三 触れ合うもみじ/後

     3


 女は戸を叩きも声を掛けるもせず、離れの戸を開けた。

 それに気づくと中にいた少女――北見きたみは大きく肩を揺らした。

 姉の背後に立つ者――ハジメから目を離さないようにしながら、小さく縮こまり震えている。

 そんな妹の元へ女が一人歩み寄り、耳元へ口を寄せた。

「あんたと話がしたいそうよ」

 北見は驚くと同時に困惑と恐怖の表情をした。そして離れていこうとした姉の袖を素早く摑んだ。

 女は袖を摑む妹の手に触れると宥めるように、

「なにかあったら大声出しなさい」

 それでも北見は手を離さなかった。拙い、途切れ途切れの言葉で姉に尋ねる。

「おね……ちゃ……どぉ……見え……」

 お姉ちゃんにはあの人がどう見えているのか。そう問いたいようだ。

 女はその言葉を正確に読み取っていた。

「どうって……普通の人よ。あんたが怯える理由がわからないくらいにはね」

 北見は不安そうな顔のままだが、今度は立ち上がる女を引き止めなかった。

 女は戸口にずっと立っていたハジメに一瞥をくれると、その場を後にした。

 女が去ったあとも、ハジメはすぐには離れに入らなかった。

 北見はハジメを見ながら未だ身体を震わせていた。

「えっと……お邪魔しまず……」

 少女にその声は聞こえていないだろうが、ハジメは離れに一歩足を踏み入れた。

 すると北見は、先ほどよりは小さく、肩を跳ねさせた。

 暗がりで見ることはできないが、ハジメの所為で北見の顔色は青くなっていることだろう。

 彼女と話すにはすぐ傍まで近づく必要があるが、今無理に近づいてもまともに話ができるとは思えない。

 秋の夜のひんやりとした空気が肌寒いが、ハジメは戸を開けたままにした。閉じればより怖がらせると思ったからだ。

 そして座敷に上がるとすぐその場に座り込んだ。

「?……」

 近づくどころか動く様子もないハジメに、北見は僅かばかり不思議そうな色を浮かべた。

 北見と話すにはまず自分が無害であるとわかってもらわなければならない。言葉の届かない相手にどうすればわかってもらえるか。最も有効な策は、相手から近づいてくるのをじっと待つことだ。

 野生の獣が相手なら策を講ずる前に逃げられて終わりだが、今回は話がしたいということは伝わっている。どれほど掛かるかはわからないが、その気になったら北見の方から近づいてきてくれるだろう。

 北見が感じている「気配」というものは、こちらの感情とは関係なさそうだが、ハジメはなるだけ気と身体を緩めるよう努めた。

 自分から言い出したことだが、時間が時間だけに眠りそうになったりしながらそのときを待った。

 待ちながらも他にも策はないかと考えた。

 どれくらいの時が経ったか。

 節を抜いた竹筒を使ったら多少離れていても会話できるのでは、などと閃いたとき、北見が動いた。

 どれほど大人しかろうと、誰も『鬼』や猛獣に近づきはしない。一定の距離を取る。ひょっとしたらこのまま傍までは来てくれないんじゃないかと思っていたが、北見はハジメのすぐ斜め後ろに腰を下ろした。長く艶やかな髪をしているのがわかる。座っても床に着かないぎりぎりのところで結い整えてある。

「ぁの、わたし、うまく、しゃべれない、です……」

 舌ったらずながら、北見はハジメに伝わるだけの言葉を一所懸命紡いでくれた。

 ハジメはほっとして思わず微笑みが浮かんだ。

「さっきは驚かせてずみません。僕はハジメといいまず」

 ハジメははっきりゆっくり話すよう心掛けた。

「わたし……北見……です」

「お姉さんから聞いたんでずが、北見さんは離れで生活してるんでずか?」

 北見は頷いた。

「生まれたときからずっと?」

 北見は首を振った。

「子ど、もの頃、囲炉裏に落ち、て……火傷しそうに、なって……。それから、です……」

「……外には出ないんでずか?」

 北見は頷いた。

「出たいとは思わないんでずか?」

 しばしを置いて、

「おね……ちゃ……の、迷惑に、なるから……」

「……いつもなにをしてごしてるんでずか?」

「外……眺、めてます……。鳥とか、虫とか、は、わかるし……おねぇちゃん。畑、いるとわかる、から」

「…………」

「あと、最近……は、ゆきと遊んで、ます」

「それはいいでずね。僕もあの子好きでず。傍まで来て吠えるんでずよ」

 ハジメは心底嬉しそうに言った。

 一方、北見は目を丸くして「え?」というように不思議そうな顔をした。「吠えられるのが嬉しい……??」と。

「景色を眺めるのもいいでずよね。いつの間にか時間がぎてたりして。――でも本当はなにかしたいんじゃないでずか? お姉さんの力になれるようなこと」

 しばし考えるようにして、それから北見は頷いた。

「お姉さんには言ってみたんでずか?」

 北見はぶんぶんと首を振った。

「……言ったら、も……おもっと、お姉ちゃんに、迷惑、……だから……」

「……お姉さんのことが好きなんでずね」

「…………。あの……。話、って、わたし……の、こと、ですか……?」

「はい。……あ、ずけずけ訊いて、嫌だったらごめんなさい」

 北見は首を振った。

「あなたのことも訊きたかったんでずけど、もう一つあって。北見さんには僕がどう見えているのかなって」

「…………」

「あ、ひどく怯えるようなものだってことはわかるんでずが。僕、むかしから獣には避けられるんでず。山犬とか熊にまで。……その、北見さんには獣と同じものが見えているんじゃないかと思って。獣にはどう見えているのか、なんて訊けないので」

「……あな、たは、……生き、ものじゃないみたい……。人の形をしている、のに、人とも、動物とも違う……。なんなのかわから、なくて……わからないから、恐い……です……」

「…………」

「あ、の、ごめ、なさい……」

「えっ、謝ることないでずよ。聞けてよかったでず。……僕、赤ん坊のときに『鬼』の骨に抱かれているところを拾われたそうなんでず」

「…………」

「僕を育ててくれたじいちゃん先生が言ってました。だから自分が人間じゃないとしても納得というか。――それに僕、一度死んでるんでずよ」

 北見は驚いた表情をした。

「それは人から聞いたとかじゃなくて間違いないことなので、その日から自分が人間だ、なんて思ったことないんでず。『鬼』に食べられて蘇った人なんて、「人」じゃない……「化け物」だって」

「っ……化け、物じゃ、ないです! あなたがなんなのかは……わかっ、らないけど……っ。でも、化け物、では、ないです。ハジメさん、は……「優しい人」っ……です……。わたしのこと、待ってくれ、たし……、話すのも、合わ、せてくれるし……」

「……ありがとう」

 ハジメは、花が開いた瞬間のように笑った。

「あの北見さん、文字の読み書きはできまずか?」

 北見は首を振り、曇った顔で俯いた。そんなことできるはずがないと。

「手、出してください」

「?……」

 北見は両手を差し出した。

 ハジメはその片方の手を取り、掌に指で横線を書いた。

「?」

「これも文字なんでずよ。簡単でしょ? 数字の一。それで僕の名前でず」

「…………」

「こうして掌に書いたら、北見さんも文字が覚えられるでしょう? お姉さんが読み書きできるなら、教えてもらうのはどうでしょう」

 北見はハジメの顔に目を向けた。

「文字じゃなくても、やり方を考えたら北見さんにもできることありまずよ。迷惑かけたくないって言ってましたけど、北見さんが本気で頼めばあのお姉さんはきっと聞いてくれると思いまずよ」

 ハジメはちらと部屋の隅にある綿入りの布団に目を向けた。母屋には筵しかなかったのに、“ただ飯食らい”の部屋には御高い寝具とは。ハジメの口元に笑みが浮かぶ。

「北見さんのことが心配で、過保護になっているだけだと思うので」

「…………もう少し……文字、教えて、くれますか……?」

「いいでずよ」

 ハジメは再び北見の手を取り、平仮名で「き・た・み」と、一文字ずつ書いては読み上げていった。

 自分の名前の文字を初めて知った北見は、なんとも嬉しそうな笑みを咲かせたのだった。


     4


 翌朝。

「ハジメ少年が朝帰りした……」

 蒼い旗の顔があった。

「離れに女の子と二人っきりで、一晩。「少年」やなくなってしもたん? 「男」になってしもたん!? ああっ、先生になんて説明したら……っ」

「なにもしてませんから! 可笑しなこと言わないでください!」

「もう「ハジメ少年」とは呼ばれへん……「ハジメさん」? 「ハジメくん」? 「ハジメの旦那」?」

「旗さん~~っ」ハジメは旗の両口端を引っ張り、もみくちゃにする。

 否定はしたし、旗もまるっきり思い込んではいないはずだが、成人しても一貫して「ハジメ少年」と呼んでいたのが「ハジメくん」とも呼ぶようになったのは、この日からだった。

 そんなやりとりもあったが、一行は予定通り北見たちの家を発つ。

「ハジ……メさん」

 歩き出していたハジメは振り向いた。北見が姉と雪と、離れを出て見送っていた。

「また、会え……ますか……?」

 ハジメは北見の傍に歩み寄り、耳元で告げた。

「きっとまた」

 北見の顔を見ると、はにかみを向けていた。

 ハジメも微笑みを浮かべると、また一行の方へと戻っていった。

 ハジメは一度も振り返らなかった。

 自分の胸になにかが芽生えそうになっているのを感じていた。

 それに名前を与えたら、一気に芽生えてしまいそうで、名前もわからない種のまま、地中深くに押し込んだ。たとえ芽が出ても、地表には出られないほど深くに。

 自分には先生や平野ひらのという人ができた。

 これ以上を望むのは贅沢だ。

 これ以上は、望まない……。

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