第9話 頭を抱える

雄三とメリッサは旅館の敷地を離れる。空は無情なほどの青さを見せていた。


晴天の元にさらされた荒れ野の草を踏みしめるたび、改めて寂寥感がこみあげてくる。


「明さん、大丈夫でしょうカ」


昨夜二人が出会った土手にたどり着くと、メリッサが明の様子を気にかけた。


先ほど明を訪ねてきたのは、明の夫と同じ陸軍所属の青年だった。


戦死した明の夫の遺骨を箱に入れて持ってきてくれたのだが、明は取り乱すことなくそれを受け取り、路銀まで男に与えて送り出した。動揺を押し隠していたのは想像に難くない。


「ちょっと一人にしてくれるかい」


歯を食いしばるような顔でそう言われ、雄三たちは外にいる。明に夫がいることも知らなかったし、かける言葉も見つからなかった。


「今朝、俺に抱きついたのも旦那さんを思い出したせいかもな」


急に働くことを許したのも、その辺りの事情が絡んでいるのかもしれない。素直に喜べなかった。


「こういう時、どうしたらいいか、わからないデス」


雄三に妙案を期待するかのように、メリッサは横目を向ける。


「なるようになるしかないんだよ。あの人が受け入れるまで待とう。それより腹減らないか? 飯行こう」


メリッサは矛先を見失ったように肩を落とした。雄三は、はぐらかしたつもりはない。個人の痛みは最終的に個人に既決する。将棋でなくとも、それは自明の理だ。雄三たちがいくら励まそうとも、今の明には届かないだろう。


言葉は届かなくても、手助けとなる行動は取ることができる。寄り添う事だ。雄三はそれを念頭に考えていた。


町に出て、今にも倒れそうな建物にある蕎麦屋に入る。メニューはかけ蕎麦のみだ。労働者風の日焼けした男、足を引きずる復員兵、それらの客が、メリッサをなめ回すように見つめてくる。


店にこもった煙草の煙にむせながら、雄三はメリッサを誘ったことを後悔した。店内のどいつもこいつも飢えた獣のような目をしている。それに加え、白人の女のような見た目のメリッサが逆恨みの対象になりかねない。停戦はしたものの、日本は戦争に負けたのだ。


手早く済ませて店を出るつもりだったが、箸の扱いが上手くないメリッサはそばを掴むのにも苦労している。


雄三は喉に流し込むようにして蕎麦をすすり終えた。だしは薄いし、蕎麦は古い紙のように歯切れが悪い。どうせならもっと上手い蕎麦をメリッサに食べさせたかったが、腹の足しになればまだましというのが、今日の日本国の経済状況だった。


一朝一夕に復興は進まない。明の夫のように失われた命が多過ぎる。


魔王軍がいなかったら、もっと取り返しのつかないことになっていた可能性は大いにある。雄三のメリッサを見る目は日毎、変わりつつあった。


「あんまり見ないでくだサイ」


照れたように口元を隠すメリッサの仕草に、雄三まで顔を赤くした。ますます椅子の座り心地が悪くなった。


間の悪さを誤魔化すように、外に目をやる。今にも割れそうなガラス窓から、外の様子が手に取るようにわかった。


プラカードを持った者を先頭に、数人が往来している。


彼らは基地建設反対と、しきりに訴えている。雄三はラジオや新聞も閲覧しないから問題の本質が掴めない。切迫した様子から不穏な情勢であることは確かだ。


もどかしく思っているうちに、メリッサが食事を終えた。手を合わせ、堂に入った流儀を示した。


「帰りますカ」


メリッサがまず腰を浮かす。明のところに早く戻りたいのだろう。


蕎麦の代金は、雄三が払った。メリッサは固辞しようとしたが、雄三は譲らない。師匠から女に支払いをさせるなと教えを受けている。師匠の元を離れてから、その教えに従っていることを皮肉に感じた。


「雄三は、将棋指しマスか?」


宿に帰る道すがら、メリッサが訊ねた。雄三はとぼけようとしたが、メリッサはむやみやたらと知りたがる。


「下手の横好きだよ。大した芸じゃない」


「でもお仕事にしてるんでしょ?」


謙遜で切り抜けようとするが、メリッサは余計に興味をそそられたようだ。


メリッサは明と雄三の話を聞いていたのだろう。盗み聞いたというより、彼女の耳が鋭敏なせいだから責めるわけにもいかない。


「こづかい稼ぎにね。工場で働いてたのは本当だから」


雄三はやましい事でもあるように、目を背けた。メリッサに真剣師のことは知られたくない。自分で選んだ道だし、見栄を張ることもないのだが、無垢なメリッサに聞かせる話でもないと思っている。


「私も将棋やってみたいデス。教えて下サイ」


「気が向いたらね」


真正面から将棋に向き合うことのできるメリッサや、昨日出会った少年などが羨ましい。雄三はきっぱり捨てきれないから余計辛いのだ。


宿に戻ると明は未だ寝込んでいた。二人が帰ってくると窓枠まで這っていき、上体を起こした。目は赤くなっており、髪も乱れている。


「せっかく来てもらったのに何のもてなしもできなくて悪いね」


自分の事を省みない献身に、メリッサはその身を投げ出すようにして近寄った。


「無理を言ってるのはこちらデスし、明さんは、ゆっくり休んで下サイ」


「ありがとう。やさしいねえ。そっちのでかいのじゃなくて、あんたがここで働いてくれたらいいのに」


「悪うござんしたね。愛想がなくて」


雄三がむっつりとしていると、明とメリッサが声を立てて笑った。赤の他人だからこそ気が紛れるということもあるのかもしれない。


「ねえ、ちょっとあんたの前髪長すぎやしないかい」


世間話のついでに明がそう口にした瞬間、メリッサに緊張が走る。雄三にもそれが伝わった。どういう結果になるか想像がつく。


「べっぴんさんなのにもったいない。整えてあげるよ」


「い、いいデスヨ。気に入ってマスので」


明が興奮気味にメリッサに迫る。メリッサは雄三に助けを求めるような視線を送る。


「嘘をお言いでないよ。邪魔くさいんだろ? 心配しなくても悪いようにはしないよ。これでも仲居の子らの髪だって切ってたんだ。あたしに任せな」


明の好意に甘えたいのは山々だったが、メリッサは自分の首を必死で守る。その守りを解こうと明がじゃれつく。勢い余った明はメリッサを畳に押し倒した。


ゴムがちぎれるようなぶちっ! という鈍な音と共に、メリッサの頭が二転三転畳を跳ねる。胴から離れて雄三の足下で止まった。


雄三は頭を抱えた。他でもない自分の頭を。

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