紫苑
弐名
第1話 邂逅
背中にじんわりと熱がこもる。空は雨粒の代わりに熱線を降らせるつもりらしい。梅雨と言うには雨量の少ない、貧相な梅雨が明けた東京に、初夏の気配が漂っている。
まださほど不快ではない。ふう、と一つ息を吐き、ペダルを漕いでいく。日焼け止めの匂いがした。
目的地のショッピングモールに着けば冷房が出迎えてくれる。不快な暑さではないとはいえ、そう思うと、心なしか足が軽くなった気がした。そのまま、小さな橋を渡った。
目的地に辿り着いた。今日買いたいのは本。敬愛する作家の新作が一冊、新規開拓した作家の著作が一冊だ。紙とインクの匂いが私は好きだ。その匂いがより感じられるのは図書館なのだけど、やっぱり自分のものにして自分の本棚に仕舞う時の喜びは無上のものだ。その瞬間、そしてその後、本棚に目が行く度に心が踊る、あの夢のような心地を求めて、私は本を買う。
4階にある書店、純朴堂に入る。と、目の前には件の新刊がずらりと並んでいた。話題作だけあって、山は所々つつかれていた。私はその山から一冊を手に取る。ハードカバーの心地良い重みが手に伝わる。
私は新刊を胸元に寄せ、二冊目を探した。
二冊目も案外すぐに見つかった。しかし……。
位置が高すぎる。七年前の作品故に高い所へ押しやられてしまったのだろう。駄目元で本を持っていない左手を伸ばすが、届かない。脚立を探すも見当たらず、店員はレジに大忙しだった。
私はすっかり途方に暮れてしまった。その時、不意に声がした。
「この本が、欲しいんですか……?」
手助けしてもらおうと思い、振り返るが誰もいない。訝る私に再び声が問う。
「この本、取りましょうか?」
背後には誰もいない。狐につままれたような気分だ。
「こっちです、上です」
声の通りに上を向く。すると。
天井すれすれの所で宙に浮いた男が、私に目当ての書籍を差し出していた。
見なかったことにしよう。関わらぬが吉だ。この人がテレビのドッキリの仕掛け人だったとしても、びっくり人間だったとしても、関わって私に良い事はない。
本屋へは明日また来よう。そう心に誓って踵を返そうとした私。しかし宙に浮いた男に止められる。
「困っているんです! 話だけでも!」
巫山戯ているのにしては悲痛さを孕んでいる。そう感じて私は男の方を振り返る。周りの目もあるので小声で囁いた。
「話だけなら」
途端に男の表情が和らいだ。ゆっくりと降りてきて、一言。
「ありがとう」
愛嬌のある、草色が混じった水色の目が細められ、口角が小さく持ち上がった。つられて柔らかそうな薄茶の髪が揺れた。好青年然とした微笑だ。
人に礼を言われるのは些か照れくさい。まして私はまだ話も聞いていないのに。
私は首を横に振り、取り敢えず場所を変えようと誘う。相手もにこやかに応じる。一言相手に断ってから二冊の会計を済ませた。店を出てすぐ、エスカレーター付近で喫茶店の位置を確認する。この階の突き当たりだ。隣の青年に声をかけて、早いところ終わらせてしまおう。そう思い肩を叩こうとする。しかし、その腕は相手にむんずと掴まれてしまった。
「あ、な、何……!?」
狼狽する私。青年の目は私を通り越し、どこか遠くを見ているようだ。そして、焦燥に駆られた声で言う。
「に、逃げないと! 早く!」
この日から、私の人生は一時大きく変わっていった。
紫苑 弐名 @minakura
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