第7話 対等な友達
◇◇◇◇
昨日は散々だった。
楽しみにしていた滑らか牛乳プリンは、予備を買っていたにも関わらず食べられてしまった。しかも犯人のひとりである姉の巡は悪びれもしない様子だった。
あげくの果てに、彼女の食べた後の食器洗いまでさせられた。
今に始まったことではないが、理不尽だと思わざるを得ない。
「…時枝!聞いてるのか!」
「は、はいっごめんなさい姉ちゃん!」
呼びかけられて驚いた進が反射的にそう返事をすると、クラス中が爆笑に包まれた。
9時30分。
一時間目の数学の授業中だ。
昨晩の出来事に引き摺られていたが、今進がいるのは学校である。
はっと我に返ったが、すでに口から出た失言はクラス中に響き渡っていた。
「今時そんな間違え方するやついるのかよ」
「姉ちゃん大好きか!」
「先生いつから時枝の姉ちゃんになったんですかー?」
笑い声にまぎれてそんな冷やかしまで聞こえる。
カッと体中の血液が沸騰するような感覚に、進は顔を俯かせた。
姉ちゃん大好きじゃなくて、姉ちゃんへの不満を考えてただけだし。
と思うものの、この空気の中そんな言い訳めいた言葉を口に出せない。
黙ったままの進に、姉ちゃんと間違えて呼ばれた当の本人である教師はひとつため息をついた。
「時枝、今は授業中だから、ぼんやりせずちゃんと授業を聞きなさい。皆もいつまでも笑ってないで、授業に戻るぞ」
やれやれと言いたげな教師が背を向け、そしてクラスの目が黒板に戻った中で、進は手の中にあるタイマーを握りしめた。
こんな失敗、戻ってしまえばなくすのは簡単だ。
進の失言に皆笑っているが、進がこの失言をする前の時間に戻り回避してしまえば、そもそも進が教師に対して姉ちゃんと呼んだ事実そのものがなくなる。
再び9時30分を迎える時クラス中の認識は、進は何の失言もせず普通に授業を受けていた、に変わっている。
一時間目はさして他のドジはしていないし、残り時間も後10分だからもう先生にあてられることもないだろう。
だったら、戻る時間は10分前の9時25分でいいかな。
ピ、ピと2回MINボタンを押してSTARTボタンを押すと視界が滲んできた。
◇◇◇◇
進がそのドジに気がついたのは、10時05分。
二時間目の体育の授業が始まったばかりの時だ。
体育祭が近くに迫っており、最近の体育の授業内容は体育祭に向けてシフトチェンジされている。
今回は各人競技の練習をするようだ。
それにあたり、進達生徒は膝をかかえてグラウンドに座って、各競技の練習方法を説明する教師の話に耳を傾けている。
上を向いているのがつらくなった進は、膝頭まで目線を下げる。
ふと自身の胸元に目をやり、またしても自身がドジをしてしまったことに気がついた。
体操服、前後ろ反対に着ちゃってる…。
思えば一時間目のドジが後を引いていたのかもしれない。
あの失言をなかったことにしようとタイムリープしたのだが、すんなりと2回目の9時30分に事が収まることは無かった。
2回目の9時30分では、姉ちゃん発言はしなかったものの、あてられて席を立とうとした瞬間に椅子の脚に自らの足をひっかけてしまいこけてしまった。
3回目の9時30分では、余計な発言も、こけることもなかったが、その2点に集中しすぎていたため教科書の問題を解くことを忘れてしまっていた。
4回目の9時30分でようやく何の失敗もせず、問いに答えることができた。
もちろん正解である。
焦りさえしなければ、進は頭は悪くないので答えを間違えることはしない。
けれども、タイムリープ能力を得るまでは、答える以前の問題だったため、教師はめずらしくすんなり答えた進に少し驚いた顔をしていた。
今までテストで解答欄をひとつずれて書くこともざらだったが、これからはそんな間違いも起きないだろう。点数欄に100という数字が書かれる日が楽しみである。
教師の認識では、一度ですんなり質問に答えている進だったが、そこに行き着くまでに4回も同じ10分間を繰り返しているのだ。
忍耐強く、またドジがなかったことになるのであれば何度でも過去に戻る覚悟を持っているが、とはいえ精神的に疲れないわけではない。
ようやく一時間目の授業が終わって、一息つく間もなく着替えて移動しなければならないこのタイミングで、進がドジをしないわけがなかった。
どうしよう。今なら誰も気がついていないけど…。
名前が背中についていて、少し首が詰まっているように見えるだけだ。
進の後ろに座っているのは同じ「と」行の苗字を持つ爽真だが、彼は細かいことには頓着しないため恐らく進の背中を眺めている今も、進が体操服を反対に着ていることは気づいていないだろう。
しかしそれは爽真に限っての話で、教師の説明が終わり、実際に練習が始まったら必ずクラスメイトの誰かが気付き、指摘してくるに違いない。
説明が終わってすぐ前後ろをくるっと着直す…いや絶対に見つかるし、変に目立ちそうだな。
誰にも気付かないように直すとしたら、タイムリープの力を使って着替え始めの9時50分に戻るしかない。
けれども、まだ授業が始まって5分しか経っていない。
他の授業ならまだしも、体育はタイムリープしなければならない場面がわんさかでるはずだ。
今はまだ使えない。
今回はあまんじて恥を受けて、10時50分になったら1時間戻ろう。
そう決意し、教師の説明が終わった途端斜め後ろから「時枝、お前体操服前後ろ反対に着てるじゃん!」という指摘が飛んできた。
視線が自身の背中に集まるのを感じた直後、またしても爆笑が渦巻いた。
進はポケットの中に入れてあるタイマーをキュッと握りしめた。
◇◇◇◇
12時50分。
生徒の誰もが今か今かと待ち構えていたチャイムの音が鳴り響いた。
ちょうどキリのいいところだったのか、教師も授業の終わりを告げ、さっさと教室から出て行った。
ガタガタと机を動かす音や、鞄を開いて物を取り出す音、ドタバタと移動する音が教室のそこかしこで起きる。
購買や食堂へ向かうものもおり、少しだけ教室の中にいる人数が少なくなったものの、皆が好き勝手に喋っているため静寂とは程遠い。
「午前中に体育あると、その後の授業眠いよなぁ~。三、四時間目何してたか俺覚えてねーや」
進の隣の席の椅子をガタリとひいて、机に牛乳とパンをどっさり置いた爽真がぼやいた。
ロングパンを大口でばくりと食べる爽真を横目に、進も鞄から弁当箱とペットボトルを取り出した。
「進んとこは、体育祭誰が来んの?」
「多分父さんと母さん」
「お姉さんは?」
「姉ちゃんは…来ないと思うけど」
あの姉がわざわざ休日を潰してまで弟の体育祭に来るとは思えない。
昨日の夕飯の残りであろうひじきをもそもそと食べながら、進は否定した。
優しい味だ。
精神的に疲れた身体に染み渡るような、ほっとするひじきである。
一時間目の数学はまだマシなほうで、二時間目の体育では体操服のドジからはじまり、体育祭に出る競技の障害物競走の練習で散々な目にあったのだ。
ドジで不運なうえに運動音痴な進では、単純に速さを競う競技に向かないし、二人三脚ではペアを巻き込んでしまう。
騎馬戦ではもっと多くの人数を危険な目に合わせてしまう。
となると、最もマシな競技が障害物競走なのだ。
マシなはずだが、障害物という名の通り、様々なトラップがしかけてある中で、それら全てをひとつひとつ丁寧にかかってしまうため、1回目の授業が終わるころには進はボロボロになっていた。
15回目でようやく何のドジもなく授業を終えることができた。
もちろん1回目にできた体の傷は綺麗さっぱりなかったことになっているが、精神的疲労は重くのしかかった。
疲れた心にほっとするようなお弁当を用意してくれた母親に感謝である。
プリンの件は水に流すとしよう。
「そういう爽真のとこはどうなんだよ」
「うちは両親と、あと祖父ちゃん婆ちゃん。弟は友達と遊ぶって言ってたから来ないと思うわ」
「弟君、今何年生なんだっけ」
「中三」
「うわー今年受験かぁ」
「でももう部活推薦貰ってるみたいだから、大して受験って雰囲気出してねえけどな」
「へぇ~しっかりしてるな…」
兄がしっかりしていれば、弟も似るものなのだろうか。
弟も爽真みたいな爽やか系かな、と早くも1つめのパンを食べ終え、1リットルの牛乳パックにストローを差してじゅるじゅる飲んでいる友人を見つめた。
卵焼きを飲み込んだ後、手にしたペットボトルを口にした進は、次の瞬間激しく咽る。
「ゲホッうえっ」
「どうした?!大丈夫か?」
慌てる爽真を片手で制し、白ご飯をかきこみどうにか口の中を調整する。
「…あ~びっくりした」
「変なとこに詰まったのか?」
「いや、じゃなくて。お茶だと思って飲んだら、めんつゆだったんだよ」
朝バタバタしていて慌ててとってきたペットボトル。
お茶にしてはやけに寸胴な形のペットボトルだと思ったら、めんつゆ。
落ち着いて確認して見れば、ラベルには紛れもなくめんつゆと書かれている。
「あはは、ウーロン茶と似てるし間違えるよな」
「…中身はね…」
なんでラベルで気がつかなかったんだろう僕のドジ。
60分以上も前のことなのでタイムリープもできない。
大人しくお茶を買ってこようと進は席を立った。
「買いに行くなら俺も…」
「いいよ、爽真は食べてて。すぐ戻ってくるから」
「え、でも…」
少し目を見開き、なお言い募ろうとする爽真の気持ちは手に取るようにわかる。
確かに、少し前なら1人で人通りの多い廊下を歩こうものなら確実に昼休憩が終わるまでに帰って来れなくなるため、爽真について来てもらっていただろう。
しかし、タイムリープ能力を持った今は違う。
彼がいなくても、1人でお茶を買いに行きすぐこの教室へ戻ることなど造作もない。
ドジをふんでしまったとしても、やり直してしまえば、最初からドジしていないも同然なのだから。
「大丈夫だよ。僕もうそんなに心配してもらわなくてもいいんだ。ほら、さっきの体育の授業だってなーんもドジしなかっただろ」
「え、あぁ…」
「昨日も、一昨日も、その前だって一回だってドジしたことあったか?」
ドジなんてしていない。君達の前では。
得意げに告げる進に、うーんとここ数日間の進の様子を思い返す爽真は曖昧に同意する。
「…そう言われてみれば、なかったかも…」
「僕はもう大丈夫!だから行ってくるね」
納得していないような様子の爽真を振り返らず、たたたっと教室を駆け出る。
以前の進とは違う。
「何の失敗もしない完璧な時枝進」になった今は、友人に心配されずとも何だって1人でできるのだ。
意気揚々と走る進は、教室を出てすぐにころんだ。
ついでに財布の中身をばらまいてしまったけれど、何の問題もない。
どうせなかったことになるのだから。
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