明日の支度

 最近、家に帰るという行為に一体何の意味があるのだろうか、などと益体もない事を考える。こんな事を考えるのも、本来私が帰るべきだった家を失ったせいだろう。そう思うと非常に業腹だった。

 そんなどうでもいい事を考えながらも家に着くと、明菜が先生に怒られていた。あの温厚な先生を怒らせるなど、私にはどうやっても出来そうにないのだが、総角の奴はそれをやってのけたらしい。

「何したの?」

 あまりに信じられないので、自分で考えずに総角に訊いてしまった。

「えっと、先生の部屋に飾ってあった絵を壊した」

「呆れた…。それで?」

「出禁」

 あの先生をそこまで怒らせるとは。私は芸術には疎いが、その絵にはそれだけの価値があったのだろう。私には分からなかったが。

「本当に馬鹿ね、貴女」

「知ってた」

 このやり取りがもう馬鹿の極みだ。頭が痛くなってきた。

「それで、何か収穫はあった?」

 気楽に訊いてくる明菜を衝動的に殴りたくなったが、また地下室行きになると面倒なので衝動を押し止め、私は頷いた。

「多分、綾女さんのおかげでね」

「綾女さん? 玉鬘の?」

 言ってから、しまったと思った。コイツはまだ綾女さんとの事を知らないのだ。綾女さん本人のことを知らない魔術師はこの国にいないだろうが、私がその弟子だと知っているのは、私達二人と、多分神社の人達だけだ。

「えっと、まあ、うん。知り合いだから」

「へえ、今度紹介してよ」

 本当に気楽な奴だ。恐らくこんな奴を紹介しようものなら、私の首が飛ぶことになる。無礼者には容赦しない人なのだ。

 私も一度言いつけを破って和服を着ないであの人の結界に足を踏み入れたら、そのまま殺されそうになった。

 ロンドンから帰って以来会いに行ってないのだけど、そろそろ顔を出した方がいいかもしれない。

「気が向いたらね。ところで、この家の電話は無事?」

「ボクが何かしていないかという意味なら、それは大丈夫。何かしたのは先生の部屋だけだから」

 その時点でもうどうしようもなくアウトなのだが、私とて別に賢木先生の信奉者ではない。わざわざ怒る気もない。

 素っ気なく(仕方ないことだ。私は悪くない)礼を言い、受話器を取る。

「もしもし、橋姫ですけど」

『若菜だ。何かわかったかね?』

 流石に話が早い。実にありがたいことだ。

「ええ。首謀者、共犯者とも全員素性を調べました」

 半分以上私の手柄ではないが。もう少しあの本を検索しやすくしてくれれば、私でも調べられるのだけど。

「しかし首謀者は既に知れているので省きますね。共犯者一、松風浩輔こうすけ。三十七歳。松風純一郎と彼の後妻との長男。共犯者二、松風博幸ひろゆき。二十五歳。同じく次男。ここまでは血縁関係にあるので止む方無しかと」

『うむ。事情を鑑みるに、ご両親を殺害した者を当方では逮捕出来ない。が、学友の総角さん殺害未遂の容疑で捜査を進めよう』

「でしたら、博幸の方に容疑者を絞るのが良いかと」

『ん? ああ、そうか。同一犯ではないのだったな』

「はい。浩輔の方はそちらには関与していません」

『分かった。それから、先程の口ぶりでは、他にも共犯者がいるように見受けられたが』

 まあそこには気付くか。気付かないようなら言わないでおこうと思っていたが、気付いたなら仕方ない。元々、嘘をつくつもりは毛頭ないのだ。

「はい。私の先輩にあたる方でした。そちらは私にお任せを。勝算がありますので」

『……本来であれば、素人は引っ込んでいろと言うところだが、『橋姫の麒麟児』と謳われる君にそれを言うのは野暮というものだろうな。だが、専門家としてこれだけは言っておく。くれぐれも無理だけはしないように』

「わかっていますよ。ご心配なく。片付きましたらまたご連絡させて頂きます。後の二人は頼みます。それでは」

 相手を待たずに受話器を置いた。

 励起していた魔術神経が急速に冷えていく。通話が終わった以上、防聴の魔術は必要ない。これこそ橋姫本来の魔術なのだけど、いやはや何と地味なことか。

 仕組み的にはかなり高度な制御が必要な高等魔術のはずなのだが。

 まあそんなことはどうでもいい。

 私は私のやるべきことをやらねば。

 この場合は、明日の支度だろう。と言っても、学校の支度などではない。ありていに言えば、決闘の用意とでも言えばいいだろうか。

 私は明日、去年まで魔術部の部長だった先輩を、少女おとめ潤奈じゅんな先輩を、この手で殺してしまわなければいけないのだから。

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