5(竜の物語)

 夜の荒野には、見渡すかぎり誰もいなかった。赤茶けた砂の大地には石ころが転がるばかりで、小さな草木一本生えてはいない。所々に巨人の置き忘れたような高い岩の塊があって、それがはるか彼方まで続いていた。空にかかった月は、骨に似た白さでそうした景色を照らしていた。

 エントはただ一人、その荒涼とした景色の中を歩いていた。土は乾き、生命の温もりはどこにもなかった。神が創造の手を中途で放棄したような、寒々とした世界だった。

 薄いサンダルはすでに破れ、ほとんど物の用には立たなくなっている。砂礫の地面は素足で歩くのに適当とはいえず、エントの足は皮が破れ、肉は裂け、血を流していた。とはいえ、その痛みの感覚さえいまや鈍り、エントはただひたすらに歩き続けている。

 空には星々が輝き、その輝きは地上のことなど知らぬげに笑っているかのようだった。

 どれくらい、そうして歩いていただろうか。

 エントがふと気づくと、そこには竜がいた。竜は大地に横たわり、ひどく疲れた様子でその小高い丘ほどもある体を丸くし、地面に首を垂らしていた。彼の体は素焼きの器のような、艶のない白い鱗で覆われ、所々に緑の苔が生えていた。その鱗はいたるところで鋭い傷を追い、その下にある灰色の肉がのぞいていた。

 竜はひどく弱っているようだった。

 そっと、エントが近づくと、竜はその瞳を開いた。横を向いた竜の瞳は金色で、縦に裂けた瞳孔は地の穴を思わす深い闇を湛えていた。

「竜よ、この世の偉大な獣よ。何故あなたはこのような荒野の中で、そのように身を横たえているのですか」

 エントは朗々とした声で訊ねた。

 竜は眠りにつくような緩慢さで数度、瞬きした。その瞳の表面は確かにエントの存在を認めていたが、その奥で何を考えているのかはわからなかった。

 ややあって、竜は言った。

「私はもうすぐここで朽ちはてようとしているのだ、小さき者よ」

 エントは重ねて訊ねた。

「何故ですか? 竜とは不死のものだと聞いていました。それは永遠に地上を治める王だと」

「この世に永遠であるものなどない。すべてのものはその常理に従って滅ぶべきものなのだ」

 竜が言葉を発するたびに、その鼻からは硫黄臭い蒸気が上がった。

「確かにあなたの言うとおりです」

 エントは深く同意を示したのち、言った。

「ですが、竜もそうだとは知りませんでした」

「所詮、竜といえどもこの世界の存在にすぎない。私も世界に含まれた一部でしかないのだ」

「しかしあなたには強い腕があり、自由な翼があります。何があなたをこれほどまで傷つけるというのですか?」

 竜はしばしのあいだ、沈黙した。星たちは定められたぶんだけ、その位置を変えた。

「――よかろう、小さき者よ。私がどうしてこのような場所で朽ちはてようとしているのか、その理由を教えてやろう」

 そうして竜は、エントに向かって語りはじめた。


 …………


「私が生まれたのは、この世界のもっとも深い場所、すべてが熱と光になって混淆するところだった。ある時、私は私の存在を知覚し、その意識がより集まって結成した。

 最初、私はごく小さなものにすぎなかった。その大きさは砂粒ほどしかなく、どれほど鋭い目をもってしても私を認知することはできなかっただろう。だがその粒は非常に硬く、稠密で、決して破砕するようなことはなかった。

 長い時間をかけ、私はゆっくりと育っていった。砂粒ほどから、小石ほどへ。小石ほどから、岩塊ほどへ。私の意識は最初から今と同じようにあり、五体はすでに整っていた。私はただ夢を見るようにして、私の体が成長するのを待った。

 私にとって、私のまわりにある火は温かく、光は心地よかった。それは滋養ある母乳であり、快適な揺り籠だった。私のまどろみはあくまで深く、平和だった。

 やがて私の体は、地のどの獣より大きいものとなった。鱗は硬く、銀色に輝いた。手には強い爪を持ち、自在に動く翼があった。眠りは浅くなり、突き動かされるような衝動が内心に起こった。私は揺籃の地を離れるべきなのを知った。

 私は火の海を手で掻き、足で打った。魚類のように尾をしなわせ、上方を目指した。進むにつれて、私は火と熱が弱まるのを感じた。その先に何が待っているのかは、私の意識にぼんやりとした抽象があった。だが現にこの目で見るまで、実際はわからなかった。

 火の海のごく浅い場所、それが激しく噴きだすところまで私はやって来た。火と熱は薄まり、代わりに別のものの気配が濃くなった。私は流れに従い、地上へと飛びだした。

 その瞬間、私は今までとはまったく違うところにいた。そこには火と熱の代わりに、風と空気があった。光はずっと弱まり、散逸し、透明だった。私は碧空のただ中にあって、今まで想像だにしなかったような色彩の氾濫に巻きこまれた。空のさらに上方には、私の生まれたところよりももっと強い火と光にあふれた球体が浮かんでいた。私は軽い眩惑を覚えた。

 私の翼は火の海を泳いだのと同じに、風の海を泳いだ。どうすべきはすでに知っていた。粘性の低いその風の中で、私はもっと速く泳ぐことができた。私は自在に飛んだ。

 はるかな空の高みから、私は地上を見下ろした。そこには緑があり、水と呼ばれるものがあった。隆起した大地は山塊となり、それが途切れたところからは醒めるような青が広がっていた。いたるところに小さな生き物たちが蠢動し、中でも人間と呼ばれるものたちは大勢が群居し、町や村、畑、橋、そのほか面白いものをいくつも作っていた。私はその千変万化を見て、体中から興奮が渦のように集まるのを感じた。私は叫び声を上げた。それは火となって噴きあがり、この地上における私の誕生を祝った。

 しばらくのあいだ、私は気の向くままに空を飛びまわった。私はさらに珍しいものをたくさん見た。それぞれが七色に染まったいくつもの湖、尖った針のようになった奇岩の群れ、尽きせぬ嵐に襲われる砂漠の地、極北に舞う虹色の揺らめき、私が飛びだしたのと同じように火の水を湧出する山々。

 だがそのような放浪にも、私は飽きはじめていた。私の中で、何かが不満の声をあげていた。それは何かを求め、絶えず私を刺激した。正体のわからぬ渇仰が、私を突き動かした。

 私は一つの山に降り、そこで暮らすことにした。求めるべきものはいまだに不明だったが、私は何故かそうすべきだと思った。私の使命、この世に生まれた理由とでも言うべきものが、ここにあるのだと。

 峰を飛び、あるいは斜面を匍匐し、私はそれを求めまわった。まだ何と呼ぶべきかも知れぬ、だが確かに私が見つけるべきものを。

 そうしてとうとう、私はそれを発見した。

 遭遇の瞬時に、私はそれを何と呼ぶべきなのかを理解した。

 ――〝敵〟

 それは、そう呼ばれるべきものだった。私はずっとそれを求め、待望していたのだ。私を激しく衝動していたのは、自分の力を振るうべき相手を希求する心だった。

 私の敵は、私と同じ格好をしていた。すなわち、相手もまた竜だった。その竜は私より体が大きく、歳をとっていた。鱗の輝きは幾分鈍り、爪の一つは半ばから折断されていた。よく見ると、全身に細かな傷を負っていた。

 私たちのあいだに、言葉はなかった。咆哮だけが戦いのはじまりを告げた。私たちは相手を純然たる敵として認識した。そこに慈悲や容赦の入る余地はなく、また必要もなかった。そこには単純があった。この世の何よりも至誠で、混濁のない動機が。

 私たちは炎熱を吐き散らし、鋼鉄より鋭い爪を閃かした。翼を打って空をかき乱し、大地に数多の痕を穿った。崖を崩し、森を薙ぎ、草を焦がし、池を干上がらせた。生き物たちは逃げ惑い、あるいは炎にまかれて焼け死んだ。

 争闘は三日三晩に及んだ。その竜は年長け、知恵において分があったが、若さと力においては私が勝っていた。そして結局は、それが互いの勝敗を分けた。戦いが長びくにつれ、情勢は次第に私の有利となった。

 そしてとうとう、決着の時がやって来た。

 雲がバラ色に輝く、美しい朝だった。私は相手の首を押さえつけ、その喉を切り裂いた。血があふれ、地上を濡らした。その瞬間、すべてが荘厳な静寂に包まれ、太陽が勝者である私を照明した。

『お前の勝ちだ、若き竜よ』

 その竜は平穏の声で言った。そこにはどんな恨みも、苦しみもなかった。彼は微笑みさえしていた。

『これからはお前がこの地の王だ』

 そして、竜は死んだ。

 私は勝利したものとして、高らかに咆哮した。その声の轟によって、地上のものたちはみな理解した。今、新しい王が樹ったのだと。彼はまた殺害者でもあった。古き王はついに、殺められたのだ。

 咆哮を終えるとともに、私は空へと飛びたって私の君臨する地上を見下ろした。その地に根づくものすべてに対して、新しい王たるものの姿を披瀝するために。生き物たちはみな頭を垂れ、草木や石の一欠片さえ私に従属した。

 王たる私は、時に無慈悲の暴君となり、時に寛恕の慈父となった。気ままに灼熱を吐き散らし、木々を踏みしだき、生き物を食らうこともあれば、雲を呼んで恵みの雨を降らし、山を荒らす小賢しい人間どもを追い払い、川の氾濫を抑えることもあった。王たる私に許されぬことはなく、また常にそうあらねばならなかった。

 数年の時が経過した頃、私は眠りの中である気配を感じた。その感情は、とてもなじみのあるものだった。それは私を刺激し、昂ぶらせた。血が湧きかえり、肌の隅々までが波立った。

 私の敵が、すぐそこまで迫っているのだ。

 ねぐらとしていた洞を抜けだし、私は空を見上げた。上空は雷雲に覆われ、とめどない雨が地上へと降り注いでいた。突風が雨滴を巻き上げ、生き物のようにうねりを作った。昼だというのに、世界は全体が灰色の薄闇の中にあった。

 一瞬の電光が、敵の姿を浮かびあがらせた。それは竜だった。私と同じくらいの、若い竜だ。その体はまだ傷一つなく、鱗は銀色に輝いていた。

 私がその竜を敵として直覚したように、その竜もまた私のことを敵だと覚知していた。

 今度もまた、私たちのあいだに言葉はなかった。ただ自然が暴威を振るうがごとく、私たちは組みしきあい、互いに炎を浴びせかけた。雨は宙空で蒸散し、雷鳴が呼応するかのように激しく音を立てた。

 私たちの力はほとんど互角ではあったが、戦闘の経験において私には一日の長があった。戦いは一週間ほどにも及んだが、結局は私が勝利した。私の爪がその竜の左眼を裂くと、長い闘争も終わりを告げた。

 その竜は全身に傷を負いながら、いずこともなく去っていった。運がよければ、どこかで傷を癒すこともできるだろう。そうでなければ、血を流し、どこかで野垂れ死に、その体は土に、その魂は再び生まれた場所へ、あの熱と光の深部へと還っていくだろう。私はそう思っていた。

 そうして同じように、私は王として何匹もの竜と戦いを繰り返した。あるいは僥倖によって、あるいは辛苦の末、私は勝利を重ねていった。殺害者たる新しい王はいまだ現れず、私は次第に古い王となりつつあった。

 だがある日、それも終わりを告げた。

 その竜が現れたのは、最初に出会ったのと同じような雨曇りの日だった。私はすぐさま、それがあの時の竜だと認識した。その左眼には、私がつけた爪痕が灰色の跡になってくっきりと残っていた。

 私たちのあいだにはやはり言葉はなかったが、この邂逅に対して様々な想いは巡った。私たちは互いにそれを感じ、そのことを理解しあった。

 戦いは、しかしそのようなこととは関係なく行われた。

 放浪の末、その竜は様々な経験を身につけ、力と技を蓄積していた。一方で私は、長きにわたる争闘によって傷つき、故障を抱えていた。炎は力を失い、以前のような闘志が身内から湧くこともなかった。

 だがそれでも、私は王だった。王として最後まで振るまう責務が、私にはあった。

 その戦いは、それまででもっとも長きにわたった。はじまりは、雪の降る朝のように静かに行われた。それは徐々に激しさを増し、私たちは互いを引き裂き、啖らいあい、焼きあった。肉が削がれ、血が飛んだ。私たちはそれまででもっとも獰猛で、仮借なく、残酷だった。私たちは微笑みさえした。

 永遠とも思われた戦いにも終わりはやって来た。私にはもうどんな力も残っておらず、地に倒れ伏した。私の口からは弱々しく煙火が上がるばかりだった。もはや指先一つ動かすこともできなかった。

『これからはお前がこの地の王だ』

 私はかつて言われたのと同じ言葉を口にした。それが常理というものだった。殺した王はまた、殺される王でもある。

 だが結局のところ、その竜が私を殺すことはなかった。

 彼は私に最後の一撃を加えることなく、私を放置した。それはあたかも敗者への無用の憐憫や、勝者のいわれなき驕慢のようにも思えた。だが本当のところ、それは違った。彼は私に最後の自由を許したのだ。自分で自分の死に場所を決めるという自由を。

 わずかな力を取り戻した私は、死地を求めて飛びたった。空はあくまで青く、風はあくまで優しかった。失地の王として何の権威もなく彷徨う私に対しても、世界はなんら変わるところを見せなかった。

 やがて私は住むものとてない荒野を見つけ、そこに降り立った。ただ最後の時を、静寂と安穏のうちに迎えるために。

 だから小さき者よ、お前もまた私をここで静かに死なせるがいい」

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