春のツバサ

千葉 翔

君と出逢えて、よかった。

 二月も終わりを迎えて、春の兆しが見えてきた。旧暦の上だともう春ではあるが、未だ寒さから外套は手放せない。

 昼間にも関わらずガレージの中は薄暗く、コンクリートによって中の空気は冷やされ、思わず身震いしてしまうほどだった。そうしていつものように自転車の整備を始めようと、悴んだ手を道具箱に伸ばす。

「よう」

 声が聞こえた。咄嗟に顔を上げると、若干視界が遮られる空間でもわかるような派手な色合いのダウンにボトムで、明るい人柄なのだろうと目にみえるような男性が立っていた。そんな軽い調子で手をあげあいさつしてきたのは、勇介だった。

「上がらせてもらったぞ」

「また母さん勝手に。まあ、いいけどさ」

 昔馴染みとはいえ自分の知らぬ間に家にあげてしまうのはどうなのだ、と母への文句をぶつぶつと吐きながら道具を出す。

「どこか行くのか」

「一応そのつもり。どこかはまだ決めてないけど」

「それなら丁度よかった」

 安堵した表情を浮かべ、準備しろと急かしてくる。

「どうしたんだよ、急に」

「ツバサの墓参り行かないか」

 ツバサという名前で反射的に体がびくっとする。さっきまで寒いばかりで暑さなど微塵も覚えていなかったのに、汗が額から滴り始めた。

「だめか」

 何も答えられない。何を答えていいのかではなく、何か答えていいのかという問いかけを自分の中で反芻する。

「……」

「だめなら、いい。一人で行くから」

 言外に呆れたと言っているようにも聞こえた。ただの勘違いなのかもしれない。でも、一度そう思い込んでしまうと、闇の中に落ちてしまう。頭の中がすっきりしなくて、ぐちゃぐちゃと勇介の言葉が思考をかき乱している。

「――おい、大丈夫か。汗、すごいぞ」

 声をかけられ意識が現実に戻ってきた。気が付くと、いつの間にか両の拳が強く握りしめられていて、ぱっと開いてみると手の内に汗が滲んでいた。

「ごめん、少し待っていてもらえるかな」

「わかった。終わったら来てくれ、できるだけ早く頼むな」

 直接的には何も伝えていなかったにも関わらず、自分の思いを理解してくれた勇介にありがとう、と小さくつぶやいた。



 二つ返事でガレージを出て、真っ直ぐ自分の部屋に向かった。部屋に着くなり、押し入れのドアを開けて中のものを引っ張り出す。幼少期に遊んでいたおもちゃや、中学校や小学校の卒業アルバム、文集など懐かしいものが出てくる。その度に少しずつ胸が痛くなって、肺を握り潰されるような苦しみを覚えた。

「……あった」

 ようやくぼろぼろのノートを見つけた。中を見てみると、拙い文字と絵で綴られた絵日記だった。ぱらぱらと捲っていくと、突然真っ白のページが続くようになった。遡っていくにつれて思い出を懐かしむようで辛そうな、複雑な面持ちになっていく。

 あった、とぽつりとつぶやく。四月六日、日付はそう記されていた。

「四月六日、ぼくは小学校一年生になった」



「パパ、ママ、はやく!」

「ほら、呼ばれてるわよ」

「はいよ。待ってろー」

 入学式を終え、その日の僕は上機嫌に小学校からの帰り道を両親と歩いていた。綺麗に咲いた桜がそよ風に揺れ、さわさわと音を立てていた。大人になった今では当時のように両親と桜並木の通りを歩むこともなく、余計に懐かしく思えた。

「翼ったら、新しい友達ができて大喜びね」

「あのことは言ってあるのか?」

「まだ教えてないわ、急に言ったらびっくりするかしらね」

 一戸建てを手に入れたばかりの父は、大手企業の主任になった。今思えば些細な変化ではあったが、母と無邪気で何もわからなかった僕はとにかく大喜びしたものだった。そうして慎ましくも幸せな生活を送っていた。

 そんな二人は息子である僕が今にも小躍りしそうなほどにしているのを見て、小さく微笑みながら何かを話していた。

「翼、家に帰ったらいいものがあるわよ」

「いいもの? ほんと?」

 目を輝かせて母の顔を見上げる。うんと母は頷いて、僕の手を引いた。



「ただいまー!」

 がちゃんとドアを開けて、元気よく母に帰ってきたことを知らせる。

「おかえり、学校はどうだった?」

「たのしかった!」

「そう、よかったわねえ」

 僕が楽しそうに学校であったことを話すのを聞いて、母は我が身のことのように優しく何度も頷いて一緒に笑ってくれた。あのとき僕の頭を撫でた手の感触は、今でも忘れない。

「ツバサは?」

「庭で待ってるわよ」

 聞くや否や、ランドセルを玄関に放り投げ、リビングに向かって駆け出した。がらりと窓を開け「ツバサー!」と叫ぶ。

 わん、と可愛らしい鳴き声と共にとてとてと子犬が僕に駆け寄ってきた。来るまで待っていようかとも思ったが、僕は堪え切れずに子犬を抱きしめる。

「ただいまっ」

 息を吐きながら嬉しそうに頬を舐めてきた。きゃっきゃっと笑いながらツバサとじゃれ合った。母は幸せそうにそれを眺めていた。

「ツバサ、聞いて、きょうね、ゆうすけくんとおにごっこしたんだけどね、すっごくたのしかった!」

 僕の話を聞いて、ツバサもまた母のように幸せそうに鳴いた。恐らく人間の僕の言葉など、子犬の彼には理解できなかっただろうが、余りにもご機嫌な僕の様子を観て、自分も嬉しくなったのではないかと思った。

「あとであそびにくるって言ってたから、ツバサも一緒にあそぼ!」

「あら、勇介くん来るの?」

「うん!」

「じゃあおやつ用意しなきゃね。翼も手伝って?」

「はーい!」

 ツバサに負けず劣らず、僕も覚束ない足取りで母の手伝いをした。三十分と立たずに勇介はやってきた。

「おじゃましまーす!」

「すいません、うちの子が勝手に」

「いえいえ、こちらこそ何もお構いできませんが」

「ゆうすけくん、こっちこっち!」

 勇介のお父さんは、父と同じ会社で勤めていた。その関係からもっと小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていたが、小学校が同じになり、このあたりからよく遊ぶようになった。

「こいつか? 翼がいってたのって」

「そうだよ!」

 ちょこんと座り、不思議そうな顔でツバサは勇介を見上げていた。

「可愛いでしょ」

 僕は自慢げにツバサの頭を撫でて、勇介にも撫でるように促した。しかし、ツバサの顔一点をただじっと見つめて動かなくなってしまった。僕は何だか不安になって肩を揺さぶりながら何度も名前を呼んだ。数刻経つと勇介の口から何か漏れ出した。よく近づいて、その言葉を聞き取ろうとすると、

「かわいい」

 と声をあげ、思い切りツバサを抱きしめた。母が勇介のお母さんに、まるで息子が二人になったみたいと言ったのを思い出した。

「あ、ぼくもぎゅ、したい!」

 勇介がツバサをかき抱くようにしたのを見て、僕も耐え切れなくなって勇介ごと抱きしめた。三人、二人と一匹でおしくらまんじゅうのように、さほど狭くない庭でぎゅうぎゅう詰めになった。ツバサは困ったように鼻を鳴らした。

 それから、六年生までの間、毎日のように僕はツバサと勇介と三人で遊んだ。公園でボール遊び、近くの山林で冒険もした。家族で川にキャンプに行ったときももちろん一緒だった。

「ただいまー!」

 勇介と一緒の中学校に上がって、僕はサッカー部、勇介は野球部に入った。毎日地獄のような練習メニューをこなして、二人とも一年生の後半にはレギュラーを勝ち取っていた。

 決して弱いチームではなかったから、顧問から背番号を受け取ったときは思わず、練習後にツバサと一緒に住宅街をぐるぐると何周もしてしまった。帰るのが夜遅くなって玄関のドアをおそるおそる開けると、目の前に両親がいて、泣きじゃくりながら僕とツバサに抱き着いてきた。

 父は軽く頭を小突くと、僕たちを抱きしめた。僕は母につられて泣き出してしまった。ツバサは心配そうに僕たちの頬を舐めてきた。それに思わずぷっと吹き出し、家族で笑った。ツバサは勇介と初めて会った日のように、きょとんとしていた。

「ただいまー」

 高校に入ってからも、サッカーを続けていた。勉強と部活を両立させていたおかげか、県内では珍しくサッカーの推薦で強豪校、尚且つ偏差値も高い好条件の高校に入ることができた。

 勇介は元々勉強家ではなかったが、僕がその高校に行くと言ったら、俺も行くと言い出して、猛勉強を始めた。慣れない連日の徹夜で体調不良になったこともあった。僕はやきもきして、その日の部活を休んで勇介の家に見舞いに行った。部屋に入ると、明らかに熱があるのに、勇介は勉強机に向かって必死に問題を解いていた。思わず大声で馬鹿野郎と怒鳴って、すぐにベッドに寝かせた。

 どうしてそこまでするのかと聞いたら、

「これからも翼と、ツバサと一緒にいたいから」

 そう言うと、目を瞑って静かに寝息を立て始めた。僕は嬉しくなって、また泣いてしまった。泣きじゃくりながら部屋を出ると勇介のお母さんもまた泣いていて、二人してくしゃくしゃの顔だったので笑ってしまった。

「ただいま」

 大学は実家を出て、大学に近い所でアパートを借りて通っていた。長期休みのとき以外は基本的に大学の図書館で暇をつぶしていた。

 勇介はやりたいことがあるからと地元の大学に入った。僕よりも僕の実家を訪ねていて、その度ツバサのようすを診ていたらしい。勇介のやりたいことというのは、獣医学だった。実は初めてツバサに会ったその日から、獣医になりたいと思っていたらしい。

 たまに帰るとすっかりおじいちゃんになったツバサが出迎えてくれた。子犬のころのような覚束ない足取りで、僕がただいまと言うと、小さく一鳴きして寝ころんだ。

 定年を迎えて退職した父に聞いてみると、もうツバサは両親よりも年上で、勇介曰くこれだけ生きているのは犬でも長いほうだ、そろそろかもな、と父は寂しげな目をしていた。ツバサが逝ってしまうその時のことを考えたら、目の上のほうがちかちかした。

 そんな矢先だった。ある日、授業を終えて、家に帰ったら何をしようかと考えていたら、ポケットの携帯が震えた。

着信先を見ると、勇介だった。妙に胸がざわついた。もしやと思った。おそるおそる電話に出てみると、

「ツバサが」

 嫌な予感が的中してしまった。勇介の言葉を最後まで聞く前に僕は急いで最寄りの駅で電車に飛び乗った。座っていると落ち着かないため、ドアの側に立って、窓に頭をつけて、祈るように目を瞑っていた。

 実家に着くと、沈痛な面持ちの母が迎えてくれた。僕が帰ると必ず誰よりも先に来たツバサではなかった。そのことが余計に僕の焦りを生んだ。

「ツバサは」

「わからない、勇介くんが頑張って診てくれてるけど、多分、もう」

 それ以上は聞き取れなかった。老けてしわがれた声と、泣きすぎて乾いた喉からは、もう聞きたくなかった。

「勇介」

「翼か、ちょっと待ってろ」

 リビングに入ると勇介が懸命にツバサを救おうと試行錯誤していた。早半年も会っていなかった親友との再会を喜ぶこともなく、真っ直ぐにツバサに駆け寄る。

「待ってろって言っただろ」

 勇介が待ってろと言った意味が分かった気がした。ツバサはすっかり衰弱しきって、寝たままで弱く、不定期に息を漏らして腹を小さく凹まし、膨らますことしかできなかった。僕が来たことさえ気づいていなかった。電車の中で心の準備はしていたつもりだった。だが、その姿を見て何かが決壊したように、涙が溢れだした。ツバサ、ツバサ、と何度呼びかけても、僕の言葉に反応すら示さない。もう近いことがわかった。

「お前が間に合ってよかった、最期に話してやれ」

「あ、ぁ」

 掠れた声で返す。震えてしまって思うように声が出なかった。勇介は僕に告げると、足早に庭へと出て行った。春先で少しも寒くなかったのに、勇介の肩は震えていた。その背中を見ていたら、また想いが溢れてきそうになった。

「ツバサ、覚えてるか。一緒に川に遊びに行ったろう」

 ツバサの空虚な目はただただ何もない場所を見つめていた。

「あのとき、勇介と三人で川遊びをして、すごく楽しかったよな」

「中学校で、一緒に走って、帰りが遅くなって、母さん泣いててさ。僕も泣いて、お前は心配してくれたよな」

「高校でさ、勇介がこう言ってたんだ。僕と、お前と、ツバサと一緒にいたいって」

 ツバサの耳がぴくりと動いた。

「僕、嬉しくなって、思わず泣いちゃったんだ。部屋を出たら勇介のお母さんも泣いてて、くしゃくしゃの顔だったもんだから、笑っちゃったよ」

 少しずつ、ツバサが立ち始めた。

「大学入ってから、全然帰って来れなかったもんな。ごめんな、ツバサ。ごめんな」

 もう音になっているか、わからなかった。俯いた僕の目から、口から、ツバサへの想いが溢れだしていた。

「くう、ん」

 微かに、聞こえた。はっと顔を上げると、ツバサが、その手足で立っていた。いつ事切れるかもわからないふらふらのツバサは、自分の足で僕の目の前まで来た。

「ツバサ」

 幽かな鳴き声。うちに来たころの姿と重なった。感極まって、お構いなしに目一杯ツバサを抱きしめた。勇介もそれに気付き駆け寄ってきて、一緒に抱いた。

「ツバサ、ツバサ」

 困ったような顔をみせる。初めて勇介と会った日と、同じ顔だった。我慢の限界だった。勇介は声を出して、泣き始めた。

「ツバサ、ごめん。ごめんな」

 勇介が泣きじゃくりながら謝ると、ツバサは勇介の涙を舌で拭った。大丈夫、とでも言いたげな顔をしていた。そのせいで僕も耐え切れなくなった。

 時計の針が少し進んで、とうとうツバサが立てなくなった。もう自分の足で躰を支えることすらできなくなった。刻々と近づいていることを意味していた。

「ツバサ、いかないでくれ。ツバサ」

 泣いて縋った。何度もツバサの目を見つめて、ぎゅっと抱きしめながら。

「翼、もう」

 勇介に言われて、改めてツバサの顔を見ると、既に終わった後だった。そこで初めて、声をあげた。

「見ろよ、翼。ツバサの顔、俺らの涙でびしょびしょだ」

 言われた通り、顔のまわりはひどいことになっていた。それでも、ツバサはとても穏やかで、嬉しそうな表情をしていた。

「拭いてやろう」

 綺麗なタオルを持ってきて、二人でツバサの躰を丁寧に拭いてやった。最中に、またこみ上げてきてタオルを濡らしてしまった。



 ふと気が付くと、日記帳はところどころ濡れていて、皺くちゃになっていた。

 ツバサの躰を拭いてあげた後、幼い頃にいつも遊んでいた山林の所有者に許可を取って、墓を作らせてもらった。

僕は作って以降、一度も行っていない。

 結局のところ、僕は怖いんだと思う。ツバサの最期に傍にいられても、空白の時間は徐々に多くなっていた。そんな僕をツバサは、家族だと、親友だと思ってくれていたのだろうかと。

「また泣いちゃったよ」

 はは、と乾いた笑いをあげる。

「これじゃツバサに、泣き虫だって笑われちゃうよ」

 ぽとり、ぽとりと一粒一粒、静かに手の上に吸い込まれるように落ちていく。

「そんなんじゃ、ダメだよね」

 でも、もう僕も、子供ではないのだ。

「よし」

 気合いを入れるように両頬を手でたたく。思いの外強く叩いてひりひりしたが、今の弱気な自分にはこのぐらいがちょうどいいのだと言い聞かせて、クローゼットからコートを引っこ抜くと、急いでガレージに向かった。

「やっと来たか……どうした、その目」

 来ない可能性も考えたが、姿を現した僕に安心した反面、目の周りが赤く、泣き腫らした様子の僕を見て驚いていた。

「ちょっと、ね」

 小さく微笑む。

「行くよ、色々話したいことができたから」

「そうか。よかったよ」

 勇介は安心した表情で、じゃあ行くかと促してきた。

「先に外出てて」

 わかった、と一言残して勇介はシャッターをがらがらと押し上げて出ていった。

「ツバサ、いっぱい伝えたいことがあるんだ」

 だからさ、待っていてね。

 そんなわけがないのに振り返ってしまう。

 でも、僕には、そのとき確かにツバサがいたような気がしたんだ。

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春のツバサ 千葉 翔 @senba120

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