第7話 懸命

 主君が道を誤った場合、命を懸けてでもこれをいさめるのが誠の武士の忠義である。

 俺は金満氏に対する忠誠心など持ってはいないが、事を成すため命をもなげうつ武士道精神には大いに共感している。人間、生命の有無を度外視すれば、行動の選択幅が飛躍的に広がる。死ぬ覚悟で挑めば、不可能だったことが可能になることもある。

 かつて維新志士たちが命を懸けて新時代を築いたように、俺もこれから始まるであろう新社会の礎になる。その覚悟はあるものの、言えば真里さんと愛が反発することがわかりきっているので、今は胸の内に秘めておく。

 それに、命を懸ける覚悟ができたところで具体的な策がなければ何の意味もない。

 とにかく、今は策を考えなければ。

「ねえねえ、タッチーってつよいんでしょ? どうしてわるいひとやっつけないの?」

「愛ちゃん、それは無理なんだよ」

 俺だってできるならやっつけてやりたい。だが、法治国家でそれはできない。どんな悪人でも正当防衛以外で人を攻撃すれば犯罪者となってしまう。

 そもそも、俺がやらなくとも放っておけばそのうち暴徒がやってくれる。金満氏は悪人だがやっつけてはダメなのだ。あんな人間でも、今はまだ日本経済を支えるのに欠かせない必要悪なのだから。

 だが、愛にそれがわかるはずもなく「どうして? どうして?」と首を傾げるばかりだった。

 そんな愛を真里さんが宥めてくれる。

「愛ちゃん、いくら相手が悪い人でも、暴力を振るったら、こっちも悪い人になっちゃうんだよ」

「ぼうりょく?」

「人を傷付けたり、苦しめたりすること。愛ちゃんは、あのおじいさんみたいな人になりたいの?」

「ううん、なりたくない。でも、えほんじゃ、みんなわるものやっつけてるよ?」

「あれはやっつけてるんじゃなくて懲らしめてるの。もう悪いことしないようにってね。だからね、あのおじいさんはタッチーがきっと懲らしめてくれる。そのためにどうすればいいのかを、みんなで考えるの」

 さすが母親だ。完全には理解できてなさそうだが、ひとまず納得してくれたようだ。

「なんにしても暴力はダメだ。それでは何の解決にもならない。とはいえ、正攻法にこだわっている場合でもない。多少強引でも無理矢理でも、何かないだろうか」

 俺のつぶやくような言葉に、真里さんが小さく手を挙げた。

「あの、わたしがおとりになるというのはどうでしょうか?」

「囮? どういうこと?」

「だからその……旦那様にわたしを襲わせるんです。そしてその瞬間を撮影して、弱味を握ぎるというのは?」

「絶対にダメだ」

 俺は強く否定した。

「いくらなんでも危険過ぎる。それに未遂の映像では脅しに使えない」

「そうですよね……」

 真里さんは微かに頬を染め、静かに引き下がってくれた。

 たとえ有効な手段だったとしても、真里さんと愛を犠牲にするつもりは毛頭ない。こんな健気な母子を犠牲にしなければ得られない平和など必要ない。

 以前、武道仲間が言っていた自作自演による襲撃も却下だ。それでは襲撃に参加した仲間の何人かは捕まってしまう。彼らならそのくらい覚悟してくれるかもしれないが、それで金満氏が改心する可能性の低さを考えると割に合わない。

 考えれば考えるほど選択肢が減っていく。誰も犠牲にせず、すべてを円満に解決する方法などありはしない。やはり俺は甘いのか。

 そう考えたところで、愛がポツリとしゃべった。

「ねえ、あのおじいさんより、もっとえらいひとにたのめば? あのおじいさんが、いちばんえらいわけじゃないんでしょ?」

 俺は大きく目を開いた。

 それだ!



 なぜこんなことに気付かなかった。 

 今まで俺が動かしてきた人間は、俺自身も含め金満氏より立場が下の者ばかりだ。下から言ってダメなら上の者に言ってもらう。こんな単純なことを思い付かなかったとは。

 俺は自室に戻り、ビデオチャットを使って鬼嶋に相談する。

『なるほど、その手があったか。お手柄だな、愛ちゃんって子の』

「ええ、盲点でしたよ」

『でもまあ、気付かんのも無理はないさ。信さんとこのじいさんより上の人間なんざ、経済界にゃ何人もいないだろう?』

「金満氏の役職の委員長より上は二十人程度ですね。でも経済団体の上層部は皆同類だから、その中の誰かに頼んでも無駄でしょう」

『そりゃそうだ。となると政治家か』

「経済界とつながりの深い人がいいでしょうか? 経済産業省か、国土交通省か……」

『いやいや、それならもういっそのこと、政界のトップに頼んじまえばいいんじゃないか?』

「トップって、まさか!」

『おう。もう金持ち連中を説得するなんてまどろっこしいことはやってられん。総理に頼んでとっとと終わらせちまおう』

 総理大臣に直談判ときたか。ボディガードになって以来いろいろと驚かせてもらったが、ここまで大胆な意見は初めてだ。

「でも、どうやって総理に話をしに行くつもりですか? 俺たちじゃ近付くことすらできないでしょう」

『俺らじゃ無理でも、メダリストさんたちの力を借りればできるかもしれん。まずは彼らのコネを使ってスポーツ界出身の政治家に話をするんだ。そこから上へ上へ話を通してもらって、総理にたどり着くっていうのはどうよ?』

 もう金満氏がどうとかいうレベルの話ではない。経済界の重鎮を裏から操って政府を動かすはずだった作戦を、直接自分たちでやってしまおうと言うのだ。

 何の影響力もない俺たちの言葉で総理が動く可能性は低い。

 だが、今はこれしかないのも事実。

 不意に身体が震え出した。恐怖ではない。だとすれば、これが武者震いというものか。

「総理に、俺たちの声は届くでしょうか?」

 問うと、鬼嶋はいつも通り得意気に白い歯を見せた。

『総理だって日本人だ。俺たちが誠意を見せれば、絶対動いてくれるさ!』



 スポーツ選手がその名声を利用して政治家になることについては肯定も否定もしない。

 要はしっかり仕事をしてくれれば良いのだ。

 俺が知る限り、元柔道選手の西郷さいごう頼子よりこ議員は他の政治家と比べて何ら劣ることはない。すでに政治家としてもベテランなのでコネもあるはず。俺たちの訴えを上につないでもらうためには、まさにうってつけの人物だ。

 というわけで、先日知り合った柔道の加納小五郎選手に西郷議員と接触できるよう便宜を図ってもらった。

 金満氏に仕事の予定がないとはいえ、邸宅からそう遠くへ行くわけにはいかない。鬼嶋や他の武道仲間も同様だ。よって、直接顔を出せない非礼を詫びた上で、ビデオチャットにて西郷議員と対面する。

 もっとも、話の大筋は加納選手から伝わっていたので、議論というほどのこともなく、西郷議員はこちらの申し出をすんなり承諾してくれた。

『わかりました、引き受けましょう。わたくしとて武道家の端くれです。この国を守るためにできる限りのことはしましょう』

 そこから先はトントン拍子だった。

 西郷議員は早急に上の議員へと話をつないでくれた。その議員から与党の上層部へとつながり、鬼嶋が提案をしてわずか二日後には総理と会う約束を取り付けることができた。

 ただし、総理と話ができる時間は十分間のみ。当然、時間の変更や遅延は一切認められない。

 そして、今度ばかりはビデオチャットで通話というわけにはいかない。俺たちの誠意を直接伝えるためにも、首相官邸まで足を運ぶ。

 そうなると問題は外出届だ。同じ都内とはいえ、いつ暴徒が攻めて来るかわからない状況で理由もなく外出することは許されない。だからといって正直に理由を打ち明けるわけいもいかない。

 いや、この期に至ってそんなことを考える必要はないのか。それどころか、もうボディガードは辞めしまっても……。

 武道仲間に相談してみたところ、皆そうしようということで賛成一致した。

 総理と会うのは明日。ならば、明日中に決着をつける。



 夜、俺は金満氏に退職届を提出しに行った。

 金満氏は烈火の如く憤る。

「なんだと!? どうして、よりによってこんな時に? さては一人で逃げる気だな!」

「逃げはしません。明日にはすべて終わらせるつもりですので。会長には今から安全な場所に避難していただきます」

「なに? どういうことだ?」

「一時間後には出発しますので、身支度をしておいてください」

「どういうことだと聞いている!」

「事が済むまでの間、親戚の家に身を寄せていただくだけのことです。すでに先方には話を通してあります。義理の娘さんの実家です」

「勝手なことを! ……いや待て、事とは何だ? 何をするつもりだ?」

「明日の昼頃にはわかります」

 俺は踵を返し、早足で歩き出す。

 すると、金満氏が慌てて追いすがってきた。

「待て、給料を三倍出そう。だから退職を撤回してくれ」

「お断りします」

 俺は足を止めない。

「では四倍で」

「金額の問題ではありません」

「なぜだ? これだけ条件で雇ってくれる人間は他にいないぞ」

 元の給料の四倍なら年収一千万越え、明らかに勝ち組と言える。だが、それは社会が平穏な時の話だ。日本経済が破綻して円が紙屑同然になってしまうかもしれないこの時期にそんな交渉は成立しない。

 金満氏は足をもつれさせながらも俺に付いてくる。

「そもそも辞めてどうするつもりだ? 辞めたら無職なんだぞ? このご時世、再就職は困難だぞ!」

「先のことは考えていません。今はとにかく、暴動を止めることが先決です」

「そんなものは放っておけば止まる。奴らにはろくな貯金がないんだ。食うに困るようになれば、暴動などやってられんだろう?」

「ろくな貯金がない?」

 廊下の真ん中で、俺は足を止める。

 そして、同じく立ち止まった金満氏を冷たく見据える。

「そんなになるまで搾取したのは誰だ?」

「なに……?」

「そんな社会を維持するために、政府に圧力をかけ続けたのは誰なんだ?」

 金満氏は唖然としたまま口を開かない。

 自覚がないというのは恐ろしいものだ。この人は金儲がしたいだけであって、民衆を苦しめたいわけではない。だから自分に罪はないと思っている。金を持っている自分はそれだけの努力をしたから、持っていない人間は努力が足りないからだと思っている。努力以前にスタートラインが平等ではないことを考えもせずに。

 これ以上この老人と話をする意味はない。だから、最後に告げる。

「あまり民衆を舐めない方がいい。暴徒に殺されたくなければ、おとなしく俺の指示に従うことだ」

 俺は再び歩き出す。

 金満氏は付いてこなかった。



 邸宅付近に怪しい人影がないことを確認した後、金満一家五人を乗せたワンボックスカーに発進の合図を出す。こんな時にも律儀に来てくれた金満氏専属の運転手が、返事の代わりに軽く右手を挙げる。

 車は邸宅から走り去っていった。

 夜になれば暴徒の活動は激減するので俺が付いていく必要はない。

 これでボディガードとしての任務はすべて完了だ。

「それじゃあ、俺たちも行こうか」

 真里さんと愛をここへは置いていけないので、一時避難の場所として都内のホテルを手配した。ついでに俺もそこに泊まる。もちろん、母子とは別室だ。

「タッチー、どこいくの?」

 いつもならもう寝る時間だからか、愛は眠たそうだ。

「ごめんね、愛ちゃん。ここは危ないから違うところへ行くんだ」

「それってどこー?」

「ええと、怖い人がいないところ、かな」

「もしかして、あたらしいおうち?」

 愛の目がパッと開く。

 期待に答えられなくて申し訳ないが、嘘は付けないのでこう言う。

「ううん。新しいおうちにはまだ行けないから、とりあえず危なくないところ。そんなに遠くないから、ちょっとだけ我慢してくれる?」

「うん。がまんする」

 姫君のお許しが出たところで、俺たちはレンタカーに乗り、ホテルに向けて出発した。

 都心に近いとはいえ、もう夜九時過ぎ。今やこんな遅くまで真面目に働く人が少ないということもあって道は空いている。これなら三十分もあれば着きそうだ。

 もっとも、愛にとっては耐えきれる時間ではなかったらしい。赤信号で停車中、バックミラーで後部座席を見ると、母親の肩に頭を預け、気持ち良さそうに眠っていた。

 そんな愛の頭を優しく撫でながら、真里さんは言う。

「愛ちゃん、眠っちゃいましたね。信さんの運転が優しいからかな?」

「いや、普段運転しないから慎重なだけだよ」

「でも優しいと思います。そういうところにも武道精神が生きてるんじゃないかって、わたし思うんです」

 安全運転も護身のうちではあるが、武道と結び付けたことはなかった。真里さんの言うとおり、人にもっと優しさがあれば事故は減るだろう。

「運転だけじゃありません。お仕事でも、教育でも、日常生活でも、人間社会にはもっと優しさが必要ではないでしょうか?」

「そうだろうな」

 信号が青になる。愛を起こさないよう、やんわりと車を発進させる。

「わたし、ほんの少しだけど信さんから武道を教えてもらって、いろいろ考えるようになったんです。今の世の中って、人の優しさがあまり評価されないじゃないですか。この国でリーダーになるのは、お金を持っている人か、仕事ができる人か、あるいは気の強い人ばかり。そうじゃなくて、もっと優しい人がリーダーになれば、きっと社会は良くなると思うんです」

 そのとおりだ。

 いくら能力が高くとも、自分のことしか考えない人間がリーダーになれば、格差や不平等が生まれ、やがて社会は崩壊する。今まさにそうなっている。

 仮に民衆が既得権益層を討ち果たしたとしても、このままでは別の人間がその座に着くだけだ。社会の本質は変わらない。

「お金や能力より優しさが一番の評価になる、そんな社会を作るには、信さんの言う武道精神みたいなものが必要だと思います。だから、あまり無茶はしないでください。信さんは、長く生きて多くの人に武道を教えるべきです」

 どうやら、俺が命を懸けているのはお見通しのようだ。

 ホテルに到着する。それから駐車場に車を停め、エンジンを切った後、振り返って後部座席を見る。

「この騒動の片が着いたら、また教師に戻るよ。やっぱり、俺にボディガードは向いてない」

 そう言って苦笑すると、真里さんは優しく微笑んでくれた。



 翌朝。

 ホテルで朝食を取り、出発の準備を済ませてチェックアウト。

 真里さんと愛がロビーまで見送りにきてくれた。

「タッチー、きょうもおしごといそがしいの?」

「そうだね」

 俺はしゃがんで愛に目線の高さを合わせ、そっと頭を撫でた。

「でも、今日の仕事が終わったらしばらくは休めるから、そしたらまた一緒に遊ぼうね」

「うん! まってる」

 まぶしいくらい明るい返事を受け取った後、立ち上がって真里さんと向き合う。

「信さん、わたしたちにはあなたが必要です。必ず無事に戻ってきてくださいね」

「約束する」

 長くいれば、それだけ後ろ髪を引かれる想いが強くなってしまう。

 だから俺は短く返し、ホテルをあとにした。

 まずはレンタカーに乗って鬼嶋たちと合流する。場所は、表向きの代表である加納選手が泊まるホテルの会議室だ。ここで最終打ち合わせを行う。

 総理との会合は加納選手を含め五人が出席。話の大筋は加納選手にしてもらい、鬼嶋が補足をする。

 残り三人は護衛と交代要員だ。途中トラブルが起きた際、加納選手を守ることと、鬼嶋が欠けた場合その穴を埋める役目を担う。俺もその一人だ。

「それじゃ、そろそろ出撃しようかい。ひょっとしたら妨害してくる連中がいるかもしれないから、くれぐれも気を引き締めてな」

 実質的リーダーである鬼嶋の口調は軽快だが、言葉の内容は重い。

 もちろん、妨害してくる連中というのは富裕層のことだ。彼らにとって俺たちの行動は、自分たちの権益を脅かす悪業に他ならない。昨日までの護衛対象は、もはや敵。

 そして敵側からすれば、俺たちがここを出てから総理のところへ行くまでが勝負だ。

 いや、出てからという考えは甘い。ホテルの従業員や客に化けた刺客が潜んでいるくらいのつもりで警戒しなければ。敵が狙うとすれば代表の加納選手だ。よって、部屋に荷物を取りに行くにも彼を一人にはしない。

 ところが、加納選手に付いていった仲間の一人が、血相を変えてロビーにやってきた。

「聞いてくれ、加納さんの様子が変なんだ。突然腹を抱えてトイレに駆け込んで、それから出てこない。声をかけても苦しそうに唸るばかりで、何がどうなってるのか」

「やられた!」

 鬼嶋が悔しそうに歯噛みする。

「たぶん下剤だ。朝食に盛られたな」

 全員で加納選手の様子を見に行く。しばらくして、ようやくトイレから出てきた彼の顔は脂汗にまみれ、顔色は蒼白だった。これでは到底出発できそうもない。

「ちくしょう、いつの間に!」

「いったいどこのどいつだ!」

「どうする、代わりに澤村君を呼ぶか?」

「いや、言っちゃ悪いが、彼では総理と相対するには風格が……。かといって、警察官の坂木原さんに来てもらうわけにもいかないし」

「じゃあどうするんだよ?」

「落ち着けって」

 仲間たちの狼狽を鬼嶋が抑える。

「無理なものは仕方がない。俺たちだけで行こう。俺が加納さんの代わりをする。俺の代わりは信さんがやってくれ」

 突然話を振られて焦ったが、迷っている場合ではない。

「……わかりました」

 他の仲間たちも異議はないようだ。また、これ以上ここに留まっている時間もない。

 加納選手のことは彼の柔道仲間に任せ、俺たちは急ぎホテルを発つ。

 目的地は首相官邸だ。そこまでの道筋と渋滞情報はあらかじめ綿密に調べてあるので、不測の事態が発生しない限り余裕をもって到着できる。

 会合に出席する四人と付き添いの五人で、ホテル付近のコインパーキングへと向かう。

 着くと、仲間の一人が異変に気付いた。

「嘘だろ。タイヤが!」

 用意した二台の車が四輪ともパンクさせられていた。またもや妨害工作だ。

 鬼嶋は慌てることなく、すぐに次の指示を出す。

「タクシーで行く! ホテルに戻ってフロントで手配してもらう」

 直後、パーキング北側の出入り口に二台のワンボックスカーが停まった。さらに、東側にも二台のワンボックスカーが停車する。パーキングは四方のうち二方がビルの壁に面しているので、封じ込められた形になる。

 もはや、あれが敵であることは疑う余地もない。

「おいおい、そこまでするかよ。敵さんも必死だねえ」

 皮肉めいた笑みで軽口を叩く鬼嶋。

 こんな時だからこそ笑いたくなる気持ちは俺も同じだった。

 ワンボックスカーから、ぞろぞろと柄の悪い男たちが降りてきた。一台につき六、七人。合計すればこちらの三倍近い。その手には、いずれもバットや鉄パイプなどの鈍器が握られている。

 身なりや雰囲気からして暴力団関係者といったところだろう。金で富裕層に雇われたか、あるいは経済界に進出している極道組織が動いたか。どちらにしても不思議ではない。

「どうする?」

 仲間の一人が鬼嶋に尋ねる。

「北側を一点突破する」

 敵に挟まれた時、大事なのは素早い決断と行動だ。両側から同時攻撃を受ける前に囲いを突破する。

 俺を含む武道仲間九人は一斉に警棒を手にする。飾りだと思っていた警棒も、ここへ至っては使わざるを得ない。ただし、乱戦でむやみに武器を振り回しては味方に当たる危険性があるので、攻撃よりも防御を主に使う。警棒で敵の武器攻撃を防ぎ、蹴りや手技で仕留める。

「行くぞ!」

 鬼嶋の号令で、全員が北側出入り口に向かって走り出す。

 敵はこちらの進行を防ぐように、車と車の隙間を重点的に塞いできた。積極的に前へは出てこない。東側の仲間が来るまで時間を稼ぐつもりだ。

 こっちが護身のプロなら向こうは喧嘩のプロといったところか。集団戦というものをよく心得ている。

 やがて俺たちは挟み撃ちにされ、戦いは消耗戦へと突入する。一人一人の格闘能力はこちらが上だが、やはり人数差が厳しい。皆、致命傷こそ避けているものの、鈍器で手足を打たれ、次第に追い詰められていく。誰一人として囲いを突破できない。

 仲間の一人が叫ぶ。

「剛さん、信さん、俺たちが何とか隙を作るから、あんたたちだけでも先に行ってくれ!」

「任せる!」

 鬼嶋は迷わず返した。

 俺も迷っている暇はない。だが、無茶な突撃を敢行すれば何人かはやられてしまうだろう。他に手はないのか?

「信さん、行くぞ!」

 考える間もなく、鬼嶋に手を引かれる。仲間も突撃体勢に入る。

 やるしかないのか。

 覚悟したその時、囲いの向こうから乾いた爆音が響いてきた。

 爆発音ではない。爆音だ。それも複数の。

 その場にいる全員が一瞬動きを止める。

 爆音の群れが近付いてくる。過去幾度となく安眠を妨害された不快なエンジン音。

 ただし、今回のそれは援軍の咆哮だった。

「よう、待たせたな!」

 漆黒の大型スポーツバイクにまたがり、暴走族の大軍を率いて現れたのは、キックボクシング世界チャンピオンの澤村だった。

 やっぱり元ヤンキーか!

 さすがに、立場が立場だけに後輩たちのような特攻服ではなく、少し派手めのライダースーツを纏っているが、威勢だけは現役の特攻隊と変わらない。

「ここは俺らに任せろ! 行け!」

 澤村の叫び声の後、暴走族と暴力団が衝突を開始する。

 どっちもどっちのような気はするが、今回ばかりは暴走族の皆さんにがんばってほしい。

 彼らが作ってくれた突破口を四人で駆け抜ける。

「こっちです! 乗ってください!」

 澤村の後輩が、妙に車高の低い黒塗りのセダンを指して叫んだ。

 センスはともかく車まで回してくれるとはありがたい。

 四人で乗り込み、すぐに発進する。

 曇り空のおかげで気温が低めとはいえ、六月の日中にあれだけ激しく動けば全身汗まみれだ。せめてハンカチで顔だけは拭いておく。運転手は俺たちを気遣い、冷房を強めてくれた。

 一息つくと、身体中がズキズキと痛み出してきた。アドレナリンの分泌が終わったようだ。行動に支障が出るほどの傷は負っていないが、動くのがひどく億劫になってきた。

 頭部を守ったおかげで出血が少ないのが救いだ。警棒は途中で失ってしまった。

 仲間たちも似たようなものだ。満身創痍とまではいかないが、無傷には程遠い。

 車が首都高に入る。

 幸い道は混んではいないが、安心できない。この状況で敵が仕掛けてくるとしたら進路妨害といったところか。いくらなんでもアクション映画のように銃弾を撃ち込んでくる輩が現れないことを祈りたい。

 俺は後部座席で、不審な車が近付いてこないか絶えず見張った。



 不安は杞憂に終わり、何事もなく霞ヶ関の出口まで五〇〇メートルというところまできた。首都高を出れば首相官邸は目と鼻の先だ。時間もまだある。

 ところが、出口はひどい渋滞だった。料金所に続くトンネルの手前まで行列が続いているほどだ。

 こんな渋滞情報はなかった。たった今、事故でもあったのだろうか?

 一分、二分と経っても列は動かない。完全に止まっているようだ。

 助手席の鬼嶋が言う。

「仕方ない、ここからは歩いて行こう。係員に事情を説明すれば通してくれるはずだ」

 俺たちは運転手に礼を言い、後続車に注意しながら車を降りた。

 渋滞の原因はトラックの積荷の落下だった。荷台から落ちた鉄骨が完全に道路を塞いでしまっていた。

 これが偶然か、意図して起こしたものかはわからない。トラックの運転手は柄の悪そうな中年男だったが、それだけで暴力団関係者と決め付けることはできない。電話をするのに夢中でこちらに敵意はないようなので、黙って通り過ぎた。

 徒歩で首都高を出て、六〇〇メートルほど先にある首相官邸に向かう。

 人も車も多い官庁街の真っ只中だ。普段ならこんなところで襲撃してくるとは思わないだろうが敵も必死だ。油断はできない。俺たちは全方位に気を配りながら歩を進めた。

 大通りから首相官邸へと続く一方通行の道がある。そこは一般道ではあるが、入口に二名の男性警備員がいる。暴動騒ぎの最中ということもあってか、素通りはさせてもらえない。

「失礼ですが、ご要件は?」

 警備員の質問に鬼嶋が答える。

「私は加納小五郎の補佐を務める鬼嶋という者です。本日、加納が総理との会談に来ることになっていたのですが、本人が急病で来られなくなってしまいまして。予定の変更ができないということで、我々だけでやって参りました」

「鬼嶋様ですね。話は伺っております。どうぞ、お通りください」

 先ほどの戦いで顔や手に痣がついている者もいるので、不審者と思われないか心配したが、意外とあっさり通してくれた。

 官邸まであと二〇〇メートル少々。さすがにもう大丈夫だと思いたい。

 ――不意に、背後でドサっと何かが崩れ落ちるような音がした。

 嫌な感覚が脳裏をよぎる。

 俺は振り向くと同時に飛び退き、敵の襲撃をすんでのところで回避した。

 同じく奇襲を回避した鬼嶋が叫ぶ。

「なんだ、こいつら!?」

 さっきの警備員だ。その手には黒い長方形の物体。先端からは鬼の角のように二本の金属端子が突き出ている。スタンガンだ。

 仲間二人は地面に伏したままピクリとも動かない。あれでやられたようだ。

 偽警備員たちは言葉もなく、俺たちに攻撃を仕掛けてくる。

 この防刃スーツで電流を防ぐことはできない。あの先端に少しでも触れたら終わりだ。

 スタンガンを持つ敵の右手を注視し、攻撃を回避する。

 こんな奴らは相手にせず逃げたいところだが、この近間では背を向けようとした瞬間にやられるだろう。応戦するしかない。

 相手が武器を持っている以上、上半身への攻撃は危険だ。俺は敵の脛を狙って蹴りを出す。が、片足上げで回避された。明らかに素人ではない、修練を積んだ動きだ。

 男はスタンガンだけに頼らず蹴り技も駆使してきた。鞭のようにしなやかで重い蹴りだ。たった二回ガードしただけで腕が麻痺してきた。このままではすぐに両腕が使い物にならなくなる。反撃の隙が見出せない。

 鬼嶋と違い、俺は真っ向勝負がそれほど得意ではない。目の前の男は格闘能力一つとってもプロ級の腕前だ。俺では九分九厘勝てない。俺が負ければ鬼嶋は二人を相手にしなくてはならなくなる。このままでは全滅する。

「信さん、粘れ!」

 鬼嶋の叫び声でハッと気付く。

 そうだ、勝つ必要はない。ひと気のない道とはいえ、絶対に誰も通らないわけではないのだ。長引けば長引くほど困るのは向こう。現に敵はスタミナ配分も考えず猛攻を仕掛けてきている。一秒でも早く終わらせたいのだ。

 焦りは攻撃を雑にする。一発で仕留めようと技が大振りになる。こちらからは攻撃を仕掛けず守りに専念すれば、技量差があっても何とか凌げる。

「来た!」

 再び鬼嶋の叫び。声色に希望が混じっていたせいか、敵の猛攻が止む。

 その隙に視線を横へ向けると、官邸の方から警官隊が走ってくるのが見えた。

 先頭にいるのは坂木原だ。今度は偽物ではない。間に合った!

 敵はあからさまに怯む様子を見せた。

 片方の男が、もう片方に小声で何かを言う。

 逃げるかと思いきや――突然、二人同時に俺に襲いかかってきた。

 意表を突かれ、反応が遅れる。

「信さん!」

 鬼嶋が間に割って入ってきた。

「ぐ――」

 短いうめき声。ほぼ同時に、鬼嶋は敵の一人を抱え込むように地面に崩れ落ちた。

 もう一人はそちらを見向きもせず、鬼気迫る形相で俺に向かってくる。何としても任務を達成する気だ。スタンガンを前に遮二無二突っ込んでくる。

 その手を警棒が強打した。

 スタンガンが地面に落ちる。その音が収まる前に、警棒は敵の脳天を捉えていた。

 とてつもない早業だ。それを成したのは剣道日本一の男。

「大丈夫かい?」

 坂木原が、倒れた男を見据えたまま聞いてきた。

「はい。なんとか」

 鬼嶋に押さえ込まれ、もがいていた男を警官隊が取り押さえる。

 鬼嶋はスタンガンで気絶したようだ。それでなお敵の動きを封じるとは、凄まじい執念だ。

 倒れた男も押さえられ、坂木原は残心を解く。

「遅くなってすまなかったね。私がもっと早く気付いていれば……」

 彼は申し訳なさそうに言うが、これでもかなり早い。偽警備員が襲いかかってきてから警官隊の到着まで、わずか一分ほどのことだったのだ。彼は彼の権限で可能な範囲で部下を動員して、この辺りを警戒してくれていたに違いない。

 偽の警備員を潜り込ませた敵方が見事だったとしか言い様がない。

「まだ俺がいます。たとえ一人でも、総理の元へ行きます」

「そうか。では、官邸までは私が君を護衛しよう」



 約束の時間まであと五分というところで首相官邸前に到着する。

 官邸の警備は厳重だ。屈強な警備員に無数の監視カメラ、上空には偵察用のドローンが飛び回っている。

「それでは健闘を祈る」

 坂木原が敬礼で見送ってくれる。

 俺はたった一人、官邸の入口へと向かった。

 正門の守衛に名前と要件を告げ、それから警備員にボディチェックを受ける。異常がないと判断されると、案内役の女性が現れ、邸内に通してくれた。

 テレビやネットで見たことのある光景に目を奪われながら、二階へと上がる。

 着いた先は、和を感じさせるしつらえの小ホールだった。小といっても決して狭くはない。十数人が向き合って会議できる大きなテーブル席が設置してある。

 小ホールには三人の男性がいた。壁際に立つ中年の二人はボディガードに違いない。

 そして、ただ一人席に着いている初老の男性。

 第一○×代内閣総理大臣、吉良きら幸介こうすけだ。

 案内役の女性が吉良総理に来客を伝えた後、俺はあいさつをする。

「はじめまして。代表の加納小五郎に代わって参りました、太刀河信です」

「総理の吉良だ。まずは席に着きなさい」

 吉良総理が目配せすると、ボディガードの一人が静かに椅子を引いた。

「失礼します」

 俺が腰掛けると、吉良総理は単刀直入に言う。

「時間がないので、なぜ一人なのかは聞かない。さっそく要件を聞こう」

 メンバーが欠けた時のために、こうして総理と直接向き合う場面は想定していた。さすがに一国の首相を前に緊張は抑え切れないが、相手が誰であれ、俺は俺の役割を果たすだけだ。

「総理ならおわかりと思いますが、今起きている富裕層と一般層の対立に勝敗はありません。このまま暴動が長引けば国家そのものが衰退してしまいます」

「わかっていると思うなら言わないでほしい。私は時間がないと言った」

 返ってきたのは冷たい言葉だった。やはり総理も向こう側の人間なのか。

 だが、怯むわけにはいかない。

「では、なぜ現状を変えようとしないのですか?」

「それが、人々の望んだ結果だからだ」

 俺は眉をひそめる。

「この惨状をですか?」

「そうだ。より豊かに、より便利に。人々がそう願った結果が、この格差社会なのだよ。バブル崩壊の時点ですでに成熟の域に達していた日本経済をさらに発展させるには、熾烈な競争をする必要があった。競争を加速させれば貧富の差が拡大するのは明白だが、それでも国民はさらなる発展を望んだのだ。我々政治家は、そんな国民の意思を反映したに過ぎない」

「だから放置するのですか? 国民が間違っているなら、それを正すべきではないのですか?」

 今度は総理が眉をひそめる。

「正す? どうやって? 我々は聖人でも預言者でもない。政治家が人の心まで正すことはできない。人々の望みを多数決によって政策に転換する。それが民主政治というものだ。私に暴動を止める強制力などない。この騒動の結果、国民が何を望むのかを見極め、次につなぐのが我々の仕事だ」

「それは問題の先送りではありませんか? 今この瞬間、苦しんでいる人たちがいるのです。その人たちを助けるための策が必要です」

「それこそ問題の先送りだよ。今、強権を発動させて騒動を解決してしまえば人間社会は進歩しない。人々は何も学ばない。痛みを伴わなければ人は変わることができないと歴史から学ばなかったかね? 何でも穏便に済ませれば良いというものではないのだ」

 詭弁に聞こえなくもないが、少なくとも資本家よりは国の将来を考えているようだ。

 ただ冷徹過ぎる。俺には、そんな帰結に基づいた考えが正しいとは思えなかった。

「ですが、そのために犠牲となるのは経済的弱者です。私にはそれが納得いきません」

「気持ちはわからないでもないが、政治の力ですべてを円満解決することはできない。将来的な犠牲者を最小限に抑えるためにも、目先のことにこだわってはいられないのだ」

「では、あくまで策を打つつもりはないと?」

「策なら打つさ。この騒動が終わった後にな。逆に私が聞きたい。人が進歩するには人の価値観を変えなければならないわけだが、ショック療法以外に有効な策があるのか?」

「あります」

 即答すると、総理はわずかながら関心を示す表情を見せた。

「ほう、それは興味深い。ぜひとも聞かせてほしいな」

「それは教育です。教育によって人は変えられると、私は信じています」

 俺の率直な言葉に、総理は苦笑した。

「ずいぶんと悠長なことを言うのだな。しかしまあ、GHQが終戦後わずか六年半の占領期間で日本人を見事に洗脳教育した前例もある。不可能とは言い切れないか」

「非常に悪い例ですが、そのとおりです。政府とマスメディアが本気で取り組めば、数年で日本人の価値観を良い方向へ導くことができるでしょう。ですから、今はとにかく暴動を止めるべきです。そのためにも、企業側に譲歩するよう強く呼び掛けてください」

「なるほど、そうきたか……」

 総理は顎に手を当て、しばし黙考する。

 俺はその間に腕時計で時間を確認した。残り時間は少ない。この数秒から十秒程度が惜しい。早く返事をしてもらわなければ。

「なかなかおもしろい発想ではあるな。だが、具体的にどのような教育をするつもりだ? まさか本当に洗脳教育をするわけにはいくまい。それにマスメディアを利用するには言論統制が必要だ。どう考えても戦後統治下のようにはいかない。そこを詳しく、と言いたいところだが、もう時間がない。簡潔に話してくれ」

 時間が少ないことは最初からわかっていた。簡潔な言葉は用意してある。

 あとは総理に届くかどうかだ。

「洗脳などしなくとも、かつて日本人が持っていた大和魂を復活させれば済むことです。すなわち、武士道の復活です」

「武士道だと? 今さら幕府でも開くつもりか?」

 総理は大きく目を開き、驚きの声を上げた。

 その反応は予想済みだ。俺は首を横に振り、説明を続ける。

「そうではありません。武士道とは一種の哲学です。要するに哲学の教育を徹底することで、拝金主義に陥ってしまった現代人の心を呼び覚ますのです。もちろん、江戸時代の武士道をそのまま教えるわけにはいきませんから、現代の事情に合わせて改変すべきところは改変し、それを武道として学校教育する。そして、子供だけでなく大人にも認知してもらえるよう、マスメディアを通してそういう風潮を作っていただく。それが我々武道家の考え出した最善の策です」

 できるなら武道精神について詳しく説明したいところだが、約束の時間はあと一分を切っている。

 総理は再び黙考している。次に出される言葉が結論だ。

 武士道精神を現代に受け継ぎし我々武道家の誠意が、果たして通じるか否か。

 やがて、総理の口がゆっくりと開かれる。

「いいだろう。武道教育については検討させてもらうことにする。生憎と私は武道にも武士道にも詳しくないので、日を改めて君たちの助言を聞くことにしよう」

 俺はテーブルの下でグッと拳を握る。

「ただし」

 総理の強い口調に心臓が跳ねる。歓喜の熱が一瞬にして凍りつく。

「先ほども言ったとおり、政府の力で暴動を止めることはしない。というより、もう止められまい。国民の皆には一度行き着くところまで行ってもらう」

「そんな!」

 俺は勢いよく席から立つ。 

 途端、背後からボディガードに肩を押さえられ、またすぐに座らされた。

「これは報いなのだよ。豊かさという魔物に取り憑かれた、哀れな人間に対してのな」

 総理は静かに言い、席を立った。

「では次の会議があるので、これで失礼する」



 終わった。

 最後の手段だった総理への直訴も失敗。もう打つ手はない。俺のせい……ならまだ良かったのだが、仮に鬼嶋だったとしても、加納選手がいたとしても、答えは変わらなかっただろう。吉良総理の中で結論は決まっていたのだ。

 武道教育のことを検討すると言ってくれたのが唯一の収穫だが、所詮は検討だ。採用してもらえるのか、採用されたとしてどれだけ力を入れてもらえるのか。そもそも、現内閣は間もなく終わるのではないのか。次の内閣に引き継いでくれるのか。何の保証もないというのに喜べはしない。

 首相官邸を出た俺は、無機質な官庁街を当てもなく歩き出す。

 すでに鬼嶋たちや警官隊の姿はなかった。無事は確かなのだから、後で連絡を取ればいい。今は携帯画面を確認することさえ億劫だった。

 ただ歩く。行きたいところなど、行くべきところなど、どこにもない。

 ――フォン。

 背後で控えめなクラクションの音がした。

 足を止めて、そちらへ顔を向ける。

 見覚えのある白いコンパクトカーが道路脇に停車していた。フロントガラス越しに見える男性運転手も見覚えのある顔だ。なぜ、ここに?

 後部ドアが開く。

 中からのっそり出てきたのは昨日までの雇い主、金満氏だった。

「その様子だと、総理を説得できなかったようだな」

「俺を笑いに来たんですか?」

「いいや、君に頼みがあって来た」

 金満氏の態度に人を嘲笑う様子は微塵もない。

「今さら何を?」

「もう一週間だけ、わしのボディガードを務めてほしい」

「なぜ?」

「交渉の場に着く前に襲われては困るからな」

「え……」

 一瞬、何を言われたのか理解できず、呆気にとられた。

 そんな俺を見て、金満氏は穏やかに微笑む。

「太刀河君、わしにもようやくわかったのだよ。君たちが懸命に戦っているの知ってな。まさか本当に、一円にもならないのに命を懸ける人間がいるとは思わなかった。わしは今の今まで、人間は利によってしか動かんと思っていたが、そうとは限らなかったのだな。あれから孫たちにもこっぴどく言われたよ」

「で、では……」

「ああ。暴動を終わらせるためにも我々が譲歩することに決めた。さっそく、今日の午後には我々企業側の意思を発表する。付いてきてくれるな?」

 伝わっていた。

 時間はかかってしまったが、俺たちの心は、ちゃんと――



 その日、建設業界が労働者に対する譲歩の意思を示したことで、暴動の規模は瞬く間に縮小した。人々が、他の業界も追従すると期待したからだ。

 そして、その期待は現実となった。

 六月の下旬。間もなく、本格的な夏がやってこようとする時期のことだった。

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