第18話 待ち人

まだ時間はあったのだが、支度を済ませて家を出る。これはアダムとイヴを警戒しての事ではない。警戒したのは家の住人。つまり姉さん達だ。ちょっと手が空くと何処かに連れて行けと五月蝿い。さっきだって、駅まで一緒に行こうとし始めたんだから油断ならない。


最寄りの駅までは歩いて5分。まだ30分以上あるのだが、他にする事も無いので駅前のベンチに座り鞄からスケッチブックを取り出す。紙は骨董品のような扱いだが、絵画に関して言えば現役である。芸術における感性の類までは、完全データ化の目処が立っていないらしい。


音楽や絵画のように、五感を通して心に訴えかけるものは全てデータ化すれば良いという物でもない。万人が同じように感じる訳ではないし、素材自体が持つ魅力もある。最も理解し易いのが楽器。取分け弦楽器か。バイオリニストがエレキバイオリンを使っていたらどうだろうか?




言っておくが、オレに絵を描く趣味は無い。相手側がオレを見つけられるように考えられた合図との事だった。他にする事も無いので、とりあえず本当にスケッチをしてみる。因みにアリスの姿は無い。人混みでの接触は危険だと言っていたので、多分本当なんだろう。独り言を言う痛い人だと思われずに済んで何よりだ。


これも説明しておくと、通話中の人の頭上には『通話中』と親切に表示される。これが無いと痛い人で溢れ返るのだから、通信会社グッジョブである。




モデルに選んだのは1人の女性。駅前に植えられた花の前にしゃがみ込む姿が絵になったからだ。横顔しか見えないのだが、かなりの美人である。移動される前に急いで女性を描き、もう居なくなっても大丈夫という段階で周囲の景観に移る。



(・・・出来た!久々に熱中したな。そう言えば時間は・・・え!?)


いつの間にか夢中になり、周囲の状況が目に入らなくなっていた。いや、目に入ってはいたが、気にしていなかったというのが正しいだろう。オレが驚いたのは時計を確認したから。


時刻は午前11時過ぎ。実に1時間半もの間、スケッチに没頭してしまったのだ。


だが流石に声を掛けられれば気付く。しかしオレに声を掛けて来た者はいない。待ち合わせ日時をアリスが間違えたのか、相手方に何らかのトラブルがあったのだろう。



もう帰ろうと思いスケッチブックを閉じようとした瞬間ーー


「その絵、私ですよね?」

「え?」


余裕があれば、絵?とか言ったかもしれない。しかし突然、いつの間にか右隣に座っていた女性に声を掛けられた事、何よりその女性が絵のモデルになった相手だとわかって二の句が続けられなかった。


「もし宜しければ、その絵を頂けませんか?」

「・・・このような物で良ければ。」

「ありがとう!うわぁ、やっぱり上手!!」


新品のスケッチブックだった事もあり、丸ごと女性に手渡すと本当に嬉しそうにしている。改めて観察するが、やはり美人である。


自分の周囲にはいない、本当にお嬢様という表現が適切な女性。腰まで真っ直ぐ伸びた黒髪が輝きを放ち、非常にスタイルがいい。危うく見惚れそうになるが、すぐに警戒を引き上げる。


「良かったな?お嬢。」

「はい!」


この男・・・強いな。しかしお嬢?・・・嫌な響きだ。単なる護衛?ひょっとしたら、カタギの人間じゃないのかもしれない。絵を描く事に集中している時ならまだしも、描き終えた今は周辺に気を配っている。だがこの男がすぐ近くに来るまで気付かなかった。ハッキリ言って異常だ。迅速にこの場から、彼女達から離れるべきだろう。


「絵も描き終わりましたし、そろそろ失礼させて頂きます。」

「あっ!お待ち下さい!!是非お礼をさせて貰えませんか?」

「いえいえ、それには及びません。待ち合わせもありますので。」


立ち上がろうとしたオレの右手を取り、そのまま両手で包み込まれる。何とか振り解こうとしながら断りを入れる。すると彼女は首を傾げるが、すぐに微笑み顔を近付けて来た。耳元で囁かれた言葉に、オレは思わず息を呑む。


「待ち合わせ?それでしたら問題ありませんね。・・・八神秋人様?」

「っ!?」


警戒していたつもりだが、所詮つもりでしかなかったらしい。女性を押さえるべく動き出そうとしたが、反対側に回った男性に左肩を押さえつけられた。


「お嬢の誘いは断るもんじゃねぇぞ?」

「・・・何者だ?」


(右手はダメ。左肩も。左手と両足は動く。木製のベンチを壊せば逃げる事は可能。ならば出方を伺うか・・・。衆人環視の状況で、下手な真似はしないはず。しかし薬や注射を使われれば逃走は困難。なら口以外が動いた段階で行動に移るべきだな。)



瞬時に作戦をたて、相手の出方を伺う。最も警戒すべきは、この男の空いてる左手だ。


「(この小僧・・・お嬢を守りながら押さえ続けるのは難しいな。) スマン、お嬢。オレ1人じゃ手に負えねぇ。」

「そうですか・・・では下がって下さい。」

「わかったよ。」

「え?・・・んぐっ!?」


男性が口にした突然の敗北宣言。彼女はあっさり受け入れ、少しだけ思案してから男性を下がらせる。予想外の展開に呆けていると、突然両頬を押さえられて顔を右側へ向けられる。いい香りと共に、口を塞ぐ感触。これはアレだ。チューってヤツだ。



体感では数十秒から数分に感じられた、ある意味での拘束。思考が追い付かず呆けていると、頬を赤らめた女性が口を開いた。


「私のファーストキスを奪ったのですから、秋人様には責任を取って頂きます。」

「・・・へ?・・・いやいや、奪われたのはこっちだから!」

「言い訳無用です!男なら黙ってこの書類にサインして下さい!!」

「書類?・・・何じゃこりゃぁぁぁ!」


可笑しな言い掛かりをつけられ、新手の美人局かと思った。だが脳内に送られて来た書類に目を通して発狂する。


ーー 婚姻届 ーーー


しかもあろうことか、必要な箇所は全て記入済み。住所までしっかり書かれている。驚いて叫んでしまったが、この時点で冷静さを取り戻した。かなりの情報を握られているだろう。



自慢じゃないが、我が家は潤沢なお小遣いによって魔改造が施されている。それこそ何処ぞの特殊部隊が攻め込んで来ても、30分は時間を稼ぐ事が出来るレベル。だがそれは撃退出来る事を意味している訳ではない。どれだけ頑張ろうと、時間稼ぎにしかならないのだ。


つまりこのまま逃げ切ったとしても、安全どころか逆に危険である。反撃出来てイーブンなのだから、先ずは相手の正体を掴む必要がある。そして嬉しい事に、今オレの手元、正確には脳内だが、そこには相手の情報があるのだ。偽の情報かもしれないが、何も無いよりマシだろう。


ならば相手の出方を伺いつつ、情報を集める時間を稼ごう。


「え〜と・・・」

「さぁ、秋人様!サインを!!」

「い、いきないコレはないでしょ!?貴女の名前も知らないんですよ!!」

「それでしたら、お送りした書類に書いてあります。」

「え、えぇ、そうですね・・・天羽 凛(あもう りん)さん?年は一緒か。住所は・・・(今の内に検索!)」


にしても、ちょっと珍しい名字だな。そう言えば1人だけ、というか1家族だけ知っている。でもそれは有名人を知っているという意味であって、面識がある訳じゃない。出来れば関わり合いになりたくないし。


「秋人様のお宅とは少し離れておりますが、何の問題もありません!既に秋人様のお宅に移り住む用意は出来ておりますから!!」

「いや、そんなに笑顔で言われましても・・・」



初対面なのに、どうしてこうも迫って来るんだ?オマケに検索に時間が掛かり過ぎてる。何か特殊な事情でもあるのか?閲覧禁止?考えたくはないが、まさか禁則事項!?



大昔は有名人や著名人にはプライバシーが無かったと言われている。しかし今の時代はアダムとイヴの恩恵によって、全ての人間が護られている。所謂禁則事項に引っ掛かり、オンライン上での情報交換が制限されているのだ。今回はソレに引っ掛かったのかと思ったがーー


そんな事は無かったらしい。ちゃんと出た。


「え〜と、天羽財閥・・・天羽財閥!?」


驚きの余り、つい大声を上げてしまった。通行人全員がビクッとして、一斉にこっちを見てる。ただこれはオレの声に驚いたと言うよりも、名前に驚いたと思われる。


「あ・・・私の実家ですね。秋人様?余り大声を出されると、その・・・」

「す、すみません!」



オレが検索した事に気付いたのだろう。申し訳無さそうな彼女が小さくなってしまった。だが普通なら彼女ではなく、周囲の人間が小さくなるのだが・・・。



天羽財閥。世界でも五指に入ると言われている家の次女が彼女、天羽 凛という少女である。財閥となっているが、皇財閥とは違う。天羽家は所謂マフィアの首領なのだ。これは国民のほとんどが知っている事実。


金になる事なら何でも手を出し、関わっていない事業は無いとまで噂されている。真偽の程はわかっていない為、警察も手が出せずにいるなんてのは良く聞く話だ。だが今は正直どうでもいい。問題なのは、そんなマフィアの令嬢が何故オレに接触して来たのか。


さらに問題なのは、天羽家から逃げる事の難しさ。この場を凌ぐのは簡単だ。彼女を人質にでもすれば、護衛と思われる男性はどうにでもなる。だがその後が問題だ。圧倒的な財力と人員を相手に、逃げ場などあるはずもない。何処かの国の山奥にでも行けば別かもしれないが、一家総出で文明を捨てるのも難しいだろう。



打つ手が見当たらない状況に、冷静さを取り戻したオレ。逆に焦り出したのは彼女である。


「あ、あの!ご迷惑ですよね!?秋人様が望まれるのであれば、実家と縁を切るのも厭いませんから!ですから私と、けけけ、結婚して下しゃい!!」

「(噛んだ・・・)」

「「「「「はぁぁぁ!?」」」」」

「お嬢!!」


冷静になり過ぎてツッコミを入れるオレ。マフィアの令嬢が逆プロポーズした事に驚く通行人達。天羽家と縁を切ると言い出した事に黙っていられなかった護衛の男性。



混沌とする状況が可笑しく思え、やっと調子が戻って来たかな。一歩でも間違えればウチの家族だけでなく、皇家まで巻き込みかねない大博打。不謹慎だが、命懸けで楽しませて貰うとしよう・・・。

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