第14話 まぎれもなく幸福な少年

◇◇◇◇


なんだか姉の様子が日に日におかしくなっている。


進はふっくら焼かれた鮭を噛み締めた。ちょうどいい塩気にじゅわりと唾液が溢れてきて、食欲のままにお茶碗を持ってほかほかと湯気をたてている白米を口に運んだ。

白米が口内から消えると、お茶碗を置いて味噌汁が入ったお椀をかたむけた。

白味噌のあまくほっとする味に無意識に「はーっ」と吐息が漏れる。

やっぱり朝は和食だなぁと和んでいると、食卓の向かい側から視線を感じた。


「僕の顔になんかついてる?」

「…別に…」


何か言いたげな表情の姉が、気のない返事をした。


月曜日の夜あたりからずっとこんな調子である。

その前の金曜日の夜や土日は、ギラギラした獲物を狩るような目付きで進の言動を注視していた。もちろん、薮蛇をつつかないようスルーしていたが、心当たりのない進としては大変居心地の悪い思いをしていた。

それがどういうわけか月曜日の夜からは肉食獣のような雰囲気をすとんと納め、むしろ人慣れしていない小動物のような様子で、進に対して何かを言いかけてはやめることを繰り返している。


悲しみ、というよりもっと複雑な、たとえば自責の念や憐憫、恐れ…とか。…姉ちゃんのこんな顔見るのは初めてかも。


虫も雷もジェットコースターもへっちゃらで、家の中では暴君のように振舞う姉だ。

しおらしく振舞われると何ともいえない不気味さがある。


静かに進を伺うだけではない。

月曜日の夜、進が買ってきたアイスについて姉の食べるフレーバーを質問すると、進の好きなアイスを好きなだけ食べろと返された。姉の台詞に驚きすぎて進はベッドから転がり落ちてしまった。

自分が買ってきたアイスを自分が食べる、というごく自然な権利を言い渡されただけである。

しかし、こと時枝家の姉弟事情でいえばこれまでの経験上、進が買ってきたアイスはまず独り占めすることはできず、姉が最初に好きなアイスを選ぶのが普通であったのだ。

それらの権利を突然放棄されるということは、進にとっては地球が丸いという常識が覆るほどの大事件である。

前言撤回されてはかなわないので、追いかけずにありがたくその権利を頂戴したが、その月曜日の事件から続いて、姉は火曜日も水曜日も夜それとなく進を労わるような発言をしてきた。これで何かあると勘繰らないのは無理があるだろう。


嵐の前の静けさみたいな漠然とした不安を感じるけど、うーんでもやっぱり好奇心は猫を殺す、からなぁ…。


金曜日、何かひとつ道を間違えれば爆発しそうな姉の様子を見て思い出した偉大な先人の諺を、改めて脳に刻む。

もやもやをすっきりさせたい気持ちはあるが、余計な探究心で怪我を負いたくない。

もともと進に対して遠慮するような性格ではないため、余程何か言いたいことがあるなら、姉から言ってくるだろう。

そう結論付けた進は、食べきった鮭の横にふた切れ並んでいる焦げ目のない黄色い卵焼きをまとめて口に放り込んだ。ふわっとした食感と卵と砂糖の甘さに頬を緩めながら、それよりも、と思考を移した。


今日の放課後、いよいよ清田さんと映画を見に行くのか…。


まさに青天の霹靂のような約束事である。

恵にその気はないのだろうが、進は恵と映画に行けるというだけで月曜日の放課後からずっとそわそわしっぱなしだった。

おかげで火曜日と水曜日はいつもの倍以上タイマーを使用する羽目になった。MINボタンとSTARTボタンを押しすぎて反応が悪くなったらどうしようかと一抹の不安さえよぎったほどだ。


あの清田さんと二人で映画。図書委員の当番以外で話すことも想像してなかったのに、当番でだってタイムリープ能力を得る前はスローテンポで面白くない返答しかできていなかったのに、そんな僕がましてデートみたいな…。いや、お、落ち着け進。清田さんにとってはただの友人との遊びだ。でも友人としてでも嬉しいな…。


何十回と繰り返し抱いた感想は、最後に決まって嬉しいという感情より緊張感に飲み込まれていく。

当日になった今朝の緊張感は、一層高まっている。

何かあればタイムリープすればいい、とわかっていても緊張せずにはいられない。


進はお守りのようにポケットに入れたタイマーの存在を確かめるようにひと撫でし、全て空になった朝食の皿をシンクにさげた。


母からお弁当をもらい、よし、と気を引き締めて鞄を肩にかける。


「いってきます!」

「いってらっしゃい」


一仕事終えたと満足げに送り出す母の後ろで、姉はやはり何か言いたげな顔をして口を噤んでいた。


◇◇◇◇


数え切れていないが自己最高記録を出したのではないかと思うほどタイマーを酷使し、進はようやく放課後を迎えることができた。


HRを終えクラスメイトに驚かれるほど手早く掃除を終わらせた進は、ばっさばっさと投げ入れた教科書とノートが詰まった鞄のストラップ部分をぎゅっと握りしめて恵の席の前に立った。

女子というものはとにかくグループで行動することが多いが、幸い今恵は友人1人と喋っているだけだった。

以前の進ならそれでも尻込みしていただろうが、タイムリープ能力を得て少しだけ度胸をつけた進は彼女達の会話に割って入る。


「あの、清田さん」

「あ、準備できた?」


おしゃべりをぴたりと止めた恵がにこりと笑いかけてくる。


「うん、お待たせ」

「いいえ~」


前はこんな普通の会話だってつっかえつっかえでないと言えなかった過去の自分を振り返れば、成長したなと自画自賛したい気分である。そしてそんな進に話しかけてくれていた恵はやはり心優しい。


「恵これからどこか行くの?」


鞄を持って席を立った恵に、彼女と話していた友人が問いかける。

それに清田は弾むような口調で答えた。


「今から時枝君と映画見に行くんだ~!」

「…二人で?」

「そうだよ~。駅前に新しくできたモールあるでしょ?そこの映画館で今話題のアドベンチャー映画観るの」

「へぇ」


恵の横に立つ進の姿を上から下まで眺めた彼女は「いってらっしゃい。明日感想教えてよ」とにやりと笑った。

そういうのじゃないから、と進は内心否定するも、恵は気付いていないのかうきうきとした調子で友人に別れを告げるだけだった。

僕から言うのもなんか違うしな、と考えていると校門を出た辺りで「今から行ったら何時の映画があるかな」と恵から問われ進は腕時計に視線を落とした。


「今16時30分だから、ショッピングモールには17時前には着きそうだね。…あ、調べたら17時10分に上映あるらしい」

「わっ、ナイスタイミングだね!券買ったりするから気持ち早歩きしよっ」


待ちきれない、といった風な恵が可愛らしくて心がくすぐったくなる。

彼女の言う通りに歩くスピードをあげようとした進は、しかし浮き足立った心を反映させたかのように足を縺れさせて第一歩からこけることとなった。


◇◇◇◇


恵の笑顔に気を取られすっころび、会話に集中して電柱にぶつかり、不運にも歩いている途中頭上を通った鳥の糞をくらう等の様々な不運とドジを23回目にしてようやく乗り越えた進はふぅと一息ついた。

目の前の横断歩道を渡ればショッピングモールだ。

さすがにこの距離でタイマーは使わなくていいだろう。


「人がたくさん行ってるね~」

「できたばかりだからかなぁ」

「券買うの並んじゃうかな。急がなきゃっ。はやく信号青になれ~」


信号に念を送る恵にくす、と笑みを漏らした進は、横断歩道の対岸に姉を発見してしまった。外回りの途中なのか、姉の横には背の高いスーツを着た男性がいる。

かろうじて「げっ」と声にはしなかったものの、しっかりと目が合ってしまい、進はげんなりと肩を落とした。


絶対家に帰ったら清田さんのことからかわれるよなぁ…。


よりにもよってこんなタイミングで遭遇してしまうとは、と帰宅後を想像してぶるりと震える。ここ数日しおらしいけれど、普段の姉ならば嬉々としてこのネタをいじってくるに違いない。


「時枝君、どうかしたの?」


顔を青ざめさせてでもいたのか、恵が心配そうな顔で進を覗き込んできた。

瞬時に顔を赤らめ、何でもないと告げると顔色の戻った進に恵も安心したようだった。


「あ、信号変わった。行こっ」


目の前の信号が青色に変化したのを見た恵が、ぱっと横断歩道に足を踏み出した。

彼女に釣られるように歩き出そうとした進の視界の端に、猛スピードの車の姿が映りこんだ。


「清田さんっ!!」


急ブレーキの機械音と地面とタイヤの甲高い摩擦音が耳につく。

頭は真っ白で、振り返った恵の、目を見開いた驚愕の表情が鮮明に映る。


「はっ、はっ、はっ…」


気がついたら、進は尻持ちをついていた。

ふわりと甘い花のような香を感じて、ようやく自身が彼女を後ろから抱きこむようにして座り込んでいることを自覚した。

荒い息は治まらず、ブルブルと震えている右手で掴んでいる彼女の腕をどうにか離した。

立ち上がることができずに、膝歩きで恵の前まで移動する。


「…だ、大丈夫…?」


少しはマシになっていたはずの会話術と度胸は、逆戻りしてしまったようでたっぷり時間を使って出てきたのがそんな陳腐な言葉だった。

呆然としていた様子の恵は、声をかけられてからゆっくりと進と目を合わせた。


「…びっくりした」


風の囁きのような小さな声を出す恵に、進はやはりしばらく考えてから「うん」と頷いた。

息をのんで見守っていた周囲の人々は、恵が喋り始めたのをきっかけに時間が戻ったかのように動き始めた。

数秒前にあった事故未遂など、遠い昔の出来事だといわんばかりに進達に関心を失った人々はそれぞれの日常に戻っていった。


進と恵だけ時が止まったかのように座り込んで、お互いの目を見つめている。


「…わ、私、死んじゃったかと思った…」

「……うん」

「目の前をね、車がバッて…」

「……うん」


相槌を打つと、恵がつぅっと涙を零した。

その一粒の雫が顎を伝って落ちていくのをきっかけに、恵はくしゃりと顔を歪ませて両目から大粒の涙をぼろぼろと溢れさせた。

嗚咽交じりに怖かったと繰り返し感情を吐露する恵を抱きしめて安心させることも、頭を撫でて落ち着かせることも、気の利いた慰めの言葉も思いつかない進は、ただただ相槌を打つほかなかった。

そして泣きじゃくる恵によかった、と心底安堵した。


よかった。

僕が物語の主人公じゃなくて、よかった。

漫画でよくみるタイムリープ能力を持った主人公のように「好きな子の命を助けなきゃいけない」なんて、そんなシナリオを背負わされてなくて、よかった。


進のタイムリープ能力は、進のドジを回避するためのものだ。

だから地球は滅びないし、好きな子が日常的に命の危機にさらされることもない。


「こ、わかった、怖かったよぉ」

「……うん、うん」


捻り出した相槌は、震えていた。

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