠の奥さんの世話になっていた。
夢の中で負けた将棋を延々と振り返る時など地獄だ。駒から手が放れた時に悪手に気づく。あの血の毛が引く瞬間で目が覚める。
眠ることが怖いと思う時期もあった。それでも肉体のくびきから一瞬でも長く逃れたいと思うのが人情である。
雄三は、肉体と頭脳を別に考えている。どれだけ肉体が疲労していても、頭脳は明敏な時もあるし、その逆もある。
健全な魂は健全な肉体に宿る、という格言めいた迷信も信用しない。
雄三とは反対に、師匠はまさに肉体と精神の一致の人であり、雄三にもそれを口を酸っぱくして説いた。
朝の掃除はご近所の門前までやらされた。師匠の身の回りの世話、礼儀作法もうるさく仕込まれた。
内心、雄三は師匠の方針に納得していなかった。将棋指しは強さが第一。人間がいくら完成しようが、弱ければ意味はなく、淘汰される。
少年がたどり着いた真理はある一面では正しい。勝負は白か、黒かに分けられるが、我々は本当にそれだけを追っているのだろうか。
対局者が勝負にかける情熱を、艱難を乗り越えた先にある希望を、絶望を、我々は知り、共感する。感応する。
雄三がそれを知るのはまだ先のことになる。人生は老いるには短いが、生き急ぐと長くなることもある。不思議なものだ。将棋と同じく。
「起きてくださイ!」
雄三の体が揺り動かされる。はじめは揺りかごをあやすような微細な振動だったが、終いには天地がひっくり返るような衝撃を彼に与えた。
「空襲か!」
雄三は耐えきれずに飛び起きた。清涼感のある風が頬を撫でる。
白いブラウスの女が窓を開けていた。金の髪がそよそよとなびいている。雄三は子供の頃見た麦の穂を思い出した。
「目、覚めましタ?」
後ろ姿を向けていたメリッサが、首だけで振り返る。包み込むような笑みがそこにある。
雄三の頭は段々とはっきりしてきた。メリッサという魔族の女と行動していること、宿の女主人と一悶着あったことなど。
頭を使ったせいか、腹が不平を漏らすように鳴いた。
「朝ご飯にしまショウ」
メリッサは気軽に雄三を誘ったが、当てはあるのだろうか。
未知の局面でも進むしかない。メリッサは案外図太かった。雄三を引き連れて堂々と襖を開けた。そろって首を廊下に突き出す。
廊下の奥の物音を先に察知したのはメリッサだったが、口を開いたのは雄三だった。
「包丁の音がする」
「誰か料理シテマスカ」
二人は勝手に動き回ることを内心で詫びながら、音のする方向に歩きだした。
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