13.1933夏 伝説 1
準決勝の組み合わせは一つは平安中対松山中。そしてもう一つは明石中対中京商と発表された。夜明けから晴れ渡る天気の中、この一戦を見ずして中等野球を語れるかとばかり、観衆は甲子園球場へ詰めかけた。前夜からスタンド下に、毛布などを持ちこんで泊りこむファンだけでもものすごい数で、全国中等学校野球大会始って以来の大観衆となり、その数2万を超えたと言われている。中京商は亡き校長へのはなむけと前人未踏の三連覇に向けて。明石中は部を作り上げてきた竹山の集大成として。そして中京商・明石中を頂点まで押し上げた吉田と楠本にとっては、5年間の総決算として。戦前の中等野球の最も充実した爛熟時代の頂点となる一戦である。
準決勝第一試合が平安中の勝利で終わった後、両チームのスターティングメンバ―が発表された。中京商の先発投手は吉田。明石中の先発投手は中田とアナウンスされた。先発、中田の知らせに観衆は驚いた。30春の初出場以来、楠本が甲子園で先発マウンドを譲ったことは一度もなく、明石中は間違いなく投手・楠本のチームである。その世紀の剛球投手楠本は3番ライトと発表されたのだ。観衆よりも驚き動揺したのは中京商ナインだった。選抜で敗れ、打倒楠本を目指していただけに、「こっちは楠本以外考えていなかった。練習では投手をプレートの前に立たせて、速球に照準を合わせていたぐらいだ。だかベンチで「ナカタ」ってだれだ?と思ったよ。まるで狐につままれた気分だった」と中京商の大野木は言う。卒業し、コーチをしていた桜井寅二も「ベンチは面食らった」と振り返っている
一方明石中ナインは平然と受け止めていた。先述の通り楠本には脚気の兆しがあり、おまけに準々決勝の横浜商戦後は疲れがひどく、夜には口もきけず布団に潜り込むほど。二塁手の嘉藤は「選手に驚きはなかった。楠本さんの体調が悪かった。それに中田さんの調子が抜群に良かったからね。我々は大丈夫だと思っていた。」と話す。事実上の決勝戦ともいえる一戦に抜擢された中田は黙々と打者に向かう楠本と違い、気迫を前面に出すタイプで、抜擢にも臆することがなかった。「中京は不死身の吉田、明石は意外や楠本を右翼に退けて」とマスコミが報じるこの一戦は、バックスクリーンに大会史上最高の投手の一人である楠本がマウンドに上がらないことを示したまま、13時10分、プレイボールが宣告された。
試合は初回、いきなり明石中のチャンスが訪れた。先頭の山田勝三郎が四球で出塁すると、併殺崩れが2回続き、二死一塁でランナーは楠本。ここで中京商の捕手野口が捕逸をしてしまい、楠本が一気に三塁へ。すると中京商バッテリーは4番の中田を敬遠して5番の松下勝負。このチャンスで松下はヒットを打てず二ゴロに倒れ初回の明石中は無得点で終わった。そのあとの明石中は吉田の前に3塁を踏ませてもらえず9回が終わって安打は峯本の1安打のみ。対する中京商は2回裏、田中の放った打球を三塁手松下がエラーし、一気に三塁へ。無死からチャンスを作る。しかし続く神谷・岡田・野口がそろって中田の前に屈し、無得点。そのまま中京商は8回まで中田から一人も安打を放つことができずに9回の裏を迎えた。すると先頭の吉田が三遊間に内野安打を放ち、中田のノーヒットノーランを終わらせると、続く4番杉浦の三塁前バントは松下から変わった永尾がボールをファンブルした上二塁へ暴投。これで一気に無死二三塁。ここで明石中バッテリーは続く田中を敬遠し満塁策。サヨナラのピンチである。ここで中田のコントロールが乱れ始め0ストライク2ボール。明石中ファンが敗戦を確信し、次々と席を立ち始めた。捕手の福島はたまりかねてマウンドへ行くと中田が「これじゃいかん、もう負けたね。」と言い、返す福島も「そうですね、負けでっせ。」と言い返すとそのまま戻ってしまう。そんな中投げた次の球が高めのぎりぎりの一球。どちらでもおかしくなかったが判定はストライク。福島は後年、あの球がボールになってたらあれまでだったと振り返っている。
続く一球。中田の投げたカーブを神谷がとらえ強烈なライナーを放つ。二塁ランナーの杉浦はバットに当たるカーンという音を聞いてすぐにスタートを起こした。しかし、ふと三塁を見ると吉田がアウトと言われている。打球は中田が好捕し、そのまますぐに三塁へ投げていた。後に明石中の福島が中田に「あの球がよくとれましたね。」と言ったら「とったんじゃない、ボールを投げ終わったとたん、また自分のグラブに入ってきたんで、慌てて三塁に放ったんだ。」と答えたという。そんな運も味方につけた明石中バッテリーは、続く岡田も三ゴロに打ち取り、試合は延長戦に突入した。
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