第二章 父からの贈り物
達也の家を出た千佳は、そのまま家の中には入ろうとせず、縁側に腰をかけて両足をぶらつかせながら空を見ていた。千佳は夜空を見るのが好きだった。静かな宵に、虫の競うような鳴き声が絶え間なく千佳の耳に入ってきた。星は満天を覆っていて、誇らしげにその身を輝かせていた。千佳はただ静かに、宇宙の神秘を見つめていた。しかし、やがて襲ってくる千佳への運命のいたずらを、今この時この星たちは気づいていたのか。この瞬間、千佳の気持ちは、ただ、訳の分からない達也への、複雑な思いでいっぱいだった。今、達也と別れたばかりなのに、もう会いたくなっている。「この気持ちはいったい何?」と、考えてもわからないもどかしさに、そうつぶやくしかない千佳であった。千佳は中学生になってから毎日欠かさずに日記帳を書いていたが、ここにきて、その内容にも明らかな変化が現れていた。今までの千佳の日記帳には、「苦しみ」や「悲しみ」の文字はなかった。それほどまでに、この島に降る太陽の光は、千佳の身も心も、すくすくと育ててくれたが、その太陽も千佳の初恋についてまでは関わりたくなかったようである。果たして、今の千佳の日記帳には、達也への慕情を意味する言葉でそのほとんどが埋められていた。そんな千佳ではあったが、少なくともまだ苦しんでいる様子はなく、その麗しい瞳は星の光を映しながら、澄んだ秋の夜空を旅しているようだった。
どれほどの時が過ぎたのか、やがて繁が帰ってきた。繁は縁側に座っている千佳を見つけると
「ただいまあ、千佳、どうした?」
「あっ。お父さん、お帰りなさい。星が奇麗だから見てたの」
「星!?」
繁は空を見上げて、千佳に視線を移すと、
「恋でもしたのかい!?」
冗談っぽく言った。
「お父さんどうしてわかるの?」
繁は本気に驚いた様子で、
「なんじゃ………??」
「フフフ。冗談に決まってるじゃない」
千佳は縁側から立ち上がり繁の鞄を手に取った。
「脅かすなよ」
「あら、どうして驚くの?私が恋をしたって別に不思議じゃないでしょ?」
千佳が真顔で言うと、
「そりゃそうだけど、いきなりそんなこと言われるとびっくりするよ」
「そんなに驚くなんて、何だか、先が思いやられるなあ」
千佳の本音だった。
「娘の父親ってそんなもんだよ」
「心配しないで。好きな人が現れたら、お父さんに一番に報告するから」
千佳は、小さな嘘をついた。
根の明るい繁は、
「お父さんのような恋人をみつけるんだね」
千佳は、
「うわあ、出たあ」
と、二人は笑いながら、肩を並べて玄関を入っていった。
言うまでもなく、繁にとっても、千佳は命そのものであった。
繁は、家に入ってすぐに風呂に入った。風呂場から繁の歌う、尾崎豊の曲が聞こえてくるのは、いつものことであった。
千佳と、陽子が食事の準備を終えた頃、繁も風呂から上がり、三人は食卓に着いた。
陽子が繁にビールを注ぐと、繁はそれを美味そうに一気に飲み干した。繁は、空になたコップをテーブルの上に置いて、千佳に向かって言った。
「千佳、すごい話があるんだ」
千佳は、ご飯の箸を止め
「なあに、スゴイ話しって?」
陽子は、千佳に向かって、
「千佳、期待しない方がいいわよ、お父さんのスゴイは大したことないんだから」
「それもそうね」
千佳もわざと無視するかのように笑って箸を取った。
「いや、本当にすごいんだって」
繁がいつになく真剣なので、陽子は
「なら、勿体ぶってないで早く、言ったらどうですか?」
繁は憮然とした表情を浮かべて、
「言おうとしたら、君たちが話しの腰を折ったんじゃないか」
繁のふくれ面に、陽子は、千佳に向かって笑った。
「ごめんなさいお父さん。ね、そのスゴイ話し教えて」
繁は気を取り直して、
「真面目な話し、今日ね、長野の武次おじさんから電話があって、馬を飼ってみないかと言ってきたんだ」
「馬!?」
千佳と陽子は、ほぼ同時に声を上げて、目を合わせた。
「馬って、本当の馬?」
陽子が、聞くと、繁は
「決まってるじゃないか。正真正銘の本当の馬。おもちゃの馬とでも思ったのかい?」
繁が、誇らしげに言うと、陽子は、
「そうじゃないけどあまりに、唐突なものですから」
「だから、最初から、スゴイ話しだって言っただろ」
「………。」
千佳と陽子は顔を見合わせた。
その千佳は、再び箸を置いて、
「ね、ね。どういうことなの?」
特に千佳はあまりの偶然に驚いた。つい先ほどまで、達也とその話をしていたのだから。
「それって、おじさんが馬をくれるっていうことなの?」
陽子が訪ねると、繁は
「もちろん、そういうことみたいだよ」
「何でまた、おじさんにとって、そんな大切なものを?」
「うん。それなんだけど、なんでも一歳のサラブレッドで、ジェンヌという名前の雄馬で、そこそこの血統馬らしいんだけど、生まれつき前脚のバランスが悪くて、競走馬としてやっていくのは難しいらしいんだ」
「ジェンヌ。いい名前ね」
千佳が呟いた。繁は、
「君たちは知らないと思うけど、競走馬の世界は、とんでもない良血でない限り、実績のない馬は、種牡馬になることはできないし、ましてや、一度も走ったことのない馬に、種付けを依頼してくる馬主なんて、あり得ないからね」
陽子は、
「つまりは、どういうことなの?」
「この世界では、生きてゆけないって事だよ」
「じゃあ、その馬はこのままだとどうなるんですか?」
「千佳の前だから言いたくいね。でも走るために産まれてきた馬が、走れないんではね………」
繁は言葉を濁したが、千佳は、
「私、知ってるわ。最悪の場合、殺処分になるんでしょ!?」
「………?」
陽子は、
「難しいことは分からないけど、なんだか可哀想。それであなたに?」
「うん。うちは庭も広いし、賢そうな馬だから、飼ってみないかと言ってきたんだ。それに、以前、長野に遊びに行った時、千佳が馬にスゴく興味を持っていたことを、おじさんが覚えていたらしくてね」
陽子は、
「変なことを覚えていたのね………。それであなたはどう返事したんですか?」
「もちろん、僕だけで決められないし、家族と相談してからと、言っておいたんだけど、おじさん、急いでるらしいんだ」
陽子は、
「経験も無いのに、私達に馬なんて飼えるかしら?」
と、繁に再びビールを注ぎながら言った。
「いや、僕の学生時代に、少しだけおじさんの牧場でバイトをしたことがあってね、全く経験が無いわけでもないんだ。それに、おじさんの話しでは、今では、餌も簡単に手に入るし、適当に運動さえさせてくれたら良い、って言ってるんだけどね」
黙って繁と、陽子の話しを聞いていた千佳は、
「私、欲しい、絶対ほしいわ。ね、いいでしょ?」
繁は、苦笑しながら
「千佳の気持なんて、聞かなくても最初から分かってるけど、陽子は?」
「………!?」
「お母さんの協力が無ければ、飼えないからね」
千佳は、
「私、お馬さんに関わるお仕事に就きたいと思ってたし、ちょうど今日、たっちゃんと、お話もしたところなの。ね、お母さん、いいでしょ?」
千佳の、めったに見せないおねだりだった。
陽子は、口を開いて、
「でも千佳は、これから、入試を控えて、いろいろと大変なのよ」
「わかってる!分かってるわ。私絶対、お父さんやお母さんの期待は裏切らないから」
陽子は千佳に視線を向けて、
「千佳のことはお母さん、信じてるけど。そんなことより、千佳。お父さんの顔を見てみなさい」
「お父さんの顔??」
陽子は、
「千佳、以外と鈍いわね」
「何が?」
「この、お父さの顔は、もう飼うことを決めてる顔よ」
千佳は、繁の顔を覗き込みながら、
「そうなの?お父さん」
繁は苦笑しながら
「まあね。普段忙しくしてるから、千佳に、最高のプレゼントになると思ってね」
陽子も、反対の意思を示さず、
「あら、美味しいこと言っちゃって」
「じやあ決まりね。お父さん、お母さん、ありがとう。最高のプレゼントよ」
千佳は嬉しさのあまり、食事さえ忘れていた。
「お礼なら武次おじさんに言うんだね」
「はい。今度おじちゃんに、電話しとくね」
千佳が言ったが、
「後でお父さんが、おじさんに電話するから、その時言えばいいよ」
陽子は
「それで、お馬さんはいつ頃来るんですか?」
「そうだね、馬となると、庭の整備などもしなきゃあならないし、二ヶ月後くらいかな」
「楽しみだわ~!」
千佳の目は、父からの思わぬ贈り物に、星のように耀いていた。
千佳には、馬に関わるエピソードがかなりある。例えば、
千佳が小学校2年生の夏休み、一家は武次の経営する長野の牧場を訪れたことがある。その牧場には10頭ほどの競走馬達が飼育されていた。ある日、千佳たち3人は、広々とした牧場を武次に案内してもらった。そこには産まれて間もない馬の親子が揃って歩いていた。基本的に、母馬は、仔馬に近づくことを極端に嫌うものである。飼い主の武次でさえ、仔馬に近づく時は細心の注意を払っていた。千佳はそれを見つけると、スタスタと仔馬の方に近づいて行こうとした。当然、武次は止めようとしたが、繁が制して、
「おじさん待ってください」
と、千佳の行動を見つめていた。
千佳は仔馬の傍へ行くと、仔馬に抱きついて、首のあたりを撫で始めた。
武次はハラハラとしながら見つめていたが、母馬は、武次の意に反して、千佳の周りをくるくる回りながら、千佳の腕を舐め始めて、甘える仕草さえ見せた。
「こりゃびっくりしたなあ。あり得んことじゃ」
武次の声だった。
千佳は母馬の顔も撫でて、平然とした顔で、唖然として、千佳の行動を見つめていた武次たちの元に戻って来た。武次は千佳の頭を撫でながら、
「千佳ちゃんは、人とはちょっと馬との接し方が違うようじゃの」
千佳は、嬉しそうに、
「お馬さん、もっと遊んで!って言ってたよ」
「………。」
「仔馬さんが?」
陽子が笑いながら聞くと。
「ううん、お母さんの方」
武次は、真顔で
「千佳ちゃんは不思議な子じゃ」
と、繁に向かって言った。
もうひとつのエピソードは、これも千佳が小学校2年生の春のことである、阪神競馬場では桜の咲く中、4月の日曜日には毎年一度、三歳の牝馬の祭典、桜花賞が開催される。千佳たち3人は、その阪神競馬場に行った。そして、いよいよ桜花賞のパドック(馬の下見所)に、今年選ばれた18頭の牝馬の精鋭達が列をなして歩きだした。千佳は。一番前の列で食い入るように馬達を見つめていた。
パドックの周回も終わりに近づいたころ、
「千佳、一番走りそうな馬わかるかい」
繁は、専門紙を片手に笑いながら聞いた。
「うん、分かるよ」
「えっ!?」
予期せぬ返事に、繁は驚いた。
「7番か14番」
千佳はサラッと言った。
「何でそう思うの?」
「だってそう見えるんだもん」
千佳がそう言った以上、繁は買わないわけにはいかなかった。パドックを去った後、勝馬投票券のマークシートの馬連の欄に7と14に印を入れた。
果たして、スタート直後、馬群の中に居た、7番と14番は4コーナーを回って、直線を向いた途端に、二頭とも馬群から抜け出して、正に、千佳が言った二頭のマッチレースになった。結果7番が一着になり二着が14番で馬連の払戻金は、3300円の中配当になった。もちろん、その時は、繁も、陽子も偶然だとしか思わなかったが、その日の夕食が豪華な物になったことは言うまでもなかった。
と、いうように千佳の馬に関するエピソードを語れば、両手の指が必要だった。
ともあれ、そんな千佳の元に馬がやってくる、千佳は嬉しさのあまり、幼子のようにはしゃいでいた。
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