日本へ戻れ

 医務室に戻ると、総角さんと老医師が何やら話し込んでいた。美佳ちゃんと理恵ちゃんは、大人しくベッドに腰掛けていた。

「それでは、アンドリュー先生、私達はこれで失礼します。ご協力、ありがとうございました」

 総角さんは医師──ドクター・アンドリュー──に一礼し、「ついてきて」とわたしに念話を送ってきた。あの屋敷から出れば普通に使えるらしい。今のわたしはあの頃の私と違い、自分一人で念話で会話できる。

 総角さんに連れられて、あれよあれよという間に外へ出された。即ち地上に、である。二人の大天使もちゃんとついて来た。出てしまって、良かったのだろうか。中にはまだ紫音さんがいるはずだというのに。

「若菜ちゃん、状況は大体分かった。とりあえずは日本に戻るしかない。私達、特に紫音は、敵の罠に嵌ったんだよ。今ならまだ脱出出来る。紫音のことなら心配要らないよ。今頃既に抜け出しているさ」

 地下鉄の駅に向かって歩きながら、やや呑気そうに総角さんが言った。

 正直に言うと、わたしは紫音さんを心配していた。本人は心配される事を嫌うので、決して本人には言えないが、魔術連盟ロンドン支部あの場所は、紛うことなき魔窟だった。紫音さんの実力を知っていても、尚心配せざるを得ないような場所だった。

「紫音はあんなだけどさ、実際複数人でいるより一人の時の方が強いんだ、彼女。守らなきゃいけないものを意識しなくていいからだろう、なんてボクは勝手に思ってるけどね」

「でも、わたしはともかく、総角さんとペアでもですか? 空港ではかなりの連携だったと思うんですけど」

「いいや、そんなことは無いよ」

 総角さんは明確に否定した。

「ボクがペアでも、紫音にとっては足手まといでしか無いんだ。何だかんだ優しいからね」

 それに、と総角さんは続ける。

「彼女があの家を出奔してから年末に再会するまでの、約三年にも亘るブランクが、ボクと紫音の間を広く広く隔てている」

「そんな事……」

「無いと言える?」

 思わず口をついて反論しかかったが、わたしにはそれを否定できるだけの根拠がなかった。

 確かに傍目から見ていても、紫音さんと総角さんの間に繋がりのようなモノを感じる事は出来る。でも、人は三年もあれば大いに変わる。別人と言っても良い程に。総角さんは三年前から今の肉体を使っているらしいから、外見は全く変わらないだろう。変わっているとすれば、精々髪型などのいつでも変えられるものだ。紫音さんは当然総角さんとは違って人形ではないし、三年間でだいぶ変わっただろう。

 しかし、何より時間によって変化するのは、外見そとみではなく中身なかみだ。心変わりは人の世の常。何かについてずっと同じように考えるのは難しい。その時々によって価値観が違うから。三年もあれば人の価値観なんて半分以上変わってもおかしくない。

 何しろわたしも紫音さんも、丁度心身共に成長する時期なのだから。

「そういうこと。もし三年前の紫音がそのまま年末にボクの前に現れたとしたら、今のボクはこの世にいないだろうね」

「そうなんですか?」

「だって、出て行こうとするのを止めたらいきなりズドンだからね」

 総角さんは指を銃に見立てて射撃の真似をした。

 そういえば、そんな話だったっけ。総角さんの首にある擦過銃創は、その時のものだとか。そもそも、その程度の疵なら治ると思うのだが、総角さんは敢えて治さずに残しているらしい。基本的には人体だが、本質的には人形なのでそういうことも可能なのだとか。わたしにはさっぱり分からないが。

「死体につけた傷は消えないでしょ? それと同じ事よ」

 と、以前紫音さんは言っていたが、どうもしっくり来ない。多分、総角さんの体があまりにも人間に近過ぎるからだと思う。もう少し人形らしかったら納得できるのだろう。

「あの時彼女の前に出るのは、結構ハイリスクな賭けだったんだよ。三年前とは別人かも知れないし、案外変わってないかもしれない。かなり変わっていたとしても、その点だけは変わってないかもしれない」

 そしたら今度こそバンだ、と総角さんはお道化た。

 普通に考えて、命を懸けることじゃないのだが、総角さんにとって紫音さんは命を懸けるに値するのだろう。一般的な『元』恋人というのがそういうものなのかは分からないが。

「まあね。でも、さっきはああ言ったけど、実際にはそんな大したことじゃないんだよ。何しろ自分から出て行った家に、わざわざやって来るんだもん。ボクがいるのは分かりきってるのにさ」

 なるほど。確かにそういう考え方も出来る。自分本位ではあるけれど。

 あの時紫音さんは「貴女がいるとは思わなかった」と言っていた。ということは、あれは「まだそこにいるとは思わなかった」という意味だったのかもしれない。

 紫音さんにとって、あそこはどんな場所だったのだろう。心配が少し薄れたからだろう、そんな事を不意に思った。


「逃がさねえよ、お前らは」

 空港最寄りの地下鉄駅、そこまで無事に辿り着いたわたし達を待っていたのは、空港で紫音さんに散々やられたデイビッドだった。右腕が折れているらしく、やや庇うように立っていた。

「貴方、そのざまで何が出来るの?」

 なんと、理恵ちゃんが相手を煽った。わたしは驚きで開いた口が塞がらなかったが、見た目的には小さな女の子の理恵ちゃんに挑発されたのが気に入らないらしいデイビッドは、むしろ歯ぎしりした。

 彼女の正体を知らないのだから仕方ないのかもしれないが、失礼な事してもう片方の腕を折られても知らないよとは言っておきたい。彼はキリスト教圏のひとであるはずだから、大天使に逆らったりしたらマズそうだけど、大丈夫だろうか。

子供ガキは引っ込んでろ!」

 デイビッドが叫ぶと、さっき倒されなかった人形達が再び現れ、銃を私達に向けた。もっとも、わたし達の誰も相手にしなかったが。

「ぐ、ああぁぁあぁああぁああああ!!!」

 デイビッドが悲鳴を上げる。わたし達は既にこれを予想していたので、全く驚かなかった。一つ予想外だったのは、理恵ちゃんが折ったのが左腕ではなく、ことだ。

「たかが三流魔術師の分際で、私をガキ呼ばわりするなんて、いい度胸じゃない。紫音より罪深いわ。しかもキリスト教徒でしょう? 死んで詫びた方がいいわね。勿論自殺以外で。火炙りがいいかしら」

 理恵ちゃんが怒っているのが空気だけで伝わってくる。この場の王は、誰の目にも明らかだった。

「俺が、三流魔術師だと?」

 立つことも出来なくなり、人形に支えてもらう形で理恵ちゃんと対面したデイビッドが呻く。脚を折られた事よりも、そちらの方が屈辱だったようだ。

「違うとでも? じゃ、貴方に興味はないから、私達はこれで失礼するわ。悔しかったら日本まで追いかけて来なさい」

 理恵ちゃんに先導される形でわたし達は立ち去った。後ろから銃弾が飛んできたが、全く当たらなかった。どこであんな煽り方を覚えてくるんだろう。

「そう言えば、飛行機のチケットなんかありませんけど、どうやって帰るんです?」

 肝心なことを失念していた。搭乗券がなければ飛行機など乗れない。何故そんな簡単なことも思いつかなかったのだろうか、など考えるだけ無駄だ。そんなことは分かりきっている。問題はそこではないのだ。

「うん? 大丈夫だよ、想定内だから」

 総角さんは寧ろどこか楽しそうだった。なんでかは分からない。

「想定内って、どこまでがですか?」

「紫音が何らかの理由で帰れなくなって、ボク達が即帰国しなきゃいけない場合まで。綾女さんに関しては来るのも帰れないのも予想外」

 そんな馬鹿な、と流石に思った。ここまでが全て想定内の出来事だというのか。とはいえ、一番インパクトが大きかったのは綾女さんが狙撃された事なので、あんまり想定が完璧とは言い難いのだが。

「紫音の予想は的中だね。紫音は出発前から罠だった時のことを考えて、対策してたんだよ。ボクがそれを聞いたのは行きの飛行機だったけどね。最低限若菜ちゃん達だけでも無事に帰す計画が出来てたんだよ。紫音、ボク、綾女さんは自分でもどうにかなる可能性が高いからね」

 そう言って総角さんは四枚の搭乗券を取り出した。

「要するに、複数の帰り道を用意してたのさ」

「な、なるほど……」

 納得出来るような、出来ないような。

「でも、総角さんも帰るんですよね?」

「うん。別に捕まったりしてないから。さ、行くよ」

 総角さんはそのまま搭乗口まで無言で歩いた。その途中、ずっと寂しそうな、不安そうな顔をしていたのを、わたしは見逃さなかった。

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