夢浮橋紫音の帰還(偽)

 日本に戻ってからのことはよく覚えていない。気が付いたら、探偵事務所のソファの上に寝かされていた。

「あ、起きた? ごめんね、ホントはベッドまで運んであげたかったんだけど……」

 出来なかった、ということだろう。別に不思議でもない。

「いえ、ご迷惑をおかけしました」

 紫音さんがいないから、エレベーターを出現させることが出来なかったのだろう。今のところ、ここでそれが出来るのは紫音さんが許可した人、即ちわたしだけだ。そのわたしが眠っていたのでは上へ運びようがない。同居しているのにエレベーターを使えない総角さんが不憫である。

 起き上がって見ると、理恵ちゃんと美佳ちゃんが向かいのソファに大人しく腰掛けていた。本当に、いい子達だ。

「ようやく起きたのね」

「もう一日近く寝てるよ?」

 なんと。驚いて時計を見ると、美佳ちゃんの言う通り、ほぼ丸一日寝ていたようだった。寝る前の記憶はないので、成田に到着する予定だった時間から考えて、だが。

「飛行機に乗る前も寝て、飛行機の中でも寝て、帰りの飛行機でも寝て、帰ってからも寝る。ちょっと寝過ぎだよね、わたし」

「ちょっとどころじゃないでしょ」

 理恵ちゃんにツッコまれる。そうだ。わたし、起きていた時間の方が短いんじゃないだろうか。ほとんど寝ていた。

 わたしは起き上がって壁へ向かい、掌をかざして魔力を流した。手の周囲から段々と壁が消え、代わりに無骨なエレベーターが現れる。

「取り敢えず、上へ行きましょう」

 乗り込んでから、わたしは言った。もっとも、言わずともわたしがエレベーターを出現させた時点で皆察していたが。

 それにしても、ろくな事にならないのは覚悟していたが、これは余りにも予想外だった。行くだけ無駄だったのではないだろうか。むしろ無駄どころかより悪いことになっている気がする。いや、確実にそうなっている。

「考えるべきことが多過ぎるね」

「喫緊のものから片付ける必要がありますね」

「まずはどこから?」

「取り敢えず、『J.O.』じゃないですか?」

 わたしがそう答えると、総角さんはいつもの様に笑った。

「ま、それが妥当だね。問題は、紫音しかその正体を知らないってことなんだけど」

 どうしようもない。それでも、わたし達ならそこに辿り着けると紫音さんが思ってくれたからのだから、その期待には応えなければならない。

 そう思いながら三階で降り、エレベーターを再びただの壁に変えたその時、階下で轟音が響いた。

 何か爆弾でも炸裂させたのかというような爆音だった。

「何!?」

 わたしや大天使達が混乱している間にも、総角さんは冷静だった。

「若菜ちゃん、降りるよ!」

「は、はい。今エレベーターを――」

「いいや、エレベーターは駄目だ。ここから降りる」

 総角さんが指したのは、どう見ても普通の窓だ。そこから降りるってことは?

「飛び降りるよ」

 総角さんは、大真面目にそう言った。


 降りた先は、事務所ビルの裏側だった。

「なんて無茶を……」

「必要があると思ったからね。見てごらん、ボクの思った通りだ」

 そう言われて入口の方を魔術を使って見ると、黒ずくめの少年が一人立っていた。そしてその背後には、どう見ても吹き飛ばされた後のドアフレームがあった。

「そんな……!」

 予想外の光景だった。紫音さんが魔術的に隠匿している事務所を見つけただけでなく、破壊行為に及んでいるとは。

「あれは――出来れば会いたくなかったなあ」

「知っているんですか?」

「嗚呼、綾女さんから聞いていたからね。あいつらは、魔術師殺し集団だよ」

「!?」

 わたしが何かを言う間すら与えず、総角さんは高く飛び上がった。入口部分の屋根に音もなく降り立ち、わたしに何かサインを送ってきた。

「多分だけど、『無関係の人を装って近付け』だと思うわ」

 理恵ちゃんの解釈にわたしも同意し、ただ通りかかっただけの振りをして階段に最接近した瞬間、総角さんが軽い身のこなしで屋根の下に降りた。無論、その際にそこに立っていた見張りと思われる少年を昏倒させることは忘れてはいない。

 ああ、そうか。

 唐突に総角さんの指示の意味を理解したので、階段を一気に駆け上がった。むしろ何故気付かなかったのかと訊きたいレベルの内容だった。わたしがあの見張りを突破することは難しいから、先に戦闘不能にするつもりだったのだ。だからわたしは少年が気絶したらすぐ向かえるように近付いておく必要があったというわけか。

「あぁ?」

 やはり、中にもいた。同じように黒ずくめで、長外套を肩にかけた背の高い青年がソファに腰掛けている。

「魔術師の橋姫紫音、ってのはお前か?」

 立ち上がりながら青年が訊いた。

「人に名を訊こうというなら自分から名乗るべきじゃない?」

「へぇ、言うじゃねぇか。気に入らねえなぁ。だがまあ教えてやるよ。俺は藤村ふじむらあつしだ。で、お前は?」

 律儀に答える男、藤村敦。対する総角さんは、相変わらず人を怒らせることの天才だった。

「残念だけど、紫音は留守だよ。彼女を殺したきゃ、ロンドンにでも行けばいいんじゃないかな。君達如き雑魚を、彼女が相手してくれるかどうかは分からないけど」

「俺達が雑魚だって? 言ってくれるじゃねえか!!」

 どうやらかなり激昂しやすい性質タチの人だったらしく、総角さんの挑発にまんまと乗っかってきた。地を蹴って飛び込むように総角さんの懐に入り込み、固く握り締めた拳を振り抜いた。

 が。

「何ッ!?」

「生憎、私はこれでも八極拳使いでね。お前如きの打拳パンチなんか、マッサージ以下だ」

 総角さんは、敦の拳を固く掴んで離さなかった。

 しかし敦もただ者ではなかった。拳を掴むその手を振り払うこともなく、回し蹴りで総角さんをふっ飛ばした。わたしの方に。

「ぐえっ」

 およそ女子らしからぬ呻き声が漏れた。そうして気が付く。蹴り飛ばされた総角さんを、わたしが受け止める形になったのだと。

「すげえなアンタ。殺す気で蹴ったつもりだったんだが」

「この体は特別製だからね。ちょっとやそっとの攻撃じゃ破壊出来やしないよ」

 総角さんが嘯く。実際には、普通のヒトと変わらないはずなのだが。

 そもそも、人間が吹っ飛ぶ程の蹴りとはどんな力だろう。明らかにおかしい威力だ。わたしは警戒心を強めた。

 敦はそれに気付いたようではあったが、気に留めた様子はなかった。

「パワーは異常だけど、それだけだね。ありがと、若菜ちゃん」

 総角さんは立ち上がりながら相手を煽ってわたしに礼を言った。忙しい人だ。当然だが褒めてはいない。

「やり手魔術師のテメエからすりゃ、そうだろうよ」

 そう言うなり現れた。速い!とても対応出来たものではない。鳩尾に拳がめり込み、なすすべもなく吹き飛ばされる。

「ぐっ……」

 声を上げることが出来ない。どうやら、壁にぶつかって止まったらしい。肺の中の空気がすべて吐き出されてしまって、呼吸すらまともに出来ない。殴られた腹部は最早痛いというより熱い。

「こっちのお嬢さんは弱っちいなァ」

 悔しいが何も言い返せない。わたしは、弱い。誰がどう見ても弱いのだ。わたしには紫音さんのような魔術の腕はないし、総角さんのような体術が使える訳でもない。

「まさかとは思うけど、諦めるの?」

 頭の中で声がする。この声は、誰の声だろう。聞いたことがあるような、ないような声だ。

「諦めるつもりなら、そのまま這い蹲ってなさい。違うと言うのなら、立ちなさい」

 嗚呼、これはわたしの声だ。わたし自身が声を出している訳ではないが、聞こえているのはわたしの声だ。所謂心の声か。

「諦め、ない……。私だって、魔術師だから」

 あの声は、わたしの意志だ。わたしの意志に、わたしが反してたまるか。

 私は痛む身体に鞭打って、再び立ち上がった。じっと敵を見据えながら。

「へえ、起き上がるくらいの気概はあるわけか。見直したぜ。だが、無意味だな」

 それは、聞こえるはずのない声だった。

 わたしや総角さんは勿論のこと、敵である敦も硬直している。いつの間にか今までいなかった人物が現れたのだから、当然と言えば当然のことかもしれない。

「どうかしたかしら? ここは私の家よ。私が帰ってきちゃいけないとでも?」

 我らが上司であり探偵、そして魔術師の橋姫紫音の姿が、そこにはあった。

 いつものように、黒いパンツに白いブラウス。その上から駱駝色キャメルのトレンチコート。ロンドンに行った時のいつもよりちょっとお洒落な服ではなく、本当にいつも通りだ。

「お前が、橋姫紫音か?」

「そうよ。何? 三下しかいないの?」

 紫音さんも煽るのか。

 いけない。安心感からか、くだらないことを思ってしまった。

「三下? 誰が?」

 紫音さんは問いに答えなかった。理由など考えるまでもない。紫音さんは既に音を発した。つまり――

「うおっ。何だ!?」

 敦が慌てたような声を上げたが、もう遅い。壁や天井から伸びた鎖が、手首足首に絡みつき、がっちりと拘束した。

「鎖? こんなんで俺を捕まえたつもりかよ」

 敦が笑った。

「無駄だぜ、こんなもん」

 敦が腕を振ると、ガシャンと大きな音を立てて鎖が千切れた。続けて足の方も引き千切る。

 しかし、今度は紫音さんが笑う番だった。

「怪力の能力ね。これだから貴方は三下なのよ」

 冷ややかに笑った紫音さんは、自信満々に言い放った。

「何だとテメ――何!?」

 紫音さんに向けて駆け出そうとした敦は、四肢を引っ張られる形で立ち止まった。

 千切れたはずの鎖が、元のように繋がっている。魔術に頼れば、そんなことは実に容易い。しかし、やはり敦は魔術師ではないのだろう。目の前の現象に理性的な説明を付けることが出来ないでいるようだった。

 紫音さんがゆっくりと近付いていく。

「私の留守を狙って来るなんて、いい度胸じゃない。いや、そもそも貴方達の狙いは私なんだっけ。じゃあこれで勘弁してあげるわ」

 敦は動けない。声も上げない。

 その胸から夥しい血を流しながら、鎖に腕を吊られて立っている。

 それもそのはずだ。彼の心臓が、紫音さんの手中に収まっているのだから。


 紫音さんは躊躇わなかった。敦の目の前に立つなり、彼の胸に手を差し込んだ。中央やや左寄りに。

 そのまま貫通したその手には、まだドクドクと拍動する心臓が握られていた。心臓を潰さないように引き抜き、瓶に収める。その瓶には、魔術式がびっしりと書かれており、何か魔術的な儀式に用いるものであることは明白だった。

「起きなさい、蛮族。もう帰っていいわよ」

 紫音さんは、自らが貫いた胸部をスッと撫でながら言った。するとどうしたことか、敦は目を覚ました。明らかに死んでいたはずなのに、だ。傷も塞がっている。

「そうだ、これをお前達のリーダーに渡しなさい。それで許してあげるわ。今日のところはね」

 紫音さんに封書を渡された敦と、いつの間にか目覚めていた見張り役の少年は一言も言葉を発することなく帰って行った。まるでロンドンで見たデイビッドの人形のように、人間味を感じさせない動き方だった。

「……紫音さん、色々訊きたいことがあるんだけど、取り敢えずどうやってここへ?」

 紫音さんは例によってニヤリと笑った。訊く前に考えてみなさい、ということだ。

「転移? でもあそこから転移することは出来ないはずじゃ……」

 転移できないからこそ、わたし達は犯罪紛いのことをして潜入したんだし、逆に同じルートで外へ出たのだ。では転移ではあるまい。

「転移はしてないわ。そうね、出来なくはないけど」

 出来なくはないんだ……。いや、多分紫音さんなら出来るのだろう。わたし達がいたから、わたしがいたから転移という手段がとれなかったのかもしれない。

「樹里ちゃん、舌見せて」

「?  どうぞ」

 紫音さんの意図が分からないが、分からないなりにベッと舌を出した。

「うん、思った通りね。鏡で見てご覧なさい。それのお陰で私はここにいるのよ」

 何が思った通りなのか確かめようと、わたしは目の前に鏡もどきを創り出した。わたしの目の前に、通過しようとする光を全て反射する平面を形成しただけのことだ。

 光を操る魔術というのは高度なものらしいのだが、紫音さんの教えの結果、簡単なものなら出来るようになっていた。先日使った光る玉も、そう。

 そうして作られた即席の鏡を覗き込んだわたしは愕然とした。わたしの舌の上に、大きくハッキリと何らかの魔術陣が描かれていたからだ。

「な、何これ……」

 私の知っている魔術陣ではない。ということはわたしの書いたものではないということだ。しかしこんな所に一体誰が──。

 そこまで考えたが、既に答えに思い当たる節があった。

 綾女さんだ。

 飛行機内でキスされた時、綾女さんはわたしの舌に自身の舌を絡めてきた。まず間違いなくあのひとの仕業だ。

 つまり、綾女さんはあの時点でこうなることを予想していたということになる。改めてとんでもない人だ。

「きっと綾女さん自身がここへ出てくるつもりだったんでしょうね。でも何らかの理由によって別の場所に行く必要があった。それで代わりに私がここへ、か」

「?」

 綾女さんが出てこられないのは、ロンドンで撃たれたからではないのか。しかし、紫音さんの言い方ではどうやら違うらしい。

「樹里ちゃん、明菜、そろそろ反撃したらどうかしら。、後は上手くやって頂戴。理恵と美佳も待ってるから、早く上へ行きなさい」

 そう言い残して、紫音さんの姿は掻き消えた。

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