ぼくの爺さん
英 紫苑
第1話
僕の爺さんが死んだ。
大学三年になった夏頃に、突然飛び込んできた話だった。
講義が終わって帰宅した夜に、神妙な面持ちで母親から告げられた。
そんな母親の前にも関わらず、感情は起きなかった。
あぁ、死んだのか。
まるで家族でもなんでもない他人が死んだかのような反応だったのを今でも覚えている。
傍から見れば、あまりにも冷血な人間だ。
いや、文字だけに書き起こせば、僕もそう思う。
今にして思えば、当時の僕はまだ理解していなかったのだろう。
大学の夏休みの終わり頃に葬式が行われると聞き、家族で親の実家へ向かった。
数時間かけて走る高速道路、長期休暇の度に実家へ帰るために通った道。
景色は見慣れたもので、僕の感情に語りかけるものは無かった。
いつものように煌々と輝く太陽に照らされ、真っ黒な道路を走る。
青々とした緑、煙草のように煙を吐き出し続ける工場の煙突、太陽の光を反射して煌めく海、鮮やかさの欠片もない建造物の数々。
車の中から見る景色は、そこにあるだけで何も僕の心を動かしはしなかった。
誰も深くは話さない。
人が死んだと聞いて、その家族の元へと向かっているのだ、明るいはずもない。
ただ重たい空気を乗せて、車は走っていった。
僕の頭には何も無く、ただ昼ごはんのおにぎりを口へ詰め入れた。
実家へ着くと、普段見慣れない花が並べてあった。
死んだ爺さんと、その家族へ贈られたものだろう。
いつも笑顔で出迎えてくれる婆さんは、黒い衣装に身を包み、無表情で僕らを出迎えた。
当然と言えば当然だろう。
誰様気取りなのか、僕は分かった風に迎えられるままに家へ上がった。
通されたのは、爺さんの遺体の前だった。
布団に横になっている姿は安らかで、ただ眠っているだけのように思えた。
耳を澄ませば寝息が聞こえそうなほどに。
丁度その頃、葬儀関係の人だろうか、黒いスーツに身を包んだ男性が入ってきた。
爺さんの横にいる僕らに軽く礼をすると、爺さんの被っていた布団に手をかけ、めくった。
顕になった爺さんの全身は、白い衣装に包まれていて、腹の前で手を組んでいた。
手首には数珠がかけられていた。
この時、初めて僕に衝撃が走ったのを、今でも鮮明に覚えている。
この時の爺さんは、肉がなく、骨と皮しかないくらいに薄かった。
人間、死ぬと全身の筋肉が緩み、中にあったものが出てくるというのを聞いたことがある。
それにしたってあまりにも薄い。
例えるなら、もはやミイラという具合だ。
その姿は、まるで博物館の展示物のように、爺さんそっくりに作った人形のようで、それが先日まで生きた人間であったことが信じられないくらいだった。
呆然と立ち尽くす僕をよそに、スーツの男性は、爺さんのミイラに更に真っ白な衣装を着せようとしていた。
例えるならそう、修験者のような。
聞いたことがあった。
死んだ人は天国へ向かうための旅をする。
そのために、死者の身体に旅の衣装を着せるのだと。
「あぁ、手伝います」
父親がスーツの男性にそう話しかけ、足袋を受け取って履かせる。
まだ二十歳になりたての僕は、社会的に大人とされる歳であるにも関わらず、旅の衣装に包まれていく爺さんの姿を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
着付けが終わると、スーツの男性は、同業者を数人連れ、僕ら家族に礼をしてから爺さんを丁寧に外へ運んでいった。
霊柩車に乗せ、葬儀場へ向かうらしい。
それを合図に、僕らも葬儀場へ向かった。
葬儀場には、既に多くの車が駐車されており、生前の爺さんの顔の広さが伺えた。
着慣れないスーツに履き慣れない革靴を身に付けた僕は、華やかな献花が飾られている出入口を通り、家族用の部屋へと通された。
死んだ爺さんは母さんの父親で、つまりはその親戚が集まっていた。
母さんは父さんと共にその輪の中へ挨拶に。
他の僕は次男、長女の妹とで用意されていた座布団へ座った。
(僕は三男であり、長男は事情で来られなかった)
「ハル、元気だった?」
声を掛けてきたのは、いとこのシオリとアリサだった。
(ハルとは僕のことだ)
二人とも僕のひとつ歳下で、歳が近いのもあって、両親の実家へ帰る度によく遊んだ仲だった。
大学生になってからは、バイトに明け暮れてなかなか実家に帰らなかったため、久々に会った訳だが、それが葬儀だというのは随分ひどい話だった。
しかし、気持ちがごちゃごちゃしていた僕にとって、落ち着きを取り戻すいい時間になった。
最近どうだっただの、こんなことがあっただの、取り留めもない話をするだけで、辛い現実から目を背けることができたのは、今振り返って見ると、よかったのだろう。
僕はその気休めに浸かるように、久々の会話に花を咲かせた。
どれほど時間が経っただろうか。
話し込んでいると、母親から呼ばれ、葬儀の会場へ連れて行かれた。
たくさんの並べられたパイプ椅子に、親戚や爺さんの知り合いであろう方々が座っており、近場は黒々としていた。
奥には爺さんの写真が飾られ、周りは対照的な鮮やかな花々が飾られ、テレビで見たようないかにもな景色が広がっていた。
始まるのか、始まってしまうのか。
僕の頭には、なにか追い詰められていくような感覚だけが蠢いていた。
席に着くと、時間になったようで、葬式が始まった。
それからは、順番にお香を炊いたり、お経を聞いたり、爺さんの入っている棺に花や遺品を入れたのは覚えているが、まともに覚えてはいない。
ただ最後に、家族からの言葉で代表として父さんが前に出て挨拶したのは覚えている。
何より厳格な父さんが、途中声をつまらせ、涙声になっていたのが深く印象に残っていた。
式が終わると親戚同士で食事をする時間になり、見慣れない人と一緒に酒を飲み、豪華なご飯を摂った。
父さんや母さんは酒の入った瓶を持って、挨拶をしながら酒を注いで回った。
僕は訳の分からないまま、ただ食べたいように寿司だなんだと口に放り込んだ。
食事が終わると、葬儀場は僕ら家族だけになった。
他の人達は帰宅したらしい。
話によると、このまま葬儀場で泊まるのだそうだ。
爺さんが眠る棺がある場所に泊まるのかと、話を聞いた僕は驚いた。
そんな中ですぐに眠れるかと言えば、当然眠れる訳が無い。
落ち着かずに部屋を出てみれば、葬儀を行った部屋から話し声が聞こえた。
寝室にいないと思ったら、母さんと次男、そして妹が爺さんの棺の前で話し込んでいた。
何も考えずに僕はその隣へ座った。
母さんは、爺さんの思い出話を語っていた。
生前、爺さんはこんな優しい人だったんだよという話だった。
爺さんは畳を作る職人だったが、それを売る際に、お金ではなくお米でもいいよと、お金ではなく別のもので畳を譲ったり等していたらしい。
他にも僕の知らない爺さんの姿を、母さんはぽつり、ぽつりと、丁寧にものを拾うかのように、優しく語っていた。
それを次男も妹も、静かに聞いていた。
次男は既に語ったのか、それ以上特に語りはしなかった。
妹は爺さんとほとんど会っていなかったのもあって、これといった記憶がなかったという。
さぁ、僕の番か。
浮かんできたのは、爺さんと川へ釣りに行ったことだった。
次男と僕と爺さんの三人で、タナゴをたくさん釣り上げたことをよく覚えていた。
川のすぐ横に、池のように水が溜まっている場所があって、そこへ爺さん手作りの竹の釣竿の糸を垂らして、それはもうたくさん釣ったこと釣ったこと。
それが楽しくて、釣りが大好きになったのが懐かしかった。
僕はその日、ひとつだけ爺さんに約束した。
また、釣りに連れて行ってね。
爺さんはいつものように、にこにこして頷いてくれた。
それから数年後、爺さんは認知症になった。
僕が高校生になった頃ぐらいだろうか、婆さんが「ハルが来たよ」と言ったのに対して、爺さんは誰だろうという目で僕を見た。
あの時は衝撃だった。
爺さんは、もう僕が分からないのだ。
幼い日のあの約束も、もちろん覚えているはずがない。
まるで別人のようになってしまった爺さんを前に、僕は落胆し、泣きそうになった。
大好きだった、あの時の爺さんはもういないのだと、現実を突きつけられて。
僕は心底悲しかった。
認知症は治らないまま、爺さんはついぞ他界してしまった。
死んでしまった。
あぁ、いなくなってしまったんだ。
僕はやっと、ここで理解した。
爺さんは死んだ、もういなくなってしまった。
もう、会えないんだ、と。
理解した途端、涙が溢れ出した。
何かダムのようなものでも壊れたのか、ボロボロと涙が零れ、零れ、止まらなかった。
大好きな家族が死んでしまった。
そのあまりの悲しさに、僕は子供のように嗚咽した。
気付けば妹も母さんも泣いていた。
顔は見ていなかったが、ずっと爺さんの棺の前で泣いていたのだ。
あぁ、我慢する必要はないんだね。
僕は心で少し安心して、心ゆくまで泣き喚いた。
落ち着いて、僕らは寝室へ向かった。
途中、僕は外へ向かって、壁にもたれかかった。
空は星が煌めいていて綺麗だった。
あの星のどれかに、爺さんはなったのだろうか。
見上げながら、僕は慣れない手つきで煙草に火をつけた。
生前爺さんが煙草を吸っていたのを思い出したのだ。
「銘柄、なんだったっけなぁ」
僕は慣れない煙草に軽くむせながら、紫煙を吐き出した。
「爺さんと一緒に、煙草吸いたかったよ」
そんなことを呟くと、また一筋、涙が零れた。
次の日、爺さんの棺は火葬場へ運ばれた。
遺体を焼いている間、また親戚で集まってあんなことがあった、こんなことがあったと仲良く談笑していた。
僕は慣れない日本酒を煽り、再会したいとことの会話に花を咲かせた。
焼き終わり、遺骨を入れ物に詰める作業に、僕も関わった。
爺さんの骨はしっかりと残っていて、健康だったことがよく分かった。
その破片を拾い、丁寧に入れ物へ詰めた。
爺さんに今までの感謝を込めて。
遺骨を詰め終え、場所を移動して墓に埋めに行った。
残暑厳しい中、爺さんはひとつの墓に入れられた。
ジリジリと照りつける太陽と、ジワジワと騒がしい蝉の声、お供えした線香の香り、今でもよく覚えている。
せめてと手を合わせ、爺さんが無事に天国へ向かえることを切に願った。
あれから数年、僕は社会人になった。
そんな今でも、度々爺さんのことを思い出す。
楽しかった日々が非常に懐かしい。
あの頃へは戻れないことは当然分かっているが、そういうつもりは毛頭ない。
僕はこのまま、爺さんとの思い出を背負って生きていく。
悲しくても、絶対に忘れずに生きていく。
いつか聞いた、死んでしまった人が本当に死ぬ時が来ないよう。
皆に忘れ去られてしまった、などということが起きないよう、僕はしっかりと覚えているのだ。
爺さんの死を背負って、僕は明日を生きるのだ。
煙草に火をつける度に思い出す。
大好きだった爺さんの、楽しそうな笑顔を。
ぼくの爺さん 英 紫苑 @Shionsfeel1995
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