追憶と渚
霜徒然
短編
俺には、5才の妹が居る。
今が一番遊びたい盛りで、どこに居たって走り出すような子だ。
「なぎさぁー! あんまり離れるなよーその辺急に深くなるからなー」
「わかっとるー! 」
そういって水しぶきを舞い上げ遊ぶ少女……いや、幼女と言った方が正しいか。とにかく、なぎさは俺が溺愛する可愛い妹だ。
お盆の間、祖母の経営する民宿に訪れるのはもはや恒例行事になりつつある。だだっ広い海と甲高い声で鳴く鳶、そして鬱蒼と茂る森以外には殆ど何も無い孤島だが、俺達にはそれで十分だった。波打ち際で遊びたいと言う妹を見守るのは、いつも俺の役目である。
小さく退き、また迫り来る波にきゃっきゃと顔を綻ばせる。少し日に焼けた肌に、肩まで伸びた黒髪は耳の後ろで二つに結ってある。母の選んだものを悉く拒否し、自分で決めた桃色の水着はとてもよく似合っていた。小さな両手をくっつけおわん型にして、絶えず形を変える一欠片を掬う。それはたちまち指の隙間から零れ、また群の中へと戻ってゆく。どうしても捕まえられない波に頬を膨らませ、すぐにまた自分の手の中に収めようとする。そんな無垢な妹を眺めながら、俺は砂の上で一時の幸せを噛み締めていた。
「にーちゃーん! 」
「おわっ」
「にーちゃんもいっしょにあそぼ? 」
「いいよ、何して遊ぼうか」
「うーんと……」
小難しい顔をして首を捻るのは、大人の真似のつもりなんだろうか。
「じゃあ、おっきいおやまつくる! そのうえに、こーんなおおきいおしろもつくるの! にーちゃんとなぎのおうちだよ! 」
「ははっ。それじゃあうんと丈夫なの作らなきゃな」
「うん! 」
瞳をキラキラと輝かせて、すぐさま砂をかき集め始める。太陽にさらされて程よく温まった砂に海水を混ぜ、ペースト状にする。砂遊びなんていつぶりだろうか。
なぎさの作る速度に合わせながら、少しずつ、少しずつ砂山は高さを増していく。周りに落ちている小石で柵を作り、砂山の頂上に建つ城には飴色の貝殻をはめて窓にした。城、といってもある程度固さを持った豆腐のような形のもので、正直、完成度はそこまで高くない。だが、枝を刺し旗を立てた本人は満足そうだ。
「なぎさ、そっちの池出来たか? 」
「できたよ。すっごくおっきいいけだねーにーちゃん」
「わぁ、結構頑張ったな。すごいぞなぎさ」
「えへへぇ」
頬に数多の砂粒をくっつけながら、満面の笑みを浮かべる。
「にーちゃん、もっとなんかつくろーよ」
「うーん、城も作ったし池も作ったし、あとは……あ、トンネルはどうだ? 」
「とんねる? 」
「そう、ここに来るまでにお山の中を通ってきただろ?あの長ーい道がトンネルだ」
「へーえ! なぎ、とんねるつくる! 」
山の端を削りながら、ふと視界の端の藍に目を向けた。広大、という言葉では言い表せないほど大きな海。西日に照らされた水面はキラキラと輝き、常に形を変えている。煌めいたかと思えば、瞬く間にその煌めきは消え、また別の煌めきが生まれる。決して同じ形になることの無い自然の芸術。
綺麗な風景はその瞬間を切り取って写真に収めておきたいという人もいるが、俺は常に移り変わるこの光景そのものが好きだ。もう二度と同じ景色は見られない。一瞬一瞬が特別で、そのどれもが心に彩やかに染みていく。どれだけ眺めても飽きることはないし、満たされることもない。そんなことを思う度、自分はつくづく、この海に心酔しているんだと思い知るのだが。
「みーつけた! にーちゃんのおててつーかまーえた! 」
「ん……あぁ、トンネル掘れたんだな」
山を貫通し、まだ掘り進めている最中だった俺の手をなぎさが掴んでいた。小さな柔らかい手が、ごつごつとした指をぎゅっと握り直す。
「にーちゃんのて、おおきいねぇ! かいじゅうみたい! 」
「そうかな。なぎさも大きくなったら、きっと変わらないくらいになるよ」
「ほんと? なぎ、おおきくなれるの? 」
「あぁ。なれるさ」
「そっかぁー」
にんまりと笑う妹が、堪らなく愛おしい。
「なぁ、なぎさ」
「なぁに? 」
「来年も、再来年も、また一緒に来ような。海。」
紺碧の水平線が、夕焼けに溶けて煌めいた。淑やかに潮の香が鼻腔を擽り、前髪を揺らす。
「こうやってまた砂の城作ったり、波と追いかけっこしたり……あぁでも、そのうち来てくれなくなっちゃうのかなぁ。大きくなって、友達が出来て、反抗期になって……兄貴とか呼ばれだしたらどうしよう。それは嫌だなぁ……」
この歳で随分大人気ないとは思う。だがそれほどに、俺にはこの時間が幸せだ。
「にーちゃん。なんのおはなししてるの? 」
「はは。にーちゃんが、またなぎさと遊びたいって話だよ」
「うん、あそぼう! なぎ、これからもずーっとにーちゃんとあそびたい! だってなぎ、にーちゃんのことだいすきだもん! 」
丸い頬を高揚させまくし立てる瞳が、ひどく艶やかだった。純粋無垢な眼差しが眩い。
「そうだな、そうしような。うん」
俺もつられて、口元が緩む。
「
「あ、ばあちゃんだ。ごめんなぎさ。ちょっと待てるか?」
「うん! だいじょぶ! 」
「ひとりで海入ったらダメだからな? 約束だぞ? 」
「うん! やくそく! 」
砂いじりを始めたなぎさをおいて、祖母の元へ行った。海のすぐ側にある、昔ながらの瓦屋根だ。
「靖臣、あんたまぁた海ばっか見とって。少しはばあちゃん気遣ってやろとか思わんのか? 」
「ばあちゃんまだまだ元気じゃん。俺が世話をやく余地ないだろ」
「全くあんたって子は、昔から本当に変わらんねぇ……仏様にくらい顔見せんと、罰あたんで」
「うん、そうするよ」
石畳の玄関から年季の入った長い廊下を通り、一番奥にある六畳間。引き戸を開けると、容赦のない熱気がもわっと押し寄せる。
その隅にひっそりと置かれた、黒塗りの仏壇。朱の薄い座布団に正座をして、蝋燭を灯す。日に焼けた箱をマッチが滑り、橙の温かみが手元を照らした。香炉に線香をさし、
このなんとも言えぬ音は、鼓膜を揺らし静寂をもたらす。
すーっ、と敷居を戸が滑る。祖母だ。
「毎年欠かさず、本当によく来んなぁ。あんたの両親とは大違いや」
「まぁまぁ、そう言ってあげないでよ。父さんも母さんも仕事が忙しいんだから、仕方ないだろ」
「どうだかねぇ」
真白な髪と淡藤の着物の祖母は、目尻にしわを寄せながら苦笑した。どこか淋しげに。
「でも、靖臣がこうして来てくれてきっと喜んどるよ。爺ちゃんも、なぎさも」
なぎさは、海で溺れて死んだ。見張り役だった俺がちょっと目を離した隙に波に攫われ、気がついた時にはもう遅かった。まだ5才だった。
「もう15年になるんかねぇ。あの子が育っておったら、今はハタチか。」
「全然想像出来ないな。俺は」
「きっと美人になっとっただろうに」
「そう、かもな」
分かっている。なぎさはもう生きていない。死んだ人間は戻らず、どれだけ過去を悔やもうと、俺の過ちは消えない。
「あんたもいい歳になったんじゃから、そろそろ嫁さんの一人でも居らんのか? 」
「居ないよ。去年も同じ話したろ」
「そうかえ」
蒸した部屋の中はひどく空気が重かった。肺の奥からじわじわと、焼かれているかのように息苦しい。
「靖臣」
筋張った喉元が、微かに動く。
「なぎさが死んだのは、あんたの所為やないで。靖臣が誰よりも優しいんは、ばあちゃんがよう分かっとる。でもな、生きる理由をいつまでも死んだ人間に見出しておったら、あの子も成仏出来んでな」
「……努力するよ」
祖母はそれ以上何も言わず、静かに去って行った。俺は障子に手を掛け、窓を開ける。落ちかけの西日と少し冷えた空気が舞い込む。
長らく一人っ子だった俺は、妹の誕生を誰よりも喜んだ。とびきり甘やかして、浮かれていた。今となってはその思い出も随分昔になってしまったが。
窓から眺める海原は、相変わらず広い。最後の一筋が、水面を照らしていた。波打ち際に視線を落とすと、小さく砂の城が見える。俺となぎさで作った、少々不格好な二人の孤城。もう半分ほどが、波先に浸かっていた。
この海は、俺となぎさを繋ぐ場所だ。ここに来さえすればまた一緒に居られる。俺の目に映る妹は、成仏しきれていない魂なのか、はたまた俺の狂った妄想なのか、そんなことはどうでもいい。俺にとってはこの時間こそが何よりも大切だった。
「にーちゃーん! 」
声が聞こえる。満面の笑みで、二つのお下げ髪を揺らしながら、日に焼けた腕を思い切り振って、俺を呼んでいる。もう完全に日が沈む。透き通るように、まるで最初から何も無かったかのように、静かに消えてゆく。
俺には、5才の妹が居る。
今が一番遊びたい盛りで、どこに居たって走り出すような子だ。
だから、俺が見ていてやらなくては。
俺が俺であるために。
二度と失わないために。
大切な、二人の渚で。
追憶と渚 霜徒然 @shimonagi_1129
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