捜査開始へ
目を覚ました時、私はベッドの上にいた。
体中包帯だらけで、腕を動かすことすらままならぬ状態で、横になっていた。
人の気配を感じ、目だけをそちらへ向けると、傍の椅子に総角が腰掛け、何やら臙脂色の表紙の、見るからに古い本を熱心に読んでいた。私の位置からは、その本の裏表紙しか見えなかったので、何を読んでいるのかは分からなかったが、どことなく見覚えのある本だったので、少し興味を惹かれた。
「……何、読んでるの?」
声をかけると、彼女はハッとして顔を上げた。何かに少なからず驚いた表情をしている。
「凄いね、もう起きたんだ。私の拳をまともに受けたのに、存外タフなんだねえ、ひめっち」
「だから、その名前で呼ぶなって──痛ッ」
腕が動かないならばと腹筋だけで体を起こそうとしたが、その試みは無為に終わった。やはり腹部の損傷が著しい。体力もかなり消耗している。このままだと当分は寝込むことになりそうだった。
「無理しちゃ駄目だよ。まだ傷は治り切ってないんだから。それに、まだジュリエットがクレアウィル夫人に会ったところだから、ボクは退屈しないし」
「……あれから、どれだけ経った?」
私が怪我した原因がコイツだと言うのにあまりに呑気なので、私は無視して話題を変えた。
「三時間半くらいかな。おかげで読書が捗ったよ。あ、読んでたのは──」
「『悪徳の栄え』、でしょ? ジュリエットとクレアウィル夫人で分かるわ」
全く、自分が怪我させた人間の横でなんでサドなんか読んでるんだ、コイツは。まあ、そういう私も登場人物の名前を聞いてすぐ分かるくらいには読んだことがあるのだが。道理で見覚えがあるわけだ。と言っても、現代思潮社の原本なんて写真でしか見たことがないが。文庫版しか読んだことはない。
「へえ、見かけによらず博識だねえ、ひめっち。ちなみに續刊も持ってるよ。勿論どっちも初版本さ」
「だからその名前で呼ぶなって」
私がいつものように反応した時の総角の顔を、私は一生忘れないだろう。彼女は悪意以外の何も感じないような笑みを浮かべて立ち上がった。なにしろ元々見事に整った端正な顔立ちである。その彼女に下卑た笑いを見せつけられようものなら、その屈辱は常人相手の倍以上である。
「その要望には答えられないなぁ。勝ったのはボクの方だからね。それじゃ、先生呼んでくるよ」
総角は本を椅子の上に置き、勝ち誇った態度で部屋を出て行った。
「で、何があったら
総角に呼ばれて入室してきた賢木先生は、呆れた顔を隠しもせずにそう訊いた。手には私の透過写真を持っている。これは魔術によるものだが、レントゲン写真のようなものだと思って貰えれば間違いはない。
「やだなぁ、見てたでしょう?」
「見て分かるなら訊きませんよ。一体どうやったら、総角君のその細腕で橋姫君をああも吹き飛ばせるのですか?」
総角は一瞬だけ困ったような顔をして、
「ああいう拳法なので」
と、端的に答えた。
「拳法?あれがですか」
「そう。一度は聞いた事ないかな、八極拳って言うんですけど」
八極拳。中国拳法のうちで最も破壊力が高いと言われる事もある、近接特化した拳法だ。確かにそれなら一撃があれだけ重いのも頷ける……ってそんな訳あるか。
「ま、一口に八極拳と言っても色んな流派があるし、日本で一番有名なのは李氏八極拳かな、まあその一つだと思ってくれればいいんじゃないかな。少しだけ改変してるから、敢えて言うなら総角流八極拳もどきってとこだね」
「それは分かったけど、いくら何でもあの威力はおかしくないかしら?私だって重くはないけど、だからといって吹き飛んだりはしないでしょ」
「そこはそれ、今のボクの体は特別製だから。本来のパワーで吹き飛ばせるかは分からんないけど、まあ無理だろうね。まともな人体じゃないから、多少無理なパワーを出そうが、それで筋肉が引きちぎれようが、些細なことなんだよ」
人形だからいくらでも治せる、という事か。
本来、人間が一生の間にする細胞分裂の回数は概ね決まっている。怪我をした時、元の状態に戻すのも細胞分裂によるものである以上、極論言えば怪我をすれば寿命は縮むのだ。だが私達魔術師は、魔力を消費する事で、細胞分裂に依らずに修復できる。それでも、魔力に限度がある以上、切られた腕を生やしたりする事は厳しい。だが総角の場合は、新しい腕を接合すればそれで治るのだ。
もし仮に魔術でも何でも使って、引き出せる限りの力で何かを殴ったとしたら、腕はその反作用に耐え切れずに潰れることだろう。それでも総角は問題ない、という訳だ。新しい腕さえあればすぐ治せる。
「相変わらず理解が速いね。羨ましいよ」
総角が訳の分からないことを言う。理解の速さだったら、コイツも似たようなものだろうに。
「ところで、いつから貴女の一人称は『ボク』になったの? 私が記憶障害を起こしたのでなければ、貴女の一人称は『私』だったと思うのだけど」
総角は一瞬ポカンとした後、
「あー、うっかりしてたなぁ」
などと言い出した。
「うっかりしてた、ってことは、そっちが素ね」
「そう、普段は周りに合わせて私って言ってただけ。ボクの周りにいた女子の一人称なんて、『私』か『ウチ』だったからね」
それが普通だと思うが。
正直なところ、最初にその一人称を聞いた時は、人形の肉体を持って性別の概念が無くなったことによる弊害かとも思ったが、どうやらそういう事ではないらしい。
「さっき、ここへ来る前、『性別の概念がない』って言ったでしょ?それはあくまで身体的な話でね。精神的にはとっくにその概念はないんだよ。多分生まれつきだと思う」
訊いてもいないことを喋る。だがそのおかげで一つ疑問が解消された。コイツは、男である気も女である気もないんだ。あくまでも、肉体的には女だったというだけで。
「だから貴女、周りの男子も女子も使ってない一人称を使ってるのね」
「そ。そして期せずしてボクっ娘とかいうやつになったってわけ。まあ、ボクが自分の事ボクって言うようになった頃にはまだそんな言葉無かったと思うけど」
それはそうだろう。その言葉を聞くようになったのは最近になってからだ。小学生の頃は聞かなかった。ただただ私の耳に入って来なかっただけの可能性もあるので一概には言えないが。
「それはそうと先生。私、お腹が空きました。何か、食べるものはありませんか?」
これまで黙って私達のやり取りを見ていた賢木先生は、私の発言に目を見張った。
「本気ですか!?いくら総角君が新しいものを移植したとはいえ、元の臓器は用をなしませんし、新しいのもまだ馴染んではいないはず──」
「その程度で困るような魔術師じゃありませんよ、私。意識があればすぐ修復出来ます。幸い、新しいものがありましたから、それを馴染ませるだけでしたので、先生が来る前に処置は済ませました」
心配いりません、と笑顔を向けると先生は不承不承といった様子で頷いた。
「分かりました。橋姫君がそれだけ言うなら大丈夫でしょう。ですが、大事をとって粥だけにしておきましょう。すぐ持ってきます」
そう言い残して先生が出て行くと、総角も
「じゃあボクもひとまずお暇しようかな」
と言って立ち上がった。
「総角、貴女は待ちなさい」
「ん? 何か用でも?」
「あるに決まってるでしょ。負けた方は勝った方の言うこと何でも一つ聞くってやつ、勝ったのは貴女でしょうに」
何となく今まで避けてきたような気がする話題を敢えて振る。総角も、さっきまでのキョトンとした顔を引っ込め、真面目な表情になった。脳内までちゃんと真面目に話しているのかどうかは分からないが。
ふと、気が付いた。私は、少なくともコイツの死体を見た時までは「分からないということ」が恐怖の対象だった。幼い頃から何でも出来て、分からないものなどないかのような人生を送ってきた弊害として、私にとって「分からないものが存在する」という事が恐ろしかった。何でも分かっているという事によって自らの立ち位置を確立してきたが故に、その根底を揺るがす事になる「未知」が怖かった。
だが今はどうだろう。さっきからずっと分からないことの連続だが、少なくとも恐怖はしていない。そう自覚してしまうと、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。一体何を怖がる事があったのだろう。分からない事なんて普通にあるじゃないか。総角のように私の理解を越えた奴もいる。何でも分かるというのは、根本的に無理があったのだ。今のところは総角だけだが、他にも理解も想像も出来ない人間はいるだろう。そういう人に会ったとしても、別に怖がる必要は無いのだ。だったら──
「ちょっと!聞いてる!?」
傍らの総角が大声を出したので、はっと我に返った。そちらに目を向けると、むくれた顔の総角と目が合った。コイツみたいな美人だったらむくれても可愛いんだな、等と益体もないことを考えながらも、何の話をしていたのか思い出そうとしていた。
「え? あー、いや、ごめん。ちょっと聞いてなかったわ」
「もう!!」
結局、何の話だったかは思い出したが、聞いていなかったのは事実なのでその通り認めると、総角は手にした本で叩いてきた。
「だから!勝ったからどうとか以前に、するべき話があるでしょ?って言ったの!」
「分かったから、そんな怒らないでよ。私だってまだ本調子じゃないんだから」
珍しく凄い剣幕で捲し立てるので、私は慌てて制止した。主な理由としては、面倒くさいというのがあったのだが、本調子でないのもまた事実だった。総角がシュンと項垂れる。訳が分からないが、さっき吹っ切れたからだろうか、恐怖心は無かった。
「紫音が寝てる間に、大まかな話は聞いたんだよ。ボクを殺したのが誰かまでは分からないにしても、なんで殺されたのかくらいは知りたくてね」
「……それで?」
「先生が紫音の安全に気を遣う理由が分かったよ。ご両親を殺されたんでしょ?だったら──」
「だったら寝てる時間なんか無いのよ。だからただでさえ消耗が激しいのに、魔力使って傷を治して、すぐ動けるようにしてるんじゃない」
少々冷淡にそう言うと、総角はまた項垂れた。
「ごめん、ボクが誘わなければ無駄に時間を使うことも無かったのに」
なんだ、そんなことを気にしていたのか。そのくせ本なんか読んでたのだから恐れ入るが。
「そんなことは気にしなくていいわ。せめて怪我させたことを気にしてて」
「そう言って貰えると嬉しいよ。何事でも、許して貰えるというのは嬉しいことだね」
「次はないけどね」
当然だ。二度も三度も許したりはしない。というか二度目はない。次は確実に仕留める。
「あは、気を付けるよ」
そう言って笑った明菜の顔は今まで以上に輝いて見えた。
先生が持って来た粥をサラサラと流し込み、再び総角と向き合う。当然、議題は『犯人を如何にして特定、捕獲するか』である。
「でも、黒幕が松風家前当主なのは確実なんでしょ?」
「ええ、あくまでも黒幕だけどね。実行犯は分からないわ」
「首が無かったのは?」
「分からないわね。私の親の場合は、それ以外の外傷が無かったから、首を斬られて死んだのかも」
「もしくは脳を何らかの方法で破壊してから、その形跡を消すために首ごと持って行ったとか」
正直、成果は特に無かった。「会議は踊る、されど進まず」とは私が一番嫌いな状況だが、今こそそれかも知れなかった。
結局、松風家について調べてみなければ何も分からないという結論に至り、その晩は解散となった。
宛てがわれた部屋に一人取り残されると、昨日今日で立て続けに起こった様々な事について考え始めてしまい、全く眠れそうになかった。一年前まで魔術連盟のロンドン支部へ留学していた時には『
私がシャーロック・ホームズなら、さしずめあの松風純一郎という老人は
実を言うと、私は
嗚呼……でもせめて総角以外の
朝は平和に訪れた。爽やかな光が部屋に差し込んでいる。
まだ週も半ばなので当然学校へ行かねばならないのだが、寝惚けた頭では、始めて寝る所だった事もあってなんだか休日の旅行のような気分だった。とにかく朝食を摂らなければ。
食堂へ降りると、既に賢木先生と総角は食事中だった。足音に気が付いて顔を上げた明菜と目が合う。ニコリと微笑みかけて来たのを見て、胸の辺りがなんだか変な感じだった。
「おはよう、紫音。起こしても起きなかったから、先に食べてるよ」
「おはようございます、橋姫君。急がないと遅刻しますよ」
挨拶をされるというのは私にとって非常に新鮮だった。今まで、父親は滅多に部屋から出てくることは無く、母親は殆ど口を開くことが無かったので、朝に限らず挨拶をすることは珍しかったのだ。
「おはようございます、先生。私はあまり食欲がありませんから、今日は結構です。明日以降はきちんと頂きます」
「大丈夫ですか?朝食を抜くのは体に良くないと言いますが……」
「いいんです。一食抜いた程度で健康を崩すほど
平気だと笑顔で告げると、先生は引き下がった。押しにとても弱い人だ。昨日も私が大丈夫だと言ったら大人しく引き下がっていた。そんなことで大丈夫か、むしろ私が心配になる。
「総角君には、転校生という体で再び同じクラスに入って貰うことになりました」
今度は先生の方から話題を振ってきた。総角の処遇は私も気になることだったので、ありがたい話題だった。
「総角はそれでいいの?」
「勿論。この状況で引き籠っていられるような性格してないのは知ってるでしょ?」
太陽のように微笑む。なぜだろう、以前よりもコイツが輝いて見える気がする。
「じゃ、後でちょっといいかしら?」
「ん?いいよ、例のアレだね?」
アレとはつまり、昨晩話した事だ。それ以外に何があるのか。
「ええ、教室へ入ってからでいいわ。休み時間でも」
「オッケー」
凄く真面目な話だというのに、コイツの軽い調子と言ったら……。やや呆れたが、怒るだけ無駄なので何も言わなかった。
登校もまた転移によって行われた。昨日と同じく、魔術部の部室に到着する。
「それでは、放課後またここへ来てください」
「はい、わかりました」
私は素直に返事したが、総角は不服そうに、
「すぐ帰らないといけませんか?紫音とボク、やりたい事があるんですけど」と言った。
先生は少なからず驚いた様子で、目をしばたいた。
「何をするというのです?何にしても、この状況ではあまり安全とは言えませんよ」
私と総角は顔を見合わせた後で、口を揃えて
「「何って、事件解決ですよ」」とサラッと告げた。
「馬鹿な事を!何故わざわざ危険に飛び込むのです!?」
驚きと心配と少しの怒りが顔に出ている。相変わらずわかり易い人だ。
「心配ありませんよ。少なくとも、ボクは殆ど不死身です」
「私を殺せるとしたら、それは総角明菜をおいて他にはいませんから、大丈夫です」
私のは完全に推測と希望とハッタリな訳だが、やはり押しの弱い先生の事、すぐに認められた。
「……分かりました。ですが、くれぐれも危険なことだけはしないでください」
「「はい!」」
こうして、私達はようやく捜査を始められるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます