4(オノルの物語)

 かつてエントは、オノル師から話を聞かされたことがある。

 それは僧院の長として、グルガ・ノトゥシマと称されることもあるオノルが、どのようにして僧門の道に入ったか、ということだった。

 若い頃のオノルは、今からは想像もつかないような放蕩無頼の徒だったという。幼少の砌、両親に捨てられた彼は、自然とその道の人間と親しくなった。それは無理からぬことでもあったのである。

 盗み、詐弁、強請り、誘拐、さらには人殺しまでも。彼はそうしたことを、別段罪だとは思わなかった。それは生きるのに必要なことだった。オノルにとってそれは、呼吸や、食事や、睡眠と同じことで、誤りなどとは思いもよらないことだったし、またそうしたことを論議するような人間もまわりにはいなかった。

 およそ考えうるかぎりの悪逆非道を尽くした彼だったが、ある時しくじりを犯した。ある町で強盗を働き、兵士から逃げる途中、崖から滑り落ちたのだ。仲間たちには誰一人として彼を助ける者はなく、追手から少しでも逃れるべく駆け去っていった。

 オノルは転々する視界と滑落する体をどうすることもできないまま、深い谷底へと落ちていった。途中、何度も岩角へとぶつかり、意識はすぐに闇へと消えた。

 次に気づいたとき、オノルはベッドの上にいる自分を発見した。全身がばらばらになりそうなほど痛んだが、傷口には包帯が巻かれ、各所に治療の跡があった。しかしオノルが次に考えたのは、ここから逃げなければ、ということだった。

 オノルはベッドから降りようとして、無様に床へと落下した。衝撃で骨が砕けるような痛みが走った。彼はそれでも呻き声一つたてはしなかったが、その音を聞きつけたらしく、家の人間がドアを開けて現れた。

 それは、グルガ僧の男だった。僧服をまとい、髪も髭も霜の降りたように白くはあったが、その鋭い目や力の強そうな手は、老人というほどの年齢には見えなかった。青虫のように腹ばいながら、なお獣のような目で自分のことを見つめるオノルを見て、彼はただわずかに眉をひそめただけだった。

 彼がオノルに近づこうとすると、オノルは瀕死の人間とは思えないほどの強さで叫んだ。「俺に触るな!」

「――お前は怪我をしているのだ」

 と、彼は穏やかな声で言った。

「体を痛め、ひどく弱っている」

 それから彼は、オノルを抱きあげてベッドへと戻した。どれだけ威勢のいい声を出したところで、オノルには指一本動かす力さえなかった。彼は無抵抗で男のなすままに任すしかなかった。

「お前は俺が誰だか知っているのか?」

 オノルは相手に噛みつかんばかりの勢いで訊ねた。

「いや、知らんな」

 と、男の態度はそれでもまったく変わることがなかった。

「つい数日前、ある町で商家に押し行っては金を盗んでいた無法者たちがいる。その連中の一人が俺だ。屋敷から逃げだすとき、邪魔な使用人を一人、殺してもいる」

「お前は崖の下に、ひどい傷を負って倒れていた。私はそれを助けたにすぎん」

「ここはどこだ? きっと役人どもがすぐにでもここにやって来る。そうすれば、お前は俺を奴らに引き渡すだろう」

 ちょうどその時、家の扉を叩く音がした。オノルはぎょっとして、寸時傷の痛みを忘れて身を固くした。司直の手に捕まれば、縛り首は免れない……

 男は立ちあがり、部屋をあとにした。玄関らしい場所で、何か話しているのが聞こえた。だが遠すぎて、オノルにはよく聞こえない。まるで体を少しずつねじ曲げられていくような、そんな時間が流れた。どちらにせよ、この体で逃げることなどできはしない。オノルはただじっと、その感覚に耐えた。

 やがて男が部屋へと戻ってきた。だが予想とは違って、男は一人だった。男はイスを動かして、オノルの前に座った。

「今のは誰だったんだ、いったい?」

 オノルは青い息で言った。

「近くの村に住む役人だ」

「何を話した……?」

「このあたりで盗人が一人、崖から転落した。もしかしたら、何か知っていないか、と」

「それでお前は何と答えたんだ?」

 オノルの問いに、男は少しだけ間をあけてから答えた。

「何も見ていないし、何も知らない、と」

「何故だ」

 オノルの声は、まるで男を責めるかのようだった。

「俺は悪人だ。普通の連中は俺を見て顔をしかめる。こそこそ嫌な話をする。今すぐにでも死んでくれという目つきで俺を見る。なのに、何故あんたはそうしなかった」

「お前は傷つき、弱っている」

 と、男は最初の言葉を繰り返した。

「ただ、それだけのものにすぎない」

 オノルは言葉に困るように口を噤んだ。それから、迷ったすえにようやくといった感じで次のことを訊ねた。

「お前はグルガ僧なのか?」

「――いや、違う」

 男の応答はそれだけだったが、何故かそれ以上の質問をためらわせるような、圧力の高い緊張を含んでいた。

 それから、オノルは男の家で暮らすようになった。最初は傷さえふさがれば出ていくつもりだったが、体が動くようになるにつれ、彼は家の仕事や、細々としたことの手伝いをするようになった。男はそんなオノルに対して何も言わなかった。感謝も不満も、出ていけと言うことも。

 男は一人暮らしだった。家は――というよりそれは、小屋といったほうがいいような慎ましやかなものだったが――人里から離れた谷にあって、必要な物はたまに訪れる商人と交換した。食料は主に斜面の畑で作られ、罠をしかけて兎を捕まえたり、川で魚を釣ったりした。

「何故、こんなところに一人で住んでいるんだ?」

 オノルはある時、訊ねてみた。それに対して、男は短くこう答えるだけだった。

「私がそう望んだからだ」

 二人での生活に、オノルは次第に慣れていった。はっきりとはわからなかったが、男のほうでもそうであるようだった。たまに冗談を言うと、男は愉快そうに笑った。もう何年も、そんな面白いことなど耳にしなかったというように。オノルは笑ったときの男の顔が、ひどく柔和なことに驚いた。

 男の一日は、主にグルガ僧のそれとして過ごされた。すなわち、朝昼晩の礼拝、経典の読誦、告解、折々の祈り、教えに従った所作、作務。

 そんな男を見て、オノルは何度か同じ質問を繰り返した。やはり、あんたはグルガ僧なのか、と。

 だがそれに対する男の答えは、いつも同じだった。「違う」と。

 それでも、敬虔な男の態度に感化されたのか、オノルはグルガに対して興味を持ちはじめた。以前の彼にとって、僧侶といえばただ空言を論じるだけの、中身のない人形にすぎなかった。彼らの言うことは現実にそっておらず、虚しい妄言だった。だがこうして男と一日暮らしてみると、グルガの教えんとするところが、オノルにもかすかにわかりはじめていた。

 教えを乞いたいと言うと、簡単に許可された。一日の日課の中に、授業の時間が加えられた。男は丁寧に、何より根気よく教授した。オノルが不真面目に、集中を欠いていたとしても、それは理解の道筋がまだ整っていないのだと、決して腹を立てなかった。

 やがて季節は巡り、数年の時がたった。オノルの理解は進み、教えることも少なくなっていった。彼は以前のように短気を起こすことも、世を憎み謗ることもなくなっていた。自分の罪を知るとともに、人々を憐れむことも覚えた。

 そんなオノルに対して、男は満足そうだった。相変わらず男が自分のことについて語るのは少なかったが、オノルにしても、それはもう気になることではなかった。日々はあくまで静かに、穏やかに流れていった。

 だがそんな日々にも終わりは来た。ある日、男は病に倒れたのである。高熱を発し、四肢の先は黒く変わった。オノルの必死の看護も空しく、容態が回復する兆候は見られなかった。

 オノルはグルガの教えに従って、強く祈りを捧げた。行を重ね、教を誦した。できることは何でも行った。

 しかし、男は死んだ。

 死の直前、男の意識は意外なほど明瞭し、オノルに向かって語りはじめた。それは、彼の秘密についてだった。

「私はお前に、私はグルガではないと言い続けてきたな」

 男は臥所の上から、息をするのさえ辛そうに言った。

「そのことはもういいのです。私にとって、あなたは真正のグルガだった」

 オノルは男の言葉をそっと押さえるように言った。

「いや、私は確かにグルガではないのだ」

 男はなお、頑是ない子供のように口を閉じようとはしなかった。そして、次の言葉を続けた。

「私は、破戒僧なのだ」

 オノルは静寂を労わるように沈黙した。そのことは、薄々感づいていたことでもあった。グルガの教えを知るにつれて、男が破戒者としての印を常に身につけていることを、オノルは嫌でも気づかずにいられなかったのだ。

 だがいかなる事実があったとしても、彼に対するオノルの敬心が揺らぐことはなかった。

「そのことについては前々から気づいていました。ですが、やはり私にとって、あなたが最高のグルガであることに変わりはありません」

 オノルは真実そう思いながら、励ますように言った。

「……私が破戒僧になったのには、理由があるのだ」

 男はオノルの言葉が聞こえなかったかのように続けた。

「どのような理由ですか?」

 と、オノルは問うた。男はどこか遠くを見るように言った。

「それが、私に下されたフィージョだったからだ」

 オノルはその言葉に驚いた。フィージョを守ることは、グルガにとってもっともその教えに従うことを意味する。だが、教えに従うために、それを捨てるとは――

「それはあまりに馬鹿げたことです。矛盾しています」

 と、オノルは相手の病身も忘れ、思わず叫びだしてしまった。

「私はそうは思わんよ」

 男はあくまで穏やかだった。そう、初めて会ったときからそうだったように。

「フィージョの本当の意味を、我々が推しはかることはできない。天空や、星や、水や、風の意味を知ることができないように。それはただ、そうであるというだけのものにすぎないのだ」

 そう言われ、オノルはいかなる言葉も返すことはできなかった。いや、どんな応えをすることができただろうか。もっとも敬虔な、破戒僧。例え何者であったとしても、この男に意見することなどできはしなかった。彼の存在は、そのようなところから遠く離れた場所にある。

 やがて、男は死んだ。最期の時には、その苦しみは少なかった。死顔は穏やかだった。彼の死を聞いて、大勢の村人たちが悼み、墓を作ってくれた。オノルは彼のことをあらためて理解できたような気がした。

 そしてオノルは、そのとき忽然として己のフィージョに目覚めた。それは、彼を生かすことだった。その男を、教えを守るために教えを捨てた男のことを、記憶し続けることだった。彼のことを思い、彼の思いを感じ、彼があたかも在るようにし続けることだった。彼を糧とし、人々に善き影響を与えられるようにすることだった。

 オノルはグルガとして旅立ち、やがて僧院を作った。

 それが、エントがオノルから聞かされた話だった。


 エントは森の中を歩いていた。夕暮れ時の迫った森は、ゆっくりと暗闇の中へ沈もうとしていた。道のそばを離れて木立のほうへと近づくと、そこからはすでに夜の世界が続いていた。

 湿った土の道を歩きながら、エントは自分のフィージョについて考えていた。それには、どんな意味があるのだろうか。それはどんなふうに、自分を変えてしまうのだろうか。

 いや、もしかしたらそこには、何の意味も変化もありはしないのかもしれない――

 地面は染料でも流しこまれたように、薄い茜色に変わりつつあった。影がエントをからかいでもするようにずっと先までのび、夕闇が空から降りはじめている。

 ふと、エントの耳に何かが聞こえた。

 それは最初、何かの間違いのように思えた。ただ森の寂しさや、ゆっくりとやって来る死のような暗闇がそう思わせただけの、聞き間違いかと。

 だが足をとめ、耳を澄ますと、それははっきりと聞こえてきた。

 はじめは囁くような、小さな音。それは兎が駆けまわるような、小鳥が羽ばたくような、ささやかな前ぶれを告げる音。軽快なリズムと、明るい音色が連なる前奏。

 それは、音楽だった。

 音はすぐに大きくなり、もはや聞き間違いとは言えなかった。何もない森の中で、奏者もなく、ただ音楽だけが響いていた。エントは目を閉じ、耳でその音を聞きとることに集中した。

 軽やかなはじまりの旋律は、次第に賑やかさを増しつつあった。いくつもの楽器の音が加わり、それらは混じりあい、時に弾けあった。音の糸はからみあい、思いもよらない模様を織りなした。風が木々を揺らすように、水滴が草の上に落ちるように。

 やがて音は、いくつもの川の流れが合流するように高らかに鳴り響きはじめた。それは世界を祝福し、慶賀した。和音は限りない美しさで連なり、響きの隅々までに清澄な輝きが満ちていた。

 エントは自分でも知らないうちに、目を閉じたまま足を進めていた。その音楽が導く先へと向かうように。

 弦楽器は力強い哀切を奏で、打楽器は調子よくテンポを刻んだ。管楽器は朗々と世界を揺さぶり、それらのシンフォニーが木漏れ日のように複雑な、けれど調和した音曲を作りだしていた。

 やがて音楽は高まり、クライマックスを迎えた。すべての楽器はただ一点を目指して力をあわせ、いまや耳を聾するばかりの歓喜を歌った。すべては光に変わり、まばゆく輝きだした。それは黄金の魔法だった。

 最後の音の響きがゆっくりと空中に解けていくと、森は元の静けさを取り戻した。けれどその静けさには、以前とは違った様子があった。透明な水の中に、何かを溶かしこみでもしたかのように。

 しばらくしてエントが目を開けてみると、すでに紫色の闇があたりを覆っていた。空気はいつのまにか冷やりとした感触を漂わせ、夜はその気配を濃くしつつある。

 音楽はもう、どこかへ去ってしまっていた。

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