11.1933夏 吉田の夏、楠本の夏 上
吉田正男は1914年生まれ。楠本と同い年である。小学校時代は一宮第四小で全国優勝。その後、東海各地から選手をスカウトしていた中京商の目にとまり入学。入学当初からレギュラーとして出場していたが、投手ではなく三塁手や遊撃手。投手として活躍し始めたのは2年からである。同級生の杉浦清は小学生時代は陸上競技が主で、出身校の梅園小の校長の熱心な推薦で入学。下級生の頃は遊撃手の中で一番下手であった。はじめての出場は2年生の6月で、レギュラーの選手が歯を折りおまけに病気になってようやく回ってきた出番であった。吉田や杉浦以外にも一学年上の桜井や恒川、吉岡などもスカウトされて入学してきた選手である。当時中京商は創設者であり校長の梅村清光の肝いりで野球場が作られ、野球部強化に取り組んでいた。相当に熱が入っていたようで全校生徒の前での訓示で「弱い野球部は解散」などと言うこともあったが、遠方から入学してくる選手を自分の家へ下宿させ、毎日のように練習に顔を出した。1929年に野球部監督に就任した山岡嘉次は3年で全国制覇を合言葉に選手を鍛え、明大監督であった岡田源三郎にたびたび指導してもらっていた。「はじめは本当に弱かった。しかし選手たちはよく努力し、激しい練習にもへこたれなかった。夜のミーティングにも鋭い質問が飛び出すなど、非常に熱心であった。」と岡田が後年振り返っている。この練習の中で中等野球では珍しかった三塁コーチからのブロックサインなどを導入し、考える野球を取り入れていった。その中で31春の準優勝、31夏・32夏の大会連覇を達成。だが32夏の大会後、チームの大黒柱であった桜井などがぬけ大きく戦力ダウン。吉田自身はコントロールも速球も更に磨きがかかっていたが、初優勝時のメンバーは吉田と杉浦のみとなってしまい打線の攻撃力は昨年までと比べ低下は否めず、吉田だけが頼りといってもよいチームに。春は明石中楠本の前に敗れ去り、ついに春の優勝は成し遂げることはできなかった。昨年までと比べ、決して良い条件とはいえない中、主将としてエースとして、吉田の最後の夏が始まった。
三連覇を目指した中京商はいきなり予選で苦しめられる。1回戦は7対2と楽勝であったが次にあたったのが豊橋中。ここには小山常吉といういい投手がおり、前年より攻撃力が低下した打線が小山から得点することができない。両チーム0行進が続く中、コーチに中島治康(28夏松本商優勝投手―早大―巨人他)を招いている豊橋中は吉田を攻めていく。七回、無死一二塁。打者は5番と吉田がピンチを招く。5番打者が左右間に大飛球を飛ばした。点が入るかと思われたが、中堅手の鬼頭数雄がスライディングキャッチのファインプレー。すんでのところで失点を防ぐ。すると8回、中京商が相手のエラーで何とか小山から1点をもぎ取り、ギリギリのところで勝利を収めた。
この勝利の報は校長の梅村のもとには「11対0で快勝す」と届いた。梅村はこのころ病状にあり、試合時は危篤状態であったのでとても辛勝だったとは伝えられたなかったようである。この報を聞いた校長はにっこりとほほえみ、「よし、豊橋中に大勝するようならこれで3年連続優勝はできる」と喜び、そのあとで息を引き取った。50歳没。
吉田をはじめ中京商は喪章を腕に東海予選の決勝に挑んだ。相手は春の優勝校岐阜商。優勝投手松井相手に打線が爆発し11安打8得点。吉田も4安打に抑え込み8対0。「私たちはいま、悲壮な気持ちで戦いを続けています。中京商野球部を今日までにしてくださった校長先生のご恩に報いるには、ただ甲子園で優勝し、三連勝をやってのけることがなによりのはなむけと思っています。」と梅村校長へのはなむけのため、吉田以下選手陣は闘志を燃やして夏の甲子園に乗り込んでいった。
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