波乱の幕開け

 二日後、わたしは朝早くから綾女さんに会いに行った。

 何しろ空港まで行くのにも時間がかかるし、早い時間の飛行機に乗らなければならないのだから。

「綾女さん、おはようございます」

 綾女さんは何故か屏風の向こうにいた。というか、一昨日会った時のあのちょっと広いスペースの入口が屏風で遮られ、わたしはあの空間に入ることが出来なかった。

「ん? 嗚呼、樹里か。良く来たな。まあ入れ」

 綾女さんの声と共に屏風が横に移動し、わたしが入れるようにしてくれた。

「矢張り紫音は来なかったか。人形娘は……外にいるな? 天使達もいないとみた。ということは、お主一人か、樹里」

「はい、わたしだけです」

 綾女さんはまだ寝ていた。畳の上に敷いた布団の中で丸くなっている。顔だけ出してこちらを見ている。

 お顔御開帳!

 可愛らしい、とか言ったら怒られそうな気もするけど、愛らしい、綺麗な顔だった。というか、こんな簡単に見せてくれるなら、なんでこの間は駄目だったんだろう。それに、どこか見覚えのある顔だ。

「紫音め、未だに我があやつを嫌っていると思っているのか?」

「えっと、多分そうですね」

 綾女さんはムクリと起き上がった。体は布団にくるまったままだけど。ちょっと悲しそうな顔をしている。お面がないと表情豊かなんだな、この人。

「あやつには少々厳しくし過ぎたからな……。無理からぬ事よ」

 うわぁ……。綾女さん、凄く寂しそう……。

 後で紫音さんに伝えとかなきゃ。

「さて、樹里よ。何時いつ出発する予定だ?」

 綾女さんは声の調子を一転させて訊いた。

「えっと、だいたい二時間後ですけど、どうしてですか?」

「如何しても何も有るものか。我も同行するというのだ」

 そう事も無げに言って、綾女さんは布団を跳ね除けた。

「えぇぇ!? っていうか綾女さん、なんで裸なんですか!?」

「?」

 首を傾げる仕草が可愛い。じゃなくて!

「同行するってどういうことですか!」

 綾女さんは裸のまま立ち上がった。

 うわぁ、凄く綺麗……とか言ってる場合じゃないってば!

 綾女さんは、流石に和服で英国は無いな……、とか言いながら布団を畳み始めた。

「如何かしたか? 見惚れたか?」

「はい。あ、い、いや、そうじゃなくてですね。さっきも訊きましたけど、同行するってどういうことですか?」

「文字通りの意味だがな。我も同じ飛行機で同じ所へ行こうと言っているのだ」

 マジか……。

 綾女さんはまだ服を着てない。何だろう、裸体の綾女さんには『魅了』の効果があるんじゃないだろうか。見ちゃ駄目だと思うのに、目が離せない。

 確か、目を合わせただけで相手を魅了する『魅了』魔術使いがいたって話を聞いた事がある。それも、わたしの通う学校に。それと同じものなんじゃなかろうか。

「如何した? 近う寄れ。特に許すぞ」

 わたしの理性は蒸発していた。言われるがままにのこのこと近付き、食われた。いや、食われたかと思った。

 綾女さんが、わたしに、ガシッとしがみついて来たのだ。それで目が覚めた。

「ちょ、ちょっと、綾女さん?」

「暫くこうさせてくれ」

 綾女さん、冷たい。裸で寝てたのだから当然といえば当然なのだが。そしてやはりこの人は他人に何かを強要する力を持っている。綾女さんが満足するまでは、全く動けそうにない。なぜだろう、動いてはいけない気さえするのだ。

「こうして誰かに抱き付くのは実に千年振りだ」

「それって……」

「嗚呼、紛れも無く、我が生に於いて二人目だ、貴様は。は夫以外の者を抱いた事も、抱かれた事も無かった。だが、何故だろうな。貴様を抱いていたくなったのだ」

 嬉しいような、そうでもないような……。

 なんか、その旦那さんに申し訳ないような気がする。

 千年に渡って守ってきた貞操をわたしで捨ててしまって大丈夫なのだろうか。

 待てよ、今『私』って言ってなかった? 気のせいかな。

「有難う。今日一日動く為の気力を貰ったぞ」

 綾女さんはようやく離れた。満面の笑みで。こんなことで動く気力が貰えるなら苦労しない、と思ったけど、総角さんなら紫音さんに抱きしめてもらったら生きる気力くらいはもらえそうだな。ん? つまり綾女さんは……いや、もう何も考えまい。

「はあ……。こんなのでよければいつでもしますよ」

 綾女さんが目を輝かせた。それを見てから、軽率だったと悟った。けれどもう遅い。せめてもの抵抗として「でも、取り敢えず服は着てください」とだけは言った。

「?」

 首を傾げる仕草がめちゃくちゃ可愛い。じゃなくて!

「出かけるんですから、ちゃんと服着てくださいって」

「嗚呼、そうか。なあ樹里、正直洋服って何をどうやって着れば良いのか分からんのだ。教えてくれんか? 変身も出来るのだがな、やはり普通に着たい」

 マジか……。


 外へ出る時には、やはりお面は外せないらしかった。何でも、普通の人が綾女さんの顔を見ると、尊さで死んじゃうんだとか。どう見ても不審者なんだけど、パッと見綾女さんは子供なので、誰も通報したりはしないだろう。わたしや総角さん、そしてここにはいない(理恵ちゃんと美佳ちゃんを連れて、五人分の荷物と共に先に空港へ行っている)紫音さんが一緒にいれば、だけど。

「ねえ若菜ちゃん。なんで綾女さんが乗ってるの?」

 わたし達は今、総角さんの運転する紫音さんの車のうち一つで空港へ向かっている。紫音さん、一体どれだけの資産を持っているんだろう。つい三か月前まで一人暮らしだったのに車二台って。

「だいぶ今更ですね……。今回のロンドン行きに同行するそうですよ」

「……めっちゃ普通に寝てるんだけど。ボク的には信じられない光景なんだけど、何かあった?」

「えっと、わたしが行った時、まだ寝ていたのを無理に起こしちゃったから……」

 総角さんは顔をしかめた。珍しい表情だ。

 そもそも、総角さんがいつものニヤニヤ笑いをしていないというのは大変珍しい。

「えらく気に入られたね、若菜ちゃん」

 そうだろうか。そうかもしれないが、よく分からなかったから、わたしは曖昧に笑った。ジャパニーズスマイル、というやつだ。

 助手席から後部座席を見ると、綾女さんは大人しく眠っている。ただし、席に大人しく座っているとは言ってない。完全に横になっているのである。これだけ見ると、ただの子供のようだ。その顔に狐面がなければ。どうしても狐面はミスマッチだ。可愛い洋服を着ているだけに、なおさら。

 空港まで行くのに時間はまだかかるだろう。わたしも早起きで結構眠い。そう自覚した瞬間、耐えきれないほどの眠気に襲われ、わたしは抵抗むなしく眠りに落ちた。


「若菜ちゃん、着いたよ」

 肩を軽く叩かれ、目が覚めた。

「今寝ちゃうと、飛行機の中暇だよ?」

「たっぷり寝てから言わないでください」

「それもそうだね。それじゃ、綾女さん起こしてあげて。ボクは紫音にどこにいるのか訊かないと」

 そう言って総角さんはスマホを取り出し、通話を始めた。

「綾女さん、着きましたよ」

「知っている」

「……なら起きてくださいよ」

「起きてはいるさ。面の所為せいで見えんだろうがな」

 そもそも、寝てたら会話出来なかった。この場合、わたしが馬鹿だった。

「この椅子、寝るには適さんな」

「当然です。座る為のものですから」

「それもそうか。おや、終わった様だぞ」

 総角さんが通話を終えて戻ってきた。

 今日は総角さんも紫音さんと同じようなパンツルックである。とはいえ、黒くて細い紫音さんと違って、明るいベージュで、ちょっと緩い感じのチノパンだが。上着は白いブラウスに、薄手の灰色トレンチコート。靴は春らしい薄ピンクだった。

 わたしは薄手のトレーナーの上にカーキのジャケット。下はジーパン。靴は白いスニーカー。

 綾女さんは、紺色の春物ニットに、ちょっと短い白スカート。靴は黒いブーツをチョイスした。これはわたしが選んだ服装だったが、そんなに悪くないと思う。ただしそのお面さえ無ければ。そのコーデに白い狐面はおかしいでしょ、どう見ても。着替えた後、さあ出掛けようというタイミングになって狐面を着けると言い出したので、服を変えられなかった。

 因みに紫音さんはいつもの黒いパンツ、珍しく薄いピンクの春物ニットに黒いジャケットという組み合わせだったのを朝見た。靴も黒く、ニットのピンクがアクセントになってよく似合っていた。

 残念ながら、理恵ちゃんと美佳ちゃんがどんな服を着ているのか、まだわたしは見ていない。ただまあ紫音さんと洋服を買ってはいたみたいだから、一昨日みたいに和服を着ているってことはないと思う。

「紫音はロビーで待ってるってさ」

「じゃあ行きましょうか」

 綾女さんも無言で頷いた。やっぱり、すっごくシュール……。


 紫音さんはロビーで大天使二人のおもちゃにされていた。

 引っ張られたり、つつかれたり。大変そうだ。

「あら、もう来たの……ね??」

 おぉ。紫音さんが混乱した顔をしている。これは大変珍しいことだ。

「お、主様ー!」

 美佳ちゃんが飛びついて来た。こうしていればただの女の子にしか見えないのだが。いや、失礼、訂正しよう。わたしのことを「主様」と呼んでいる時点で普通ではない。この際だ、やめてもらおう。理恵ちゃんは名前で呼んでくれるんだけどな。呼び捨てだけど、それはまあ仕方ない。

「ちょっとさ、流石に『主様』呼びは勘弁してくれないかな?」

「どうして?」

 あぁん、可愛い。綾女さん並みに可愛い。ついその呼び名も許しちゃう……わけあるかっ!ここは我慢だ。

「その呼び方じゃ、わたしが変な人みたいだもん。下手すれば通報ものだよ」

「もし若菜ちゃんが男だったら、間違いなく通報してるよ」

 総角さんが悪乗りした。

「……ねえ、なんでそこに綾女さんがいるの?」

 紫音さんが、ようやくショックから立ち直ったらしい。いまだに信じられないものを見た、という顔をしているけど。

「何、簡単な事よ。貴様が倫敦へ行くと云うからな、我もそれに同行してやろうというのだ」

 紫音さんの顔が真っ青になった。

「念の為に言っておくが、我は別に貴様を嫌っている訳では無いぞ。貴様が優秀過ぎて、つい追い込んでしまうだけだ」

「………」

 つい、でやることじゃない。追い込まれるというのが具体的にどんなことか分からないから何とも言えないけど、普通追い込まれるようなことをされれば嫌われてると思うよ、そりゃ。

 わたしでもそう思う。

「……?」

 首を傾げる綾女さん。皆の沈黙の理由が分からないらしい。でも、多分理恵ちゃんと美佳ちゃんは綾女さんの姿に沈黙しているのだと思う。綾女さんの姿を認めるなり沈黙したから。

「あー、うん。分かった、分かりましたよ。綾女さん、貴女ドSですね」

「ふむ、自分をサディストだと思ったことはないがな」

 自覚はないらしい。というか自覚があったら最悪だ。

「まあ良いではないか。取り敢えず、さっさと搭乗手続きをして来たらどうだ?」

「それもそうですね……」

 なんか、今思ったんだけど、この人たち「それもそう」って表現好きすぎじゃない? 今日だけで、総角さん、綾女さん、紫音さんから聞いたと思うのだけど。

「そういえば、綾女さんは飛行機のチケットもありませんし、パスポートその他もありませんけど、大丈夫ですか?」

 紫音さんからの当然の質問を、綾女さんは笑って受け流した。

「問題ない。我を誰だと思っている? 最悪この面を外す」

「いや、最悪も何も、普通に外さなきゃ乗れませんからね」

 では仕方ない……と言いながら綾女さんはお面を外した。

 周囲の人がひれ伏した。わたし達を除いて、だけど。

「ふん、少々引き篭もり過ぎたか。これだけとはな」

 いや、これでも十分すごいでしょ……。神様ってすごい。ざっと二百人くらいは地に伏している。

「神道が廃れてもこれだけの威力がある、と前向きに考えることにしよう。良いぞ、皆面を上げよ。我などおらんと思って行動せよ!」

 綾女さんが声を張り上げると、ひれ伏していた人達が、元のように動き始めた。恐るべきかな、使役魔術。多分、使役魔術。もしかすると、神様の特殊能力みたいなので、人を自由に操れるのかもしれない。というか、そもそも魔術自体の目的が神様の技を模倣することなんだから、そのくらい神様である綾女さんが出来ても何もおかしくはない。

「怖……」

 おぉ、美佳ちゃんが引いている。いい子の美佳ちゃんが。

 ちなみに『いい子の美佳ちゃん』という表現は、別に理恵ちゃんが悪い子という意味ではない。理恵ちゃんは理恵ちゃんでいい子だ。

 ……わたし何様だろう。二人とも仮にも大天使のはずなんだけどな。

「ふん、不便極まりないな」

「綾女さんみたいな人外を想定してないでしょ、どう考えても」

「ではどうにもならんな」

 どうにかなったら恐ろしい。

 でも綾女さんが本気を出せばどうにかなりそうで怖い。

 そもそも、綾女さんはなんでもできるのだから、そのくらいどうということはないんじゃないだろうか。

 訊く気は起きないけど。

「そう言えば、美佳ちゃんと理恵ちゃんのパスポートは?」

「あぁ、もう作ったわ。流石に普通に作るわけにはいかないから、魔術連盟の力を使ったけどね」

「……姓は?」

大天使だいてんしを読み替えて、大天使おおあまつか

 ごめん、紫音さん。やっぱり貴女にはネーミングセンスがない。

「ちゃんと本人達の許可は取ったわよ?」

「許可って言われてもねえ。私達日本の名前なんか詳しくないから、それがどんなに変な名前なのか分からないから」

 そうだよね、理恵ちゃん賢い。でもさり気なく変な名前な前提なのが悲しい。事実なのがなおさら悲しい。

「まあ、別にいいんじゃない? 付けた本人も、橋姫なんて苗字だもの」

 総角さん辛辣……。だいたい、そんなこと言ったら貴女の方が酷いのでは。わたしもだけど。でも、多分わたしが一番マシ。

 まあ、もうどうにもならないし、これ以上もめても仕方ない。それに、さっさと搭乗手続きを済ませてしまわないと、乗れなくなってしまう。

 気を取り直して、いよいよ出発だ。


 一時間ほど経っただろうか。

 わたし達は飛行機の中にいた。東京からロンドンまで約十三時間。直行便でこれなのだから、途中でどこかを経由する便なんかだと、もっと時間がかかるのは明白だ。恐ろしい。改めて、地球の大きさを感じた。

 窓から外を見れば、ロシアの広大な大地が見えることだろう。私は残念ながら窓の近くの席ではないので見ることはできないが。

 それ以前に、隣の子達が――いや、正確には、「子供にしか見えない人ではない者達」だけど――が騒がしかった。飛行機に乗ったことがないのだろう。美佳ちゃんと理恵ちゃんはないに決まってる。しかし綾女さんもないとは。

「いや、あることにはあるぞ。しかしまあ、それはそれだ。偶にこうして出掛ければ浮かれもする」

 とは浮かれた挙句、大人げなくわたしの隣の席を美佳ちゃんから奪って座った神様の談。可哀想な美佳ちゃんは反対隣の理恵ちゃんの隣に追いやられた。紫音さんと総角さんは、通路を挟んだ向こう側で並んでイチャイチャしている。主に総角さんから一方的に。

 ちなみに今美佳ちゃんは理恵ちゃんにもたれかかって寝ている。その理恵ちゃんは、私にもたれかかって寝ている。綾女さんは、わたしにもたれかかって起きている。もう一度言おう。起きている。

 起きてるならちゃんと座って欲しい。

「別によかろう。他人に迷惑はかけておらんぞ。それに、今の私はどう見てもただの童女だ。溢れる神気を幾らか抑えているからな。年長者にもたれても罰は当たるまい」

「綾女さんでも罰って当たるんですか?」

「当たるとも。まあ、それが真に神罰かというと、そうではないが」

 当たらないんじゃないか。

 でも、無宗教の人でも「罰が当たる」って表現することあるからな……。

「本来なら独占したかったが、まあそうもいくまい。流石にそこは弁えたさ。とて鬼ではない」

「………」

 また、『私』って言った。今度は聞き間違いではない。

 何だろう。なんか変な感じ。あるべき姿ではないような、そんな感じ。

「急に黙り込んで、如何した?」

「いや、今私って……」

 綾女さんはちょっと黙り込んだ。心なしかちょっと赤面している。

「……気を付けてはいたのだがな。バレてしまっては仕方ないか。、というのが本来の一人称だ。今ではな。余程くつろいでいる時しか口にせんが」

 つまり、わたしにもたれかかって、かなりくつろいでいるのか、この人は。

「まあつまり、なんだ。私は元来神ではないのでな。一人称を使い分けて意識を切り替えているのだ。お主ら人間は、このような古風で風変わりな口調の方が長く生きた神の口調として好みらしいからな。あとはまあ、お前が好きなのでな。こうしていると落ち着くんだ。今朝も抱いただろう?」

「えーっと……好きって、どういう意味で言ってるんです?」

「?」

 いつもなら可愛いと思う顔も、今はちょっと嫌な予感を呼び起こすだけだ。

「つまりそれは、友人として好きなのか、家族に対する好きなのか、性的な意味での好きなのか、という質問か?」

 それ以外に何が。そう思ったわたしの心は顔に出たのだろう。わたしが答える前に、綾女さんが口を開いた。

「そんなものは自分で考えよ」

 綾女さんはさらっとそう言った。

「……」

「そもそも、男は好かん。女の方が良い。愛らしく、柔らかく。女でも、私より遥かに大きい……それこそ紫音や明菜のようなのは好かんな。私が小さいのが顕著に出る。千年前すら平均以下だったのだからな。今などもっと小さいさ。江戸時代辺りが一番自然だった」

「はぁ……」

 そうですか、としか正直言いようがない。つまり、何が言いたいんだろう?

「要するに、私は元より小さめの女が好きなのだ。その中でも、特にお主は好きだぞ、若菜樹里」

「……!」

 綾女さんがわたしを見つめた瞬間、目が合ったそのほんの一瞬、全身を何か熱いものが通り抜けていった。頭の中で、警報が鳴り出す。これ以上は危険だ、と。

「ふふ……どうした? 歓喜で動けなくなったか?」

 指先一つ動かすことが出来ない。筋肉が完全に硬直している。

 歓喜で動けなくなった訳では断じてない。

「綾女さん……何かしましたね……?」

 何故か、口と喉は動く。だが、それで出来るのは話すことだけだ。

「何かしたか、だと? ふふ、私は何もせんよ。何もしなくて良いのだ」

 何もしなくていい? つまり、どういうこと?

「私の肉体は、神としてのものだ。故に常に神性の気が出ている。私がそこにいるだけで、あらゆる人はひれ伏すくらいだ。抑えていても、多少は溢れる。お主はただその気を浴び過ぎただけだ。何せこの距離で密着しているのだからな」

 神性の気。そのせいでさっき空港でお面を外した時に皆ひれ伏したのか。

「そら、解いてやる。じっとしてろよ?」

 そう言って綾女さんはこちらに身を乗り出し、動けないわたしの顔を抑えた。

「な、何をするんですか……?」

 答えは返って来なかった。

 キスされた。

 しかもディープキス。普通のキスすらしたことないのに!

 そのまま何十秒もホールド。わたしの頭の中が真っ白になるまでキスされ続けた。

「ぷは……ふふふ、愛いやつめ。気をしっかり持て。さもなくば意識諸共私のものになるぞ」

 そんな綾女さんの言葉を聞きながら、わたしの意識はフェードアウトした。


「樹里、いい加減起きたらどうだ?」

 そんな声で目が覚めた。

「もうじき着くぞ。何時間も寝おって……」

「すみません」

 十一時間も寝ていたらしい。否、この場合正しくは気絶していたという。

「良い、謝るな。私が暇だっただけだ。お主の寝顔も見られたし、それで良しとしよう。そら、隣の天使娘も起こしてやれ」

 理恵ちゃんも美佳ちゃんも寝ていた。まさか十二時間寝ていたということはないだろうから起きていた時間があったと仮定しても、わたしは全く気が付かなかった。気絶していたのだから当たり前だ。

「美佳ちゃん、起きて。理恵ちゃんも。もうすぐ着くよ」

「あと五分……」

 ……どこでこういうの覚えてくるんだろう。

「あんまり時間ないよ。もう着陸するから」

 その時、シートベルトを着用しろ、という内容の放送があった。英語だったけど、まあそのくらいなら分かる。一応義務教育は終わってるから。

「ほら、もう起きて」

「うにゃ……」

 全然起きない。どうしようかと考えた時、ガタンと機体が振動した。

「きゃっ!」

 美佳ちゃんが可愛らしい悲鳴と共に飛び起きた。理恵ちゃんも、右手で心臓の辺りを抑えている。

「……びっくりしたわ。何、今の」

「着陸」

 きちんと起こす前に着陸してしまった。

 ゆっくりと速度を落としながら搭乗口の方へ向かっていく。飛行機に乗ること自体だいぶ久しぶりだったので、この感覚は懐かしかった。いよいよ着いたという感慨と先行きへの不安が入り混じった何とも言えない感覚。嫌いではないが、さりとて好きでもない。出来れば楽しみだけで埋まっていたいものだ。今回はどうしてもぬぐえない不安要素がある以上、仕方ないことだが。

「先に降りてるわよ」

 紫音さんから声をかけられた。どう見てもわたしは降りられない。綾女さんは降りる準備万端みたいだけど、大天使二人は全く支度出来ていない。

「ロビーで待っていてください。すぐ向かいます」

 紫音さんは小さく頷いて降りて行った。総角さんも後に続く。

「樹里、支度できたよ」

 美佳ちゃんが教えてくれる。どうやら元からほとんど準備できていたも同然だったようだ。よく考えたら、大きな荷物は預けてるし、そもそもこの二人に荷物なんてなかった。一応小さなリュックがあるくらいだ。

「じゃあ降りようか。紫音さん達が待ってるから」

「さてどうだろうな。急がねばあやつらはいなくなるぞ。無論あやつらの意思に反して、だ」

 綾女さんが思わせぶりなことを言う。例によって意味は分からないが、急がなければならないことは分かった。綾女さんが嘘をついている様子はないから、もたもたしていると本当にいなくなってしまうのだろう。

 わたし達は速足で降り、ロビーへ急いだ。ちなみに入国審査は気合と魔術で切り抜けた。良い子は(悪い子も)真似しないでね。


 紫音さんと総角さんは、武装した集団に取り囲まれていた。それぞれが最新の銃器で武装しており、分厚いヘルメットにより顔は完全に隠されていた。服も何か特殊部隊が着るような、仰々しいものだった。そんな人が十人で二人の一般人を包囲しているという光景は、何か非現実的な印象を与えた。

「紫音さん!」

 思わず声を上げると、武装集団の一部が反応した。わたし達にも銃が向けられる。

「ひっ……」

「嗚呼、樹里ちゃんか。まあそこで見てなさい。私達がどうして取り囲まれているかはともかくとして、どうしてこの連中がこんなに過剰に武装しているのかは分かるかもね」

 感情のこもっていない顔で紫音さんが応えた。魔術師としての表情かおだ。

「結局やるの?」

 総角さんが立ち上がり、紫音さんと背中を合わせるように立つ。

「やらないといつまでもこのままよ」

「はいはい。じゃあ例のあれね」

「そうよ。三、二、一」

「「ゼロ」」

 二人とも爆ぜるように飛びかかった。武装集団が身動きをとる間も与えず、まずは目の前の一人を無力化する。

 総角さんはそのまま銃を奪ってその一人を撃ち殺した。紫音さんは他の四人を撃ち倒した。これですでに半数が地に伏した。僅か五秒の間に。

「これでもまだやりたい?」

 紫音さんが冷ややかに言う。武装集団が後ずさる。思わず、だろう。それほどまでに、紫音さんの声や顔には恐怖に足る何かがあった。

「駄目だろ、ちゃんと人払いくらいはしとかなきゃ」

 突然、紫音さんの後ろ、即ち総角さんの正面から声がした。比較的高い声。でも女性のものではない。

 いつの間にか、周りから人の姿がなくなっている。

「誰?」

 総角さんが当然の疑問を口にした。わたしも同感である。

「……なるほどね。貴方が出迎えてくれるとは思わなかったわ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、やっとそれだけを吐き出した。闖入者に背中を向けたままで。

「俺が出てくることがそんなに不思議か?」

「ええ、私のようにドロップアウトした奴の出迎えに来るような人材じゃあないでしょ、貴方」

 そう言って向き直った。

「久しぶりね。五年ぶりくらいになるかしら。元気そうで何よりだわ、デイビッド・ノックス」

 心底嫌そうに、そう言った。

「そうだな、だいたいその五年ぶりか。まさかこうして会うことになるとは思わなかったぜ、橋姫紫音」

 男──デイビッド・ノックス──は楽しそうにそう言った。

 こうして私達のロンドン行きは、波乱の始まりを迎えたのだった。

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