15.1933夏 伝説 3

 甲子園は一塁側スタンドの鉄傘の影が長く尾を引いて三塁ベースまで黒々と届くほど、夏の日が沈みかけていた。延長の最長記録である第4回日本選抜中等学校野球大会(春の選抜とは別の大会、1929年夏藤井寺球場で開催)の決勝戦、松山商対和歌山中の21回をとうの昔に超え、イニングは25回に達していた。竹製のスコアボードもついに0のカードがなくなり、ペンキで書き足していた。25回に入る直前、大会本部はついに「勝負がつかなくても25回でで打ち切る」と両校に通達。主審の水上も「25回で終わらなかったら誰がなんと主張しようと引き分けを宣告しようと決心していた。」と語っている。


 夕暮れの中の延長25回表、明石中の攻撃は深瀬三振、福島一ゴロ、峰本二飛と3人で終わってしまった。


 そして最後の攻防となる25回裏が来た。勝ちのなくなった明石中の横内はやれやれという気持ちで守備位置へ向かった。中京商のメンバーは25回打ち切りという話を聞かされておらず、吉田はまだ何回でも投げるという気持ちで挑んでいた。


 中京商の先頭打者は20回から左翼の守備に就いている前田。中田は四球で歩かせてしまう。次の野口の送りバントは中田と三塁の永尾が譲り合ってしまい内野安打。無死一二塁。そして次の鬼頭のバントは中田が三塁へ送球するも間に合わず野選。無死満塁となった。


 「どうしてもゼロに抑えなければという気持ちからカンのよい中田さんが二つのバント処理をためらってピンチを招いた。私たちはプレートの中田さんのところに集まり、無死だからきっと打ってくるだろうとバックホームに備え中間守備よりやや前に守った。」


 二塁手の嘉藤の言葉である。更に嘉藤は打者の大野木(右打ち)がよく引っ張るので少し二塁よりに立った。今まで猛練習をしてきたはずなのに「さあ来い。」とは思わなかった。心の中で打球が来るな、来るなとひたすら思った。


 無死満塁と中京商に球運が大きく傾く。1番打者の大野木が大きく腹式呼吸をしながらバッターボックスに入った。1回から数えて実に91人目のバッターである。ベンチからは打てのサイン。大野木の脳裏には9回裏無死満塁の絶好機を逃した瞬間が浮かんだ。神谷が放った会心の一打は中田のグラブに収まり、そのまま三塁に投げてダブルプレー。三塁コーチだった大野木はその場面を目の当たりにしており、同じようにライナーを打つのではないかと弱気になっていた。


 明石中の中田はこの大ピンチにも動揺せずストライクを入れ2ストライク。ここで大野木がタイムをとる。バッターボックスをはずしてベンチを見ると何もサインが出ていない。不安が高まった。次打者の神谷のところへ行くと「9回のように併殺になってはいかんから俺は三振する。お前に後を頼む。」と三振することを伝えた。しかし、神谷は無言。返事が返ってこなかったので一転、「それなら、俺が決めてやろう」という気になった。大野木は開き直って思い切り振ることに集中してバットを短く持ってバッターボックスに入った。13時10分にプレイボールした試合はすでに5時間に達しようとしており、甲子園の大時計はついに18時を示した。夕闇に包まれる外野席はマッチを擦る薄明かりが蛍火のように見え始めている。スタンドは波を打ったように静かで観客は延長戦の行方をかたずをのんで見守っている。2ストライク1ボール。中田が最後の力を振り絞ってボールを投げる247球目、外角低めへカーブが落ちていった。




 外角低めにきたカーブを大野木はバットを投げ出すように振った。バットにボールが当たり、打球はやや鈍い音を立てて「大野木さんが左に引っ張る打法だったのでやや二塁ベースよりに守っていた」二塁手の嘉藤の予想は外れ、一二塁間に転がった。大野木は目もくれず全力疾走で一塁へ向かう。「こいつは間に合わんかもわからんぞ」と思いながら嘉藤が取りに行く。同時に一塁手の横内も打球に反応する。自分なのか横内なのか、一瞬のためらいに嘉藤の足の動きは少し鈍くなった。転がったボールは大きく2回バウンドして二塁手の嘉藤のグラブへ収まった。嘉藤の目に三塁ランナーの前田が本塁までの半分ほどの距離にいる姿が映った。嘉藤はボールをわしづかみ、ホームへ送球。タイミング的にはアウトだったが、送球はやや高く一塁にそれる。捕手の福島が懸命に飛び上がり何とかつかむと前田がヘッドスライディングで突っ込んできた。主審の水上の右手は上がらない。嘉藤は送球したままの姿勢で固まった。中腰だった水上の背筋が伸び、両手が大きく広がる。


「あっ。セーフ、ホームイン、ホームイン。ゲームセット、ゲームセット。6時3、6時4分。ついに延長25回、25回。1アルファ対0、1アルファ対0。」


 ゲームセットのサイレンの中、ラジオ実況の高野ががらがらの声で叫ぶ。一塁方向へ逸れた嘉藤の球を懸命に捕球した福島の足はホームベースから離れていた。この瞬間、観衆も、選手も、しばらくは呆然として立ちつくすより他なかった。やがてスタンドの一隅から、目が覚めた様に歓声が上ると、やがて全観衆が狂った様に、ただウオーウオーと叫んで帽子を投げる、座布団を放り出す。そんな嵐のような光景が甲子園に広がった。大野木は一塁へ到達した瞬間、背後から歓声の声が聞こえた。25回を投げ切った吉田は心身ともに疲れ果て「やれやれ」の心情。明石中の捕手福島は悔しがってボールをたたきつける。中田はマウンドに膝まづいた。一塁手の横内が中田に駆け寄り、肩に手をかけて慰めると気の強い中田の頬に涙が伝っていた。二塁手の嘉藤は崩れ落ち、膝がガクガクとして起き上がれない。4時間55分。延長25回の大熱戦は1対0。中京商のサヨナラ勝ちで幕を閉じた。明石の楠本か、楠本の明石かと謳われた「剛球」楠本はついにマウンドに上がることなく、最後の甲子園を去ることになった。 


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