16.1933夏 伝説 4

 試合後、肩を落としてベンチに引き上げた嘉藤はナインに謝罪した。しかしチームメートは誰も責めなかった。監督の高田も「一生懸命やった結果やないか。誰も文句は言わん。仕方ないやないか。」部長の竹山は開口一番「お前はバカモノか!みんなで一生懸命やった結果だ。人間が一生懸命全うしたことをだれが責めるんだ。わしは満足している。頭を上げろ、胸を張れ!」

 主審の水上が敗戦投手となり、帽子を真深にかぶってマウンドを降りてくる中田に「どうだ疲れたか。」といったら、「20回以降は肩が棒のようでした。」と元気に笑って返してきたという。

 一塁手の横内は試合後「おかしなものだが、次の日も試合があると思っていた。ベンチに戻った後も「負けた」という実感は全くなかった」という不思議な感覚になっていた。

 球場の周囲には異様な数のファンが取り囲んでいた。春の選抜では負けたとたん「死んでしまえ」と言われ、ぼろくそだった。しかし今回は球場から旅館まで拍手で見送ってくれて、夜が更けるまで、宿舎の周りを立ち去らなかった。旅館では校長も、春には難しい顔だった後援会長も「よくやった」とほめたたえた。翌日、明石へ帰ると駅頭は市民でいっぱい。優勝チームを迎え入れるかのような盛大さで、選手たちを祝福した。


 飛田穂州はこの試合について以下のように書き残している。



二十有五回は本邦野球史上のレコードであるが、それよりも絶賛せねばならぬことは、この試合が吉田、中田の両投手によって最後まで行われたことであって、かくの如きは、恐らく日米野球界に前代未聞のことであろう。まことに、鉄腕以上というべく、勝敗の如何を問うの必要はない。何れも負けさせたくない試合であった。

 試合は投手力があまりに優秀であったため、打力それにともなわず、自然、得点することができなかった。安打、明石に八、中京に七、四球は吉田十、中田八という少数は、投手の異常さをうかがうにたるべく、絢爛たる投手戦であった。この歴史的試合を眺めて、ただ感嘆の声を放つのみ、多くを語りえない。喜びに浸ったファンとともに、心から選手に感謝したい。

 


 中京商対明石中戦で記録した延長25回は現在に至るまで破られておらず、空前絶後の大記録となった。吉田の投球数は336、中田は247で共に完投。サヨナラ打を放った大野木は実に11回打席に入った。中京商の補殺と刺殺の合計は実に107で失策なし。特に明石中のバントを再三阻止した吉田の守備には明石の選手は相当参ったようである。この堅い守りと、吉田の投球が中京商の勝利の原動力であった。この試合を讃え、試合の模様を放送したJOBK(大阪中央放送局)は、両校に対して盾を贈っている。


 試合時間の4時間55分については大会史に「汽車の旅より長い」と題し、以下のように紹介されている。

 昭和八年八月十九日、この日午後五時二十分着の特急「つばめ」で大阪駅に降りた旅人の一人、トランクを下げたまま、店頭のラジオに集って野球の実況放送を聞いている群衆にふと足をとめて「この試合は、やはりあの明石と中京の甲子園野球ですか」と聞いた。

 聞かれた男は「そうでんねん」と、つっけんどんに答えたものである。

 「へへえ・・・」と、仰山に驚いて「私は、名古屋のモンですがね、このゲームの放送を名古屋の家で一時間半ばかり聞いた後、心を残しながら二時三十五分発の”つばめ”に乗ったんですが、大阪まで車中三時間、いいかげんくたびれて着いてみると、まだ同じ試合の放送らしいので、トンと合点がいかず、こりゃ、てっきり、キツネにつままれたんじゃないかと思いましたよ」「・・・・・・」「あー、まだ零対零、すぐ甲子園に駆け付けたら、ホンモノの試合が見られますね」

 居合わせた連中も、これを聞いて目をパチクリ。

 そんな作り話のような実話があるほど、中京、明石の試合は長かったのだった。

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