第10話 紙一重の攻防
◇◇◇◇
最近イライラする様子を見せていた姉が、とうとう高校時代のアイテムをクローゼットの奥からひっぱりだしていた。
やけに隣の部屋がガサゴソうるさいなと、気になった進は手にしていた漫画をぱたんと閉じて本棚にしまった。
部屋のドアを開けると、廊下に顔を出さずともバンッバンッという音が一定の速度で聞こえてくる。破裂音とも違う、鈍い音。どこかで聞いたことのある音だ。
音の聞こえる方向は、進の隣の姉の部屋からで、怖いものみたさに足を進める。きっとホラー映画に登場する主人公も同じ心境だったに違いない。
ほんのり嫌な予感がしつつも、先に何があるのか知りたい。そんな無邪気な好奇心だ。
開けっ放しになっていたドアからこっそり姉の部屋の中を覗く。
次の瞬間、進はすぐに己の行動を後悔した。
好奇心は猫を殺すという諺が脳裏でチカチカと痛いほどの赤色で点滅する。
エマージェンシーエマージェンシー。
進の視線の先では、真顔の姉が赤いミットをはめた拳を延々とサンドバックに叩き込んでいた。
リズミカルに体を動かしているのに、横顔はどこまでも無の境地に至っている。ストレス発散目的のイラついた雰囲気というよりも、しかるべき時に備えて淡々と修行している歴戦の戦士のようだ。
どこの誰だか知らないが「しかるべき時にあの拳をくらうはめになる相手」に心底同情する。
足音をたてないように細心の注意を払って、進はそっとその場から去ることにした。
僕は何も、見なかった。
10回ほど自分にそう言い聞かせて、瞼の裏に焼きついた恐ろしい光景をどうにか振り切る。
ここ数日間で一番過去に戻りたいと切望するが、残念なことにタイムリープしても進の記憶は消えてくれないのだ。
なんとか気持ちを切り替えてリビングに行くと、母が夕飯の支度をしているのか、部屋には香ばしい匂いが漂っていた。
あぁこれこれ。僕の求めているいつも通りの日常風景だ。
先ほど見た光景は白昼夢だったんじゃないかな。
そうに違いない、と1人で頷く。
夕飯はまだできていないようなので、ソファに腰掛け、つけっ放しになっていたテレビを眺める。
画面の向こうでは清楚な格好をした女性のキャスターがニュースを読み上げている。
おそらく母が番組の後半にある天気予報を観るためにこのチャンネルにあわせているのだろう。だとしたらバラエティに変えるわけにはいかない。
水族館でイルカの赤ちゃんがうまれたこと。
つい最近駅前にできた巨大なショッピングモールのみどころ。
話題の行列スイーツ店。
今期のドラマ5本出ている人気俳優とアイドルグループのリーダーが結婚したこと。
目まぐるしく変わるニュースは、どれもとりとめのない平和な情報ばかりだ。
「進、ごはんできたから食卓に運んじゃって」
「ん、わかった」
母に呼ばれた進がキッチンへ向かうと、2人分の夕ご飯が置いてある。
父はまだ帰宅していないし、お茶碗とお箸の色から進と姉のものだとわかる。
テレビを観ていた時に、姉の階段から降りる音がきこえてきたが、数分後にはシャワーを浴びた彼女もここで夕食をとるだろう。
「先に食べちゃいなさい」
「じゃ、いただきます」
配膳を終え、ついでに食器棚からコップを取り出して麦茶を注いでようやく席についた進は両手を合わせた。
今日の夕食は魚だった。
身がぷりっとしまった鯖を箸で一口サイズに切り、ぱくりと食べる。すると濃い味噌の味が広がり、進は一緒に白米を口にかきこんだ。
白米はやっぱりどんな料理にも合う万能食材だな、と思っているとお風呂からあがった姉が「わ、いいにお~い」とくんくんと鼻を鳴らしながらリビングに入ってきた。
「お母さーんお腹すいたぁ。今日のご飯なに?」
「鯖の味噌煮よ」
母の言葉と食卓に並んだ夕食をみて、姉はかろやかな動作で席についた。
先ほどまでの不穏な表情と違いすっきり爽やかな表情をしており、進は胸をなでおろした。同席した姉の様子が気になって夕ご飯が喉を通らない、ということにはならなさそうだ。もしそうなった場合、進のご飯は遠慮なく姉に盗られていただろう。
安心した進は、空になってしまったコップを持って冷蔵庫へ向かった。
「進、ついでに私の分もお茶ついできて」
「え…もう、わかったよ」
目ざとい巡が少しでも楽をしようと命令してきたことに一瞬不満を漏らしかけたが、「何か文句あるのか」と目だけで凄まれ、大人しく従うことにした。
日頃の姉の迷惑な思いつきに比べたら、お茶をついでに持っていくぐらいお安い御用である。
巡がよく使うガラスのコップを食器棚から取り出し、麦茶をとくとくとくと注いでいると、やけに視線を感じた。
「…な、何?姉ちゃん」
先ほどまでおいしそうにかき玉汁飲んでいたのに、一瞬の間にその空気を霧散させている。
睨むというより観察するような目つきに「何かしてしまっただろうか」と記憶を辿るも、特に思い当たるふしはない。
「別に何でもないけど。自意識過剰じゃない?」
「もー何なんだよ…」
何でもない顔には見えない、という言葉は飲み込んだ。
最近情緒不安定だし、藪をつついて鬼を出したくないのだ。
しかしやけに進を凝視してくる姉の様子に、そわそわと落ち着かなくなる。気分は何も悪いことしていなくとも街中でお巡りさんにあった時の妙な緊張感に似ている。
そんな風にどきどきしていたのが悪かったのか、
「うわっ」
食卓へ戻るまでに足を縺れさせた進は、両手のコップを床に落としてしまった。
幸いコップは割れなかったようだが、床はお茶まみれである。
「あらあらあらあら、ちょっと進~」
キッチンから布巾を手にして飛んできた母に、気まずい思いで謝罪する。
「ご、ごめん母さん」
「ここはやっておくからご飯食べておきなさいな」
息子のドジにはすっかり慣れている母はのんびりとした口調で、進へそう言った。
申し訳なく思いながらも、この濡れる床の上での片付けはきっと更なるドジを起こすことが目に見えていたため、おとなしく進はご飯の続きに戻った。
少し冷めてしまったかき玉汁をずずっと飲んで、はぁっと息を漏らす。
相変わらず自分というやつは、と自身のいたらなさに落ち込む。しかし、オレンジ色のタイマーを手にしようとまでは思わなかった。
ほぼ1日中、学校で何十回とタイムリープをしているため、家でまであんな疲れることはしたくないのだ。
そもそも進がタイムリープをする理由は、友人に心配かけないためで、周囲に笑われないためで、好きな子の前でかっこいい自分でいるためなのだ。
家族の前でまでかっこいい自分でいようとは思っていない。
床を拭いている母も、それから目の前で少し呆れた表情をするものの何も言わずにおひたしを口いっぱいに頬張る姉も、ここにはいない父も、進のドジと不運にはなれっこで、今更彼がどんなハプニングを起こそうとも何とも思わないだろう。
そんな家族の前で取り繕ってもしかたない。
落とした麦茶はもったいないし、後片付けをする母にも手間を増やして申し訳ないとだけ思うが、外にいる時のように「あの時ああすれば…」なんて後悔まではしないのだ。
食べ終わって食器さげるときは割らないようにしなきゃな、と考えながらおひたしに箸を伸ばすと、ピシッという音が耳に入る。
音の鳴った方に反射的に向けた視線の先には、血管がぼこぼこに浮き出た姉の手と、彼女の手の中で悲鳴をあげる箸があった。
森の中でクマに遭遇した気分でそろそろと視線を上に向けると、姉の顔には凶悪な笑みが広がっていた。
RPGのラスボスな魔王だって今の姉よりよほど紳士的な表情で勇者を迎え入れるだろう。
悲鳴をあげなかった自分を褒めたい、と思いながら進は視線を外し、おひたしを口に運んだ。
姉の様子に決して触れないようにしよう。そう心にかたく誓い、ほうれん草をもきゅもきゅと噛み締めることに専念する。
好奇心は猫を殺す。
まったく、先人は偉大な警告を残してくれたものだ。
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