第四章 苦悩
それから10日後、あの棟梁たちの手によって馬小屋もすっかり完成して、庭続きの畑の周りは柵で囲まれ、綺麗に整地されていて、ジェンヌを迎える体制はおおむね整っていた。
千佳は、雨の日曜日、明日から始まるテストに備えて、朝から机に向かっていたが、ふと窓の外を見ると、雨も止んでいて、雲間から筋を引くような太陽の光が注いでいた。千佳は教科書を閉じて、
「お母さんちょっと浜に降りてくるね」
陽子に告げて一人で浜辺に出た。西の空には、もうほとんど雲はなく、雨上がりの畑には餌を求めて、何羽かの鳥たちが、柔らかくなった地をせわしなく突いていた。
千佳には、この幾日かの間に、やおら気になる問題が生じていた。それは、転校してきた早苗と達也が、ひどく仲良くしていることであった。昼休み時間など、ふたりはほとんど席についたまま、他の生徒達が怪しむ程、仲良く談笑していた。それはもうクラスでの噂にさえなっていた。千佳は千佳らしく振舞ってはいたが、和代たちはもう我慢の限界にさえきていた。早苗は「友達なんていらない」と言ったはずである。その舌の根の乾かないうちからの早苗の豹変した態度と、それを好意的に受け入れている達也にも、和代たちの怒りは及んでいた。千佳自身も、それなりの反感はあった。かといって、達也を責めることはできない。
千佳は思った。
なぜなら、たっちゃんにとって、自分はおそらくただの幼友達であるに違いない。
たっちゃんの本当の気持ちを知りたい。自分の気持ちを素直にたっちゃんに打ち明けようか。「いや、そんなことはできない、絶対に」たっちゃんから返ってくる言葉が怖いから。でも、今のままでは確実に、自分からたっちゃんは離れてゆく。「好き」という言葉を単純に「恋」というなら、自分は、間違いなくたっちゃんに恋しているのに、それに気付かなかった。これが恋だとは。今までなら、たっちゃんの友達ならば、それが誰であろうと、全て自分の友達とさえ思っていたのに。今は違う。どんどんと、嫌な自分になってゆく。「何故こんなことぐらいで深刻になるの、千佳らしくないぞ」と最後には、自分を叱っていた。
千佳は今、まさに青春の入り口にいる。しかし、初恋という魔物は、大抵それよりも一足早くやってきて、幼い心をときめかせ、そのほとんどが切なく消えてゆく。良くも悪くもその切なさは、青春への登竜門と言えなくもない。「どうなってしまったの」千佳は再び心で叫んでいた。
ともあれ、千佳にとって降って湧いたようなこの苦悩は、まさに、芽生えた恋の蕾が、その心の中で、大きな花を咲かせようとしていた矢先の出来事であった。
千佳が浜辺に来て、少しの時が流れ、いつのまにか空全体の雲が切れて、太陽は真上に来ていた。千佳は気を取り直すべく、「頑張らなくっちゃあ」と自分を励ますように呟きながら、浜辺を去った。達也の家にさしかかった時、千佳は、達也に声をかけようと思ったができなかった。
「たっちゃん」
と微かな声で名前を呼んで、自分の家へ戻って行き、そしてまた机に向かった。
その日の夜、8時頃、ゴルフに行っていた繁が、上機嫌で帰ってきた。
「風呂も食事も済ませてきたから、ビールでももらおうかな」
その繁に、陽子は冷やしてあったビールを注ぎながら、
「お疲れ様でした。今日はチョコレート何枚買いました?」
「そうくると思ったよ。だけど今日は電車道だったぞ。キャディーさんだっていらなかったぐらいだ。昼食も夕食も山口のおごりだ。ハハハ、ざまあみろってんだ」
「あら乱暴な言葉ね。千佳の前ですよ」
「いやあ、すまん、すまん。だけど山口のやつ、僕から、チョコレートをせしめることを、生き甲斐のように思っているからね。今日は久しぶりにスカッとしたよ」
「そう、良かったですね。これでしばらくはクラブを買い換えることもなさそうだし」
陽子は皮肉な目を傍にいる千佳に向けて、片目を閉じた。千佳は不思議そうに、
「ね、お父さん、チョコレートを食べながらゴルフをするの?」
繁と陽子の会話でしばしば出てくる、素朴な疑問であった。繁は吹き出しそうになった口を両手で塞いだ。
「スコアが良くなかった人がご馳走したりすること。もっと深い意味もあるけど、千佳はまだ知らなくていいわ」
答えたのは、陽子だった。
「よくわかんない」
「それでいいの。テストには出てこないから」
陽子もおかしそうに口に手をやった。
この家庭は、三人のうち誰が欠けても、その生活の機能は半減して、逆に三人が揃うと倍加するように見えた。それほどまでに三人の家族ではあったが、それぞれのポジションが正常に機能していたのである。洋子の皮肉にも上機嫌の繁は千佳に向かって、
「千佳、今週末、長野に行くぞ。三人で」
それは突然だったが、千佳は、なぜ長野に行くのか、その理由はすぐにわかった。そして陽子と繁の間ではすでに話ができている様子で、
「新幹線で行くんですか?」
「いや、車にしたよ。君も乗れるんだし、電車だと現地に行ってからが不便だからね」
「そうですね。それじゃあそのように準備しておきますから」
その意図をとっくに悟っている千佳も、
「じゃあ、いよいよなんだ」
「うん。とにかくおじさんの好意もあるし、馬も一度見ておきたいからね」
さらにビールを口に運んで、繁は
「それに、千佳だって馬に乗れないんじゃ話にならないだろ。お父さんが教えられないこともないけど、お父さんが教えて、千佳がこけるとまずいし、やっぱり、おじさんに教えてもらった方がいいからね」
「こける」という部分に力を込めて、繁は、陽子に皮肉な目を向けた。それは以前、陽子が千佳に、繁が馬から見事に落ちたことを「こけた」と表現して、笑いながら話した事が発端になっている。
「あら、あなた、この前の事、まだ根に持ってるんですか?」
「いや、どうして」
「いいから、いいから」
千佳が割り込んで、
「とうとうお馬さんに乗れるんだあ。ね、お母さんも教えてもらおうよ」
「だれに?」
「もう、お母さん」
「フフフ。冗談よ。でもお母さんはいいわ。それにしても今の信州は、紅葉が綺麗でしょうね」
むしろ陽子の楽しみはそっちにあった。
「うん。まだ少し早いかもしれないけど、かなり色づいているだろうね」
「でも変ね。こんなに景色の良い所に住んでいるのに、なぜかよその景色も見たくなるんですもの」
「それは仕方ないだろう。いくらここが美しいと言っても、毎日同じ景色を見てるんだからね。たまにはここを出るのもいいよ」
「そうだけど、なんだかそんな風に考えると、人間ってどこまでも贅沢にできているんですね」
「確かにそうだね。人間は、どんなに美味しいものでも、そればかりを食べていると、必ずおいしいと感じなくなるし、味覚でも視覚でも同じ理屈なんだな」
「お酒は、毎日同じもの飲んでるけど、飽きないんですね」
飲めない陽子は笑いながら皮肉った。
「………。」
二人の会話は、あらぬ方向へ進もうとしたが、千佳は明日からのテストが気になっていて、
「とりあえず、その前にテストを頑張らなくっちゃ」
席を立って、自分の部屋に行こうとした千佳に向かって繁は、
「明日からだったね。それでどうなんだい?進み具合の方は」
「私なりに頑張っているつもりだけど、あまり大きな期待はしないでね」
「ハハハ。千佳に勉強の期待など、一度もしたことはないよ。何も言わなくても、それなりの成績はちゃんと残しているし、それよりも、千佳が、今のまま素直に育ってくれる方が、お父さんは、はるかに嬉しいよ」
陽子が続いて、
「そうね。お父さんの言うとおりだわ、お母さんが言うのも変だけど、今の千佳は、私から見ても素敵よ」
千佳は、その言葉に、「なぜ、どうして今の千佳が素敵なの?今の私は最悪なのに」と、わずかな反感を抱いたが、笑顔は消さなかった。
「なんだかそんな風に言われると恥ずかしいわ………。お母さんの中学生時代はどうだったの」
「成績のこと!?」
「うん」
「そこそこかな」
「ふーん。じゃあ、私と同じだ」
「成績じゃあ千佳の方がだいぶ上よ。でもね、お母さんが優秀だったのは、中学生時代じゃなかったけど、こんな素敵なお父さんを、人生のパートナーとして選んだこと。それは千佳にも負けないと思うわ」
千佳は、その瞬間チラッっと繁を見たが、その繁は、何とも複雑な表情をしていて、小さく咳払いをしていた。だが、千佳はこの母の言葉は「本当だろう」と受け止めていた。千佳にとってもまた、繁は、理想の男性だったのだから。しかし、それを真顔で言える陽子に、
「なんか、お腹いっぱいになっちゃった」
千佳は、満面の笑顔で、自分の部屋へ入っていった。
自分の部屋に戻った千佳は、勉強の前に日記帳を開き、少し前の日付を捲って読み返していたが、つい先ほどまでの笑顔は失せて、悶々とした浮かない表情に変わっていた。やがて千佳は「フッ」ため息を漏らし今の気持ちをそのまま、今日のページに綴り始めた。
翌朝、昨日の朝の天気が戻ってきたかのように、かなり強い雨が降っていた。千佳は今朝もまた達也を誘って学校へ向かった。いつもの光景である。達也と顔をわせた千佳は、瞬間的に、達也の知らないところで、昨日、一人で悩んでいた自分を思い出して、何か気まずさを感じたが、それも一瞬の事で、すぐにいつもの屈託のない千佳に戻った。
「今週末、長野に行ってくるね」
「じゃあ、いよいよなんだ」
「ジェンヌが来るのは、もっと先みたいだけど」
「千佳の夢がひとつ叶うってわけだね」
「たっちゃんも、長野に、一緒に行けばいいのに」
「僕は無理だよ」
達也は、はっきりとした口調で答えた。
「たっちゃんと一緒なら、もっと楽しいのに」
千佳の本音だった。
その後、学校に近づいた所で、和代や道子達と、いつものように合流した。
千佳たちは、談笑しながら歩いていたが、その笑顔も、あっという間に消えた。校舎に着くと、早苗が、駆け込むように入ってきて、達也に気づくと、まっすぐ達也に向かい、
「池田君、オハヨ。ね、来て来て」
早苗はいきなり、達也の腕をとり、
二階に上る階段をさっさと、二人で上がって行ったのである。
「何よあれ。信じられない」
和代はもろに不愉快そうな顔をして、チラッと千佳の顔を見た。その千佳には、いつもの笑顔はなく、雨に濡れた制服を、静かにハンカチで払っていた。
「私、もう我慢出来ない」
と二人を追いかけようとしたのは道子だった。が、千佳が止めて、
「道子、今日はテストよ。やめて」
「千佳、何よ、他人事(ひとごと)みたいに」
「とにかく、今は、揉め事はダメよ」
「………。分かったわ。でも、私のやりたいようにやるから」
道子達の怒りが収まらないまま、教室に入ると、早苗は教科書を机の上に広げて、達也に何かを聞いていた。千佳は、まるで何事もないかのように静かに自分の席に着いたが、道子は許せなかった。そして、そのまま行動に出た。自分の席に、カバンを置いたかと思うと、中から適当な教科書を取り出して、達也の席に向かったのである。
「ねえ池田君、ここ教えてくれない?」
目を吊り上げた道子は、教科書を差し出して、早苗と達也の間に割り込んだ。達也も、さすがに気まずさを感じたのか、すぐに自分の席に着いた。そして、道子が差し出した教科書を見ると、今日のテストと全然関係のないページが開かれていた。達也が不思議そうに道子を見上げると、道子は、敢えて達也に向かって言った。
「池田君一言言っておくけど、これ以上、このクラスの風紀を乱さないでね。池田君らしくないから」
「………。」
達也は何かを言おうとしたが、道子の怒りはそれを許さなかった。それだけ言うと、道子は、さっさと自分の席に戻った。達也は明らかに戸惑っていた。この種の問題になると、必ずと言っていいほど男子は鈍感になる。頭の良い達也もまた、男子の一人であった。
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