第6話 諫言

 今日の午前中はお互い仕事がないということで、皆でお金を出し合って借りている公営の武道場で柔術家の鬼嶋きじまごうと会うことになった。

 稽古着に着替えた俺たちは、畳の上で柔軟体操をしながら先日の事件について話し合う。

「なるほど、弱そうな奴を取っ捕まえて人質にする、か。ほんとにいろいろ考えてるんだなぁ」

 鬼嶋は開脚した状態で、ゆっくりと胸が着くまで上半身を倒す。勇ましい外見に似合わぬ柔軟性だ。

「それはそれでけっこう穴のある戦法なんですけどね。一昨日の場合、こっちに対抗して兄弟を人質にされたらアウトでしたよ。たまたま誰も気付かなかったから上手くいったようなものです」

 俺も同じように開脚状態で上半身を倒した。ゆっくり息を吐きながら、なんとか床に鼻先が着く。天性の柔らかさを持たない人間が努力して到達できる限界地点だろう。

 互いに身体を起こし、会話を続ける。

「いや、それは気付かんだろ。俺なら、そこまでいったらもう戦うしか思いつかんね」

「でも、剛さんなら十人相手でも勝てそうですね」

「無茶言うなよ。素手ならともかく、ナイフ持ってる奴が三人もいたんじゃ一切手加減できんわ。たぶん一人二人は殺っちまう。そうなったら勝負に勝っても社会的には負けだ。信さんみたいに穏便に収めるやり方には敵わんよ」

「まあ、中学生の眼球を人質にしておいて穏便って言うのもなんですけどね」

「因果応報だよ。幼稚園児ならともかく、中学生なら善悪の区別くらい付くだろう? 子供だから何しても許されるって思う方がどうかしてる」

 確かに、あの中学生たちはやり過ぎた。刃物まで出されては、こちらも相応の対処をするしかない。あれなら穏便な方だったと信じたい。

「こんにちは」

 不意に、道場の入り口の方から野太い声がした。

 見ると、そこに三十代半ばくらいの大柄な男が柔道着を担いで立っていた。

 見覚えがある。知り合いだからではなく、確かニュースで。

「おう、加納さん。よく来てくれたな」

 鬼嶋が名前を言ったことで思い出した。

 そうだ、オリンピック柔道金メダリストの――

「はじめまして、加納かのう小五郎こごろうです」

 やはりそうか。

 俺は素早く立ち上がり、あいさつを返す。

「太刀河信です。お会いできて光栄です」

「こちらこそ。鬼嶋さんから話は聞いてますよ」

 そう言って、俺の倍くらいの質量がありそうな大きな手を差し出してきた。

 その手を握り返すのを俺は躊躇した。この手をつかんだが最後、俺に勝ち目はない。並みの柔道家なら、つかまれても耳を引っ張るか、股間を蹴るか、頭突きをするか、指を折るか、脱出する方法はいくらでもあるが、おそらくこの男相手では無理。つかむのと同時に姿勢を崩され、投げ飛ばされる。

「ハハハッ、何もしませんよ」

 俺の心境を読み取ったのか、加納は陽気に笑った。

「すみません、つい癖で……」

 俺は改めて加納の手を握る。

「聞いていたとおり用心深い人ですね」

 当然ながら、何も仕掛けてはこなかった。

「それにしても、加納選手がなぜここに?」

 本人ではなく鬼嶋に聞くと、彼はいたずらっぽく白い歯を見せた。

「なあに、ちょっとしたサプライズだよ。ちなみに、あと二人大物を呼んであるから、楽しみにしててくれよな」

 そう言っている間にもう一人、今度は四十歳前後の男が道場に入ってきた。重量級の加納と比べれば細身だが、背は一九〇センチ近くもあり、ひと目でただ者でないことがわかるほど精悍せいかんな顔立ちをしている。男の手には竹刀袋が。今度は剣道家のようだ。

「はじめまして。坂木原健一さかきばらけんいちと申します」

 あいさつを交わした後、鬼嶋が彼の紹介をしてくれる。

「坂木原さんはな、昨年の剣道全日本選手権大会の優勝者、つまり剣道日本一の人だ」

 それはすごい。名前こそ聞いたことはないが、加納に勝るとも劣らない風格を漂わせているのも頷ける。

「しかも職業は警察官。警視庁の剣道主席師範を務めてるから、警察を動かすのに一役買ってくれるかもしれないぞ」

「そっちの方はあまり期待しないでほしいな。私の権限でできることは限られているからね」

 坂木原は控えめに苦笑した。顔に似合わず穏やかな口調だ。

 それから、彼は道場の外へ顔を向ける。

「もう一人も来たみたいだよ」

 最後に入ってきた男の顔を見て、俺は驚きの声を上げた。

「澤村さん……!」

「よう、また会ったな」

 忘れるはずもない。金満氏の前ボディガードにしてキックボクシングウェルター級世界チャンピオン、澤村隆さわむらたかし

 二十代後半と若い上、見た目がヤクザっぽいので前二人のような風格はないが、格闘技界の大物であることに違いはない。まさかこんな形で再会するとは。

「心配しなくても、あんたのことは恨んじゃいねえよ。あれは完全に俺が甘かった。スポーツと実戦の違いを思い知らされたよ」

 不意打ちと騙し打ちのコンビネーションで彼を倒した時の話だ。スポーツ選手にとっては卑怯極まりない戦法なだけに恨まれてはいないか心配していたが、理解してくれていてよかった。

「もしあのままボディガードを続けていたら、俺は死んでいたかもしれねえ。そう思うと感謝したいくらいだ」

「私も同じです」

 澤村の言葉を加納が引き継ぐ。

「ほんの一週間ほどですがボディガードを務めてみてわかりました。我々はスポーツ選手としては一流でも、武道家としてはあなた方の足元にも及びません。それでも、この国のため何かの役に立ちたいと思い、せ参じたのです」

 そういうことだったのか。スポーツ武道家とはいえ味方が増えるのは嬉しい。

 鬼嶋が軽い口調で言う。

「まあ、この人たちの役割は〝顔〟って決まってるんだけどな」

「顔?」

「そう。言い方は悪くなるが、要は彼らの名声を利用させてもらうのさ。俺らみたいな日陰者の言うことは聞かなくても、有名人の言うことなら聞く人は多いだろ? 彼らならいろんな人を動かせる。場合によっちゃ、政治家だって動いてくれるかもしれないぞ」

「確かに……」

 スポーツ選手や芸能人が知名度だけで政治家になれるくらいだ。同じことを言うにしても、相手が有名人というだけでコロッと騙されてくれるかもしれない。

 この傀儡のような扱いにも彼ら三人はすでに納得してくれており、ただ一言「お役に立てるなら」と決意を見せてくれた。

 その心は紛れもなく、我ら日本人の魂である武士道精神だった。

 それから、俺たちは彼ら三人を交えて技の稽古を行った。

 試合で勝つために鍛えた技とはいえ、一流選手のそれはまさに必殺と言える威力を有していた。凡人の俺とは桁違いの身体能力と、そこいらのチンピラなど比較にならない凄まじいまでの圧力。彼らと一対一でまともに戦ったなら、俺など二十秒もつまい。

 本来の武道からは道が逸れてしまっているとはいえ、彼らの飛び抜けた技術は一種の芸術と言って良いほど見事なものだった。その技を直接目の当たりにできたことを感謝したく思う。



 午後から、自社の幹部会議に出席する金満氏の護衛に付く。場所は以前襲撃に遭った本社ビルではなく、有料で借りたホテルの会議室だ。

 主題はやはり暴動に関することだったが、話は何一つ進まず、だらだらと二時間過ごすだけで終わった。ひたすら同じような問答を繰り返すだけで、何の解決にも結び付かない無益な話し合い。この人たちからは、騒動を自分たちで収めようとする気概をまるで感じなかった。放っておけば、そのうち誰かがどうにかしてくれると思っているのだ。

 そんな会議とは呼べぬ会議を終え金満邸に戻ると、庭先で見知った男性とすれ違った。

 大和とたけるの家庭教師だ。

 俺より少し年上、三十過ぎくらいの年齢で、いかにもエリートといったオーラをまとっている。時間からして、今日の授業を終えて帰るところなのだろう。

「お疲れ様です」

 俺があいさつをすると、

「どうも、お疲れ様です」

 家庭教師もあいさつを返し、すれ違うだけの関係だったのだが、今日は立ち止まって声をかけてきた。

「太刀河さん、少しお時間よろしいでしょうか?」

「ええ、構いませんが」

 俺と家庭教師は、庭の隅にある小さな池の畔で立ち話をする。池には色鮮やかな錦鯉が数匹泳いでいる。

「最近、大和君と尊君がずいぶん真面目に授業を受けてくれるようになりましてね。急にどうしたのかと聞くと、どうやら太刀河さんの影響だということがわかりまして。ぜひ、お話を伺ってみたかったのです。いったいどうやって二人を指導しているのですか?」

「どうやって、ですか……」

 改めて問われると、どう答えれば良いのかわからない。二人が変わったのは先日の事件によるところが大きい。まともに指導してあの領域に持っていくには数ヶ月は要したであろう。つまり、結局は地道に努力するしかないのだ。

 素直にそう伝えると、家庭教師は小さく苦笑した。

「まあ、そう都合よくはいきませんよね」

 どうやら、見た目はクールなエリートだが性格は温厚なようだ。

「それでも、二人が変わったのは太刀河さんのおかげです。しかも……」

 家庭教師は半歩俺に近付き、声をひそめる。

「太刀河さんは、この暴動騒ぎを収めるために密かに動いてらっしゃると聞きました」

「誰にでしょうか?」

「三辻さんです。それで、できるなら太刀河さんに協力してほしいと頼まれまして」

 そうか、真里さんが……。彼女も彼女なりに考えてくれているのだな。

「私に何かできそうなことはありますか?」

 願ってもない申し出だ。富裕層の側だと思っていた家庭教師が味方になってくれるとは。

「それなら、お願いがあります。大和と尊に敬語を教えてやってください。もちろん、国語の授業としてではなく、実際に使えるように」

 家庭教師は穏やかな表情で頷いた。

「わかりました。私が責任を持って指導させていただきます」



 こちらの予想を越えて次々と味方が増えていく。だが、それ以上の早さで暴動の規模が拡大している以上、素直に喜ぶことはできない。

 比較的治安が良好だった金満氏行き着けの料亭での会合中、怪しい集団が接近してくる報せが入った。

 ついにここにも来たか……。

 当然、会合は即中止。平均年齢の高い出席者全員を避難させるのに時間はかかったが、何とか事なきを得ることができた。

 しかし、役員たちの活動場所はこれでまた一つ失われた。

 帰りの車の中で、金満氏は忌々しげな声を撒き散らす。

「なぜだ? なぜ警察は奴らを取り締まらん! この会合でどれだけの金が動くと思っている? こんなことでは日本経済が崩壊するぞ。正気とは思えん!」

 正気でないのはお互い様だと思うが、そんなことは言えるはずもない。

 ……いや、もう言うべきなのか? クビにされないようにとか、穏便にとか、そんな悠長なことを言っている段階は過ぎているのではないのか?

 このままでは、いずれ邸宅にまで暴徒が押し寄せて来る事態になりかねない。そうなれば真里さんや愛まで巻き込まれることに……。

 だが、この興奮状態の金満氏に何を言っても無駄だ。かといって興奮が冷めるまで待ってなどいられない。今のうちに打てる手はすべて打っておかなければ。

 多少危険な賭けにはなるが、金満氏の仕事に意見する機会を持つ数少ない人間、秘書の野木に打ち明けてみることにした。

「野木さん、あなたならわかるでしょう? もう放っておいてどうにかなる段階ではありません。一般労働者の雇用条件を大幅に改善する前提で交渉を持ち掛けなければ、この騒動は収まりません。このままでは富裕層も一般層も共倒れ、日本そのものが衰退してしまいます」

「それは、わたしにもわかってはいますが……」

「でしたら力を貸してください。会長が建設業界を動かせば、他の業界もそれに追従してくれるかもしれません。いえ、私の仲間たちが、きっとそうなるよう仕向けてくれます」

「わたしに何をしろと?」

「あなた一人で会長を説得しろとは言いません。ただ、会長の考えを肯定するばかりでなく、反対意見も出してください。私では仕事に関することまで口出しができません。あなたが頼みの綱なんです」

「……難しいですね」

 予想はしていたが、野木は煮え切らない態度だ。

 所詮は金満氏と同類、向こう側の人間か。

 だが簡単に諦めるわけにはいかない。

「難しいからといって逃げてばかりでは何も解決しません。あなたにだって子供がいるでしょう? その子たちの未来がどうなってもいいのですか? あなただって、まだ何十年も生きなきゃならない。あと五年か十年もたせればいい老人とは違うでしょう?」

「それはまあ、そうかもしれませんが……」

「何とか無難にやり過ごしたい気持ちはわかります。でも、そうやって事を先送りにすればするほど、次世代の子供たちが苦しむことになるんです。お願いします。今こそ己を奮い立たせてください」

 本来なら、この言葉は野木ではなく金満氏にぶつけるべき言葉だ。言い過ぎてしまっているのは自覚している。わかっていても止まらなかった。

 そんな己の未熟さを悔みながら、野木の答えを待つ。

 長い沈黙の後、彼女は小さく口を開いた。

「わかりました。上手くいくかどうかはわかりませんが、善処させていただきます」

 善処ときたか。それは何もする気のない人間の常套句だろうに。

 この分では期待できそうもないな。

 他に金満氏に意見できる人間は? 何かいい手はないのか?



「明日、息子夫婦が戻ってくることになってな。午後三時に空港まで迎えに行ってほしい」

 金満氏からそう命じられたのは、その日の夜のことだった。

 また面倒なのが帰ってくる。夫人の方はともかく、息子は金満氏そっくりの仕事大好きワガママ横暴人間だ。この大変な時に敵が二倍に増える。どうする?

 ここはプラスに考えなければならない。どうにかして、この状況を逆手に取ることはできないものか。 

 いや、ある。

 大和と尊を上手く使えば、息子夫婦をこちら側に引き込めるかもしれない。

 三週間振りに会う子供たちが突然礼儀正しくなっていれば、当然その理由を知りたがるはずだ。それが武道のおかげだと知れば、俺の言うことに耳を傾けてくれる可能性は高い。

 当初の予定では、それで金満氏を説得しようとしていたのだ。一足先に息子夫婦に武道の素晴らしさを知ってもらうのも悪くない。

 となれば、明日息子夫婦が帰ってくる前に、兄弟にあいさつと言葉遣いを仕込んでおかなければ。家庭教師に頼んで徹底的に練習させてもらおう。



「――というわけだ。頼むぞ。今、日本の未来は君たちにかかっていると言っても過言ではない。生まれ変わった姿を見せて、両親をあっと驚かせてやってくれ」

「はい、先生!」

 ピンと背筋を伸ばして大きな返事をする尊。

「任せてください!」

 ハキハキと敬語を使う大和。

 よくぞ短い間にここまで仕込んでくれた。俺は家庭教師に礼を言う。

「ありがとうございます。これなら、息子夫婦もこの子たちを見直すでしょう」

「こちらこそ礼を言わせてください。この子たちがやる気になってくれたのは太刀河さんのおかげです。教師として、これほどやりがいのある仕事はありません。念のため午後からも反復練習させておきます」

「頼みます」

 打ち合わせを終え、俺は運転手と共に空港へと向かった。

 そして、午後三時。

 息子夫婦が到着ゲートから出てきた。が、様子がおかしい。まるでこの世の終わりのような暗い表情をしている。

 聞くと、海外での事業に失敗したらしい。それで急に帰ってきたのか。

 仕事のことはよくわからないが気の毒なことだ。帰って成長した子供たちの姿を見て、存分に癒されるといい。

「お帰りなさい!」「お帰りなさい!」

 門を開けるなり、大和と尊が元気よくあいさつをした。

 夫婦の暗い表情が困惑へと変わる。

「ど、どうしたんだ? 急にあいさつなんかして」

 父親は大きく目を開いて兄弟を交互に見た。

「あいさつは大事って先生に教わったんだ」

 大和が得意気に答えた。

「先生って、家庭教師のことか?」

「ううん。太刀河先生だよ」

 今度は尊が答えた。

「太刀河、先生?」

 父親がこちらに顔を向けてくる。

「君が先生なのか?」

「実は十日ほど前から、二人に武道の指導を始めまして」

「それであいさつを?」

「そうです。武道は技の稽古よりも、まず礼儀を教えることから入りますので」

「そうなのか。それにしても、たった十日で……」

 予想通りの反応だ。だが、それだけで驚いてもらっては困る。

 仕込み通り、大和が俺に聞きにくる。

「先生、今日の稽古は何時から行いますか?」

「五時から始める。それまでに着替えと準備体操を済ませておくように」

「はい!」

 次に尊。

「今日はミットを使いますか?」

「いや、今日は時間が短いから基本練習だけにしておこう」

「はい!」

 どうだ、この二人は敬語も覚えたんだぞ。わずか十日でこんなに変わったんだぞ。

 もはや夫婦の表情は確認するまでもない。

 さて、最後の仕上げだ。

「父さん、疲れてるだろ? そっちの鞄持つよ」

「お、おう」

 大和が父親のビジネスバッグを受け取る。

「母さんのは僕が持つよ」

「まあ、ありがとうね」

 尊は母親のバッグを受け取った。

 帰ってくるまでの沈鬱な空気は完全に吹き飛んでいた。



 夜。

 俺は金満氏の息子、政人まさと氏に呼ばれ、客間でお茶をいただく。

 初めてこの家に来た時、秘書に面談を受けた場所だ。相変わらず、洋室には不釣合いな木彫りの熊が置かれている。

「それで、お話というのは?」

「仕事じゃないから固くならないでくれ。君にぜひお礼を言いたくてな。子供たちとこんなに楽しい時間を過ごしたのは数年振りだったよ。ありがとう」

 どうやら、あれからも大和と尊は上手くやってくれたようだ。いや、打ち合わせをしたのはあそこまでだ。上手くやったのではなく、自然と打ち解けることができたのだろう。

 政人氏は続ける。

「子供たちの成長を見てな、仕事ばかりで家庭を省みないことがいかに愚かしいか思い知ったよ。事業に失敗したことはショックだったが、おかげで目が覚めた。いくら金があっても家族で楽しむ時間がなかったら意味ないもんな。これからは、なるべく家に帰ってこられるよう努力するよ」

 家族か……。独り者の俺には、まだ父親の気持ちはわからない。だが、この変化だ。

 自分が仕組んだことだというのに、俺は驚きを隠せなかった。

 政人氏は、そんな俺を見て小さく笑う。

「お、以外か? 俺だって好きで子供たちをほったらかしにしたわけじゃない。ただ、周りが一心不乱にがんばっているのに、自分だけ楽するわけにはいかないからな。そうやって、がんばって、がんばって仕事をしているうちに家にも帰れなくなっちまって……。矛盾してるよな。家族のために働いてるつもりが、全く家族のためになっちゃいないんだから」

 そこに気付いたか。顔も性格も金満氏そっくりとはいえ、まだ完全に頭が凝り固まってはいないようだ。

 今なら、きっと俺の言葉も届く。

「そこが日本社会のおかしなところです。人間のために存在するはずの仕事が、いつの間にか仕事のための人間になっている。手段と目的が逆転してるんです。ですから、家に帰る努力をする以前に、家に帰れないような仕事の仕組みこそ変えなければならないと、私は思います」

「仕組みか。ずいぶんと大それたことを言うんだな」

 政人氏はフッと皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「俺もできればそうしたいところなんだがな。社会ってのは横のつながり、縦のつながりと、がんじがらめになってるもんだから、自分たちだけ『定時に帰ります』というわけはいかないんだ。やるなら、それこそ業界全体を動かさなきゃならなくなる」

「だから動かすのです」

「なに……?」

 眉をひそめる政人氏に、俺は決意を込めて言う。

「平時なら難しいでしょう。ですが、混乱した今の状況下であれば、業界の重鎮である金満会長の一言で、方向性を一気に変えられるかもしれません。さらに言えば、建設業界が動けば他の業界も追随して、日本全体が生まれ変われる可能性すらあります。いいえ、今こそ変わらなければならないんです。どうか、協力していただけないでしょうか?」

「俺に親父を説得しろってのか?」

「他に頼める人がいません。どうか」

 俺はソファに座った状態で深く頭を下げた。

 十秒ほどの沈黙の後、政人氏はゆっくりと口を開いた。

「わかった、引き受けよう。子供たちが変わったんだ。俺も変わらんとな」



 昨晩は夜十二時近くまで母屋の灯りが消えなかった。どうやら、政人氏はあの後すぐに話をしに行ってくれたらしい。鉄は熱いうちに打てというやつだ。

 果たしてその結果はどうなったのか。

 遅い朝食を済ませた金満氏に呼び出され、俺は知ることになる。

「話は息子から聞いたよ。ずいぶんいろいろと吹き込んでくれたようだな。息子だけでなく、孫にも、秘書にも、家庭教師にも。君はいったい何を企んでいるのかね?」

 ダメだったのか……。

 俺は落胆を顔に出さないようにし、直立不動で応じる。

「企んでなどいません。ただ、クライアントである会長を守るために最善の手を尽くしたまでです」

「最善? 暴動を止めるため奴らに譲歩することがか?」

「そうです」

 決して嘘ではない。敵から身を守るための最善手は、敵がこちらを攻撃する理由をなくしてしまうこと。それは以前金満氏にも話した。

 だが、そんな話は露ほども覚えていないのか、金満氏は座ったまま腕を組み、大きくため息を付いた。

「君は勘違いをしているな。いや、考えが足りないといっていい。君が守るのはわしの身体だけではない。わしの地位と財産も含めて守ってもらわねば、ボディガードを雇った意味がない。地位と財産を明け渡して身の安全を確保することなら、わし一人にでもできるのだからな。違うかね?」

 政人氏がどのような言葉を用いて説得しにいったかはわからないが、俺の言いたいことは何一つ伝わっていないようだ。伝わったのは俺が暗躍していたということだけ。

 こうなった以上、この老人に気を遣う必要はない。

 俺はクビを覚悟の上で諫言かんげんする。

「お言葉ですが、この状況で身柄だけでなく地位や財産まで守るには、ボディガードでは明らかに力不足。それこそ軍隊が必要です。いや、それすらもいつかは瓦解するでしょう。社会は今、変わろうとしています。変化に適応できない者がどのような運命をたどるか、おわかりになりませんか?」

「それがどうした!」

 突然、金満氏はテーブルを強く叩き、のっそりと席から立ち上がった。

 怒りで表情が歪み、目が血走っている。

「まさか捨てろと言うのか? わしが築いた地位を。財産を。ようやく、ようやく、わしの番が回ってきたというのに、こんなところで!」

「もうそんなことを言っている段階ではありません。今日にも、この屋敷に暴徒が攻めて来るかもしれないんです」

「そんなものは追い返してみせろ! それが君の仕事だろう?」

「本気で言っているのですか? 何十人何百人といる暴徒を私一人でどうにかできるはずがありません。前にも言ったでしょう。襲われてからでは遅いんです。未然に防がないと!」

「だったら、譲歩する以外の手を考えてみろ。考える前から投げ出すでないわ!」

 不可能だ。それは投げ出すとかそういうレベルの話ではなく、子供にプロ野球投手からホームランを打ってみろと言うような考えるにも値しない話。

 だが、顔を真っ赤にして狂乱したお殿様には、どんな言葉も通じない。

 金満氏は興奮を無理矢理吹き飛ばすように荒く息を吐き、今度は冷酷な視線を向けてきた。

「君は自分の立場をわきまえもせず、妙な野心を持っておるようだが、クビにはせん。他に雇える者がいないからな。ただし契約内容は変更だ。今日の分から倍の給料を払ってやる。だから余計なことは考えず、ボディガードの仕事を全うすることだけ考えろ。これで話は終わりだ」

 有無を言わさず、金満氏は食堂から去っていった。

 あとに残るのは静寂と、中途半端に冷えた気持ち悪い汗。

 俺はハンカチで額の汗を拭う。

 同じ日本語を話す相手で、ここまで言葉が通じない人間がいるのか。

 俺にはもう、あの老人が得体の知れない妖怪のようなものに見えてきた。



 本日、金満氏に予定はなし。明日の予定もキャンセル。明後日も、その先も。

 もう会合も会議もゴルフも行えない。行う場所がない。どこへ行っても大勢の暴徒がやって来るからだ。

 暴徒たちの怒りは収まることを知らない。標的が外出を控えるようになれば、やがては邸宅を襲いに来るだろう。早ければ今日にも、今にも。もはや一刻の猶予もない。

 だが、一日中考えても、武道仲間に相談しても、良い案は見つからなかった。

 万策は尽きた。あの妖怪を説得する、そんな奇跡の魔法は俺には使えない。

 武道は金喰い妖怪の前に敗北したのだ。

 いざとなったら金満氏を見捨てて三辻母子と共に脱出する。もうそれしかない。

 だが、その後はどうする?

 俺一人なら何とか生きていくこともできるが、母子二人は?

 夜、消沈したまま隣家を訪れると、愛が心配そうに声をかけてきた。

「タッチー、げんきないの?」

「うん、ちょっと困ったことがあってね。ごめんね、心配かけて」

 すぐ隣に座る愛の頭を、そっと撫でてやる。

 すると、愛はムッとした表情をした。

 何かまずいことでもしたかと手を引っ込めたが、そうではなかった。

「あい、しってるよ。あのおじいさんが、わるいひとなんだよね? タッチーをこまらせてるんだよね?」

 驚いた。子供というのは、そういうことが直感的にわかるものなのか。

 俺が答えるのを待たず、愛は続ける。

「あいもあのおじいさんがきらい。もう、ここにいるのやだよ。ママとタッチーと、どこかいきたい」

「愛ちゃん……」

 潮時なのかもしれない。俺に金満氏を動かす力はなかった。世の中を変えるきっかけを作る力はなかった。きっと俺の力では、この子と真里さんを守ってやるのが精一杯なのだ。

 俺と同じ目的で動いている武道家は他にもいる。俺にできなくても、他の誰かがやってくれればいい。富裕層にだって話の通じる人間がいるかもしれない。経済界に影響力のある人間を誰か一人でも説得できれば希望はある。

 俺のボディガードとしての役目は終わった。あとは、なるべく早くここから脱出するだけだ。ここを出て、三人で――

 夕食の片付けが終わった後、俺は真里さんにそのことを相談した。真里なら快く頷いてくれると思った。

「わたしと愛ちゃんのこと、そこまで気にかけてくれるのは嬉しいです。でも、信さんは本当にそれでいいんですか?」

 返ってきた言葉には、まっすぐで強い意思が込められていた。

「わたしは信さんのこと、とても尊敬しています。でも、今の信さんに付いていっても幸せになれるとは思えません。生徒を見捨てて逃げる先生なんて信用できませんから」

 俺は言葉を返せなかった。

 考えないようにしていた。仕方のないことだと割り切って目を背けていた。

 そう、俺は大和と尊の先生なのだ。金満氏が暴徒に襲われるのは自業自得だとしても、あの二人を見捨てて良いはずがない。

「真里さん、俺は」

「わかってます。今の信さんはショックで弱気になっているだけです。わたしは、本当の信さんがもっと強い人だってことをちゃんと知っています。だから諦めないでください。わたしも協力しますから」

 慈悲深く暖かな笑顔が、俺の目を開かせた。

 そうだ、まだ終わってはいない。俺はまだ己をなげうっていない。命を燃やしていない。

 俺がボディガードになった時の覚悟は、こんなものではなかったはずだ。

「ありがとう、真里さん。おかげで自分が何者なのか思い出したよ」

 俺にはまだできることがある。

 武道家の意地がこんなものではないことを証明してみせなければ。

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