エピローグ

 暴動が収まったことで、街は急速に活気を取り戻していった。散乱したゴミが片付き、閉ざされた店のシャッターが開き、道行く小学生たちは笑顔で駆け回る。都会の雑然とした空気は相変わらずだが、そこには確かな秩序があった。

 しかし、完全に元通りというわけではない。社会はわずかながら変わった。

 人と物の流れが緩やかになった。

 たくさん働いて、たくさん作って、たくさん使って、たくさん捨てる。

 高度経済成長期以来、絶対正義とされていたそのサイクルが、いかに自分たちを苦しめていたかを人々はようやく理解したのだ。

 富裕層が襲われるようなこともなくなったので、大和と尊は今日から学校に通う。

 息子夫婦は朝八時に出勤し、夕方六時までには帰ってくるそうだ。

 金満氏はしばらく忙しくなると言っていた。労働体系の大幅な変更のため、様々な調整が必要らしい。ただし、もうボディガードは必要ない。

 一週間の再契約期間を終えた日の翌日。俺は金満邸から元のアパートに戻るべく引っ越し作業を開始した。持ち帰る物はそう多くないので、正午までにはすべての作業を終え、金満邸に戻った。

 そして、午後からはお隣の引っ越し作業を手伝う。三辻母子も今日引っ越すのだ。

 真里さんには新しい職場が見つかった。今は亡き夫が独立して店を出す前に勤めていたレストランだそうだ。

 聞いた話はそれだけだが、夫が亡くなっていたことと、そのためにレストランは経営破綻し、残された母子が貧しい生活を余儀なくされたことがわかった。そこから今に至るまでには言い知れぬ苦労があったのだろうが、詳しく聞いたりはしない。

 彼女たちは新しい道を歩み出したのだ。つらい過去を思い出させるべきではない。

 すべての作業を終えた頃には空が薄暗くなっていたので、母子の新居であるアパートで夕食を一緒にいただく。その後、少し休んだら出発の時間。つまり、お別れの時間だ。

 愛にお別れのことは言っていない。だから、このまま一緒にいるものだと思っている。

 言い出せなかった。でも、もう言わなければ。

 引っ越し前と同じように中央にちゃぶ台を置いた部屋で、俺は隣に座る愛に告げる。

「愛ちゃん、そろそろ行くから……。ママと二人で元気にね」

「え?」

 愛はあっけらかんとした。いかに五歳の子供でも、今の言葉の意味はわかるだろう。

 しかし感覚が付いてこないのか、固まった表情のまま聞いてくる。

「タッチー、いっちゃうの?」

「うん。もう行かなきゃならないんだ」

「どこいくの?」

「新しい仕事をするために、こことは違う場所へ」

 そう言うと、ついに愛の瞳が決壊した。

「どうしてー?」

 小さな涙の雨を降らしながら、俺の胸にすがり付いてくる。

「タッチーもいっしょにくらせば、みんなしあわせなのに、どうしてー?」

 俺は膝を立てて、愛の小さな肩にそっと手を乗せた。

「俺には、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「なあに、やらなきゃいけないことって?」

 それは、この国の教育姿勢を変えること。失われた大和魂を復活させること。

 でも、今の愛にはそう言ってもわかるまい。だから、この子にもしっかりと伝わるよう絵本のような言葉を使う。

「それはね、この国をもっと優しい国にするための仕事だよ。みんなが、愛ちゃんのママみたいに優しい人になってくれるようにね」

「ママみたいに?」

「そう。でも、そのためには一生懸命働かなくちゃいけない。だから俺では、愛ちゃんとママのこと幸せにしてあげられないんだ」

 俺の一生懸命は普段よく耳にする一生懸命ではない。文字通り、命を懸けて社会を変えるつもりだ。場合によっては明日にも命を使うことになるかもしれない。そんな俺が結婚などできるはずがない。

「そ、そんなのやだよ……」

 嗚咽混じりの弱々しい声が胸に突き刺さってくる。

「ごめんね、愛ちゃん」

「やだやだ、タッチーもいっしょにくらすのー!」

 ぎゅっと服をつかんでくる愛を、そっと抱きしめようとして――やめた。

 そんなことをすれば、きっと離れたくなくなってしまう。

 すると、それまでそばで見守っていた真里さんが、愛の背中に声をかける。

「愛ちゃん、ワガママ言っちゃダメ。タッチーはね、みんなのためにがんばるの。だから、そんなこと言わずに応援してあげて?」

「やだぁー!」

 愛は聞かなかった。決してワガママではない。五歳の子供にとって、このくらいは当然だ。だから、無理に引き剥がしたりはしない。愛が泣き止むまで、じっと待ち続けた。

 ……そうしてどのくらい時間が経ったろうか、愛の手からフッと力が抜けた。泣き疲れて眠ってしまったようだ。

「信さん、ありがとうございます。この子のこと、大事にしてくれて」

 真里さんが俺の手からそっと愛を受け取り、畳の上に寝かせた。

 立ち上がりながらその様子を見て、微かな安堵と深い罪悪感が胸中に沸き立つ。

「でも、悲しませてしまった……」

 そんな俺と違い、真里さんの表情はとても穏やかだった。

「愛ちゃんなら、きっといつかわかってくれます。だから、あなたはあなたの務めを果たしに行ってください」

「ありがとう、真里さん」

 俺は玄関に向かう。そして靴を履き、なるべく音を立てないよう扉を開ける。

「また、会いに来てくださいね」

「必ず」

 最後に真里さん顔を一瞬だけ見て、部屋を出た。

 暖かく微笑む真里さんの頬に、一筋の涙が伝わるのが見えた。

 それでも、俺は振り返らなかった。


                                    

                                  終

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