第三章 木塚早苗
あれから一週間。いつものように千佳は達也とともに学校へ向かった。学校へは約1キロの道のりである。学校に近づくにつれて二人の周りにはみるみる友達が増えていった。千佳には友達が多かったが、特に宮下和代と、松井道子は親友で、ふたりは、千佳と達也の仲の応援団長的存在だった。和代は活発で頭もよく、学級委員長をしていた。学校に着くと、千佳と、和代と道子は、教室の裏に咲いている花に水をかけ始めた。金盞花や水仙の花の香りが、朝の心地よい風に乗って、千佳たちの体を包んだ。水をかけ終え、教室に入ると、すぐに授業開始のチャイムが鳴った。まもなく、担任の教師が一人の少女を伴って教室に入ってきた。朝の通例の挨拶の後、教師は
「今日は皆さんに、紹介する友達がいます」
と、言って、入り口に立っている少女を教壇に上がるように促して、黒板にその少女の名前を書いた。
「木塚早苗さんです」
名前を紹介されると、早苗は軽く会釈をした。驚くほどの美少女である。黒髪は肩辺りで揃えられて、肌は白く、まるで美しい人形のような顔立ちだった。そういえば、朝、千佳たちが教室に入ってきた時、一番後ろの席に、昨日まで無かったはずの、机が一つ置かれていた。
「木塚さんは、お父さんの仕事の都合で急遽、横浜から、こちらに引っ越してきました。皆さん仲良くしてください」
教師は平凡な型どおりの紹介をした。
紹介を終えて、早苗を、後ろの空いている席に座るようにと促した。
早苗は教師の指示に従ってその席に着いた。
その横は偶然にも、達也の席だった。
休憩時間に入ると、このクラスの男子生徒たちは、あちこちで早苗の話でもちきりだった。
「おい、驚いたなぁ。あれは間違いなく、学校一の美人だよなぁ」
「テレビでもあんな可愛い奴、見たことないぜ」
「明日から、学校へ来るのが楽しみだよ」
「俺は早速、今日、ラブレターの下書きしなきゃあな」
このクラスのムードメーカー石田勉と、そのグループであった。
「無駄、無駄。お前がいくら天才的なラブレターを書いても相手にされないって」
「分からんぞ。蓼(たで)食う虫も好き好きって事があるからなぁ」
「森口、大した言葉知ってるじゃないか」
「おかんの受け売りだよ」
「だろうな」
「あぁあ、もうちょっと男前に生まれてたらなあ」
「男は、外見じゃないって、ハートだよ、ハート」
「ハートも自信ないしな」
皆は腹を抱えて笑った。
こうして、男子生徒への、早苗の第一印象は、鮮烈なものだった。
4時限目が終わり、お昼の給食時間になって、ちょっとした出来事が起きた。早苗が給食を口にしないのである。達也が心配して、
「木塚、食べないのか?」
と、声をかけると、
「少し体調が悪いから……。」
と言って無愛想に答えた。達也は
「宮下、木塚が調子悪いと言ってるんだ」と、和代を呼んだ。
和代はすぐに来て、
「木塚さん、大丈夫?具合が悪ければ保健室に行く!?」
優しく声をかけたが、早苗はいきなり、
「大丈夫、私の事は構わないでね。行きたくなったら私、一人で行けるから」
早苗の口調の強さに和代は唖然とした。早苗は続けて、
「それから私、すぐに横浜に帰るし、友達なんて欲しくないから、そのつもりで」
「………。」
それを耳にした道子は
「木塚さん、そんな言い方ないんじゃない」
「道子、いいから、いいから」
和代は、道子を制して、何も言わずに自分の席に戻った。そんな事があって、この日のこのクラスの昼食は一時、嫌悪な雰囲気になったが、早苗の性格の一端を、早くも露呈した形ともなった。
やがて一日の授業を終え、下校の時間がきた。達也も千佳に宣言したとおり、陸上部に昨日、退部届けを出して、受理されていた。学校を出る時は、何人かの友達と一緒だったが、登校時とは逆に、途中に一人減り、二人減りして、最後には千佳と、達也が二人っきりになった。
千佳も女の子。今日、転校してきた早苗のことは、やはり気になっていた。
「たっちゃん。木塚さんのこと、どう思う?」
「どうって、何が?」
「お昼、ちょっと驚いたけど、綺麗な子だよね」
千佳の素直な気持ちだった。そして、達也の前に出て腰をかがめ、達也の顔を覗き込みながら、
「ね、あんな子に好きって言われたらどうする?」
千佳は、答えを聞くのが少し怖かったが、あえて聞いた。
「いきなり、何、つまんないこと聞いてんだよ千佳」
「つまんなくないわよ。だって、たっちゃんモテるもん」
「モテないよ。俺には千佳がいるから」
達也は言った後で、舌を出して笑った。
「えっ!?」
千佳から、後の言葉が出て来なかった。達也のそれが、冗談とわかっているのに、千佳にとっては、あまりにも衝撃的な言葉だった。
達也は、
「千佳、何を深刻な顔してるんだよ。冗談に決まってるだろ」
千佳は我に返り
「もう、たっちゃんたら、冷やかさないでよ。年頃の女の子に向かって、本当に無神経なんだから」
千佳は頬を膨らませながら言った。
「ハハハ。ごめん」
謝る達也に
「でも、ありがとうたっちゃん」
千佳の今言える、精一杯の告白であった。
達也のこうした、わずかな言動の一つ一つが、今の千佳の心を、敏感に動かしていたのである。
蕾(つぼみ)をもった花はあっという間である。
違(たが)いなく、千佳の心に蕾となった初恋の花も、早、花びらを開けようとしていた。
千佳は昨日よりも、今日の方が達也を好きになっていて、今のこの瞬間、千佳の心には、その甘い香りだけが漂っているかのようだった。
やがて二人は、いつものように達也の家の前に来て、千佳は
「今日は、カレーよ。たっちゃん、カレー好きでしょ!?」
「うん。大好きだよ」
「後で持って行くから」
「まさか、千佳が作るんじゃないよな?」
達也は、千佳が怒るのを承知で言った。案の定、千佳は
「何よ、その言い方。カレーくらい、ちゃんと作れるんだから」
怒った。
「ハハハ。やっぱり」
「やっぱり。って何が?」
「いや、独り言だって」
「目の前に私が居るのに、独り言はないでしょ。たっちゃん、最近私を怒らせるのが趣味になってるでょう!?」
「千佳の怒った顔、可愛いからね」
「ばか!」
千佳は顔を赤く染めて
「たっちゃんって、いつからそんなに口が上手くなったの」
「さあね。じゃ、おばさんのカレー待ってっから」
「まだ言ってるし。なんで素直になれないかなあ」
千佳は、わざと口を尖らせて、ドアを開ける達也を横目で見ながら、複雑な心境で、我が家の木戸を入って行った。怒れば怒る程、嫌みを言われれば言われるほど、達也を好きになる千佳であった。
千佳が木戸を入ると、庭先には早くも何本かの材木が置かれていた。繁が早速、馬小屋を建てるために、知り合いの工務店に頼んだものらしく、工事のための準備も着々と進んでいる様子だった。
翌朝、千佳が家を出る頃にはもう、大工職人の人たちが作業にかかっていた。そのうちの棟梁(とうりょう)らしき人物を千佳は知っていた。確か達也の家を建てた人物である。
「おじさんだったの、工事をしてくれるのは」
千佳が、微笑みながら懐っこい声をかけると、
「やあ、千佳ちゃん。久しぶりだなあ。随分女らしくなったじゃないか。達也とはうまくやってるか?」
千佳は今、はっきりと思い出した。この棟梁は人はいいが、ひどく口が悪いと繁に聞いたことがある。それで千佳も、茶目っ気たっぷりに、
「おじさんに任せて大丈夫かしら」
「ハハハ。千佳ちゃんも、言ってくれるじゃないか。驚くなよ、御殿のような建物を作ってやるから」
「間違えないでね。お馬さんのお部屋なんだから」
「なんじゃ。馬小屋か。わしはまた、千佳ちゃんの部屋かと思っていたがな」
「………。行ってきます」
とても千佳の勝てる相手ではなかった。
「ああ、行っといで。千佳ちゃんが帰る頃には立派に出来上がっているからな」
千佳は驚いて、
「え。そんなに早く?」
「んなもの、そんなに早くできだら大工のオリンピックにでも出るよ」
「もう、おじさんったら」
千佳は、そそくさと、その場を立ち去り、達也の家のチャイムを押した。
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