六 色づく楓(三)

     4


「これから山へ散策に行きまずよー」

 庭先から、子どもたちを呼び集めるハジメの声が、縁側で柱に身を預けるツギと、敷居の向こうで横になっている広岡ひろおかの耳に届いた。

「…………あの子はよくやってくれてるねぇ……。旗も」

「人がいいのさ」

 二人は互いを見ることなく、ほつほつと、声に声を返していく。

「……おまえさんも、なんかしてくれってんじゃないが、日がな一日こんなところにいないで、なにかしたらどうだい?」

「あんたの話し相手をしてるだろ」

「大して話しゃしないのに、よく言ったもんだね」

「そりゃあんたが話さないからだ」

 自分からは話を振る気がないと言うツギに、広岡はふっと笑った。

「……ハジメあの子はよくやってくれるけど、このまま留まってはくれないんだろうね」

「……どうしてそう思う?」ツギは「まだ諦めてなかったのか」とは言わずにそう言った。

「こないだ本人に聞いたんだよ。旅の理由をね」

 広岡は瞑目し、数日前、ハジメが言った言葉を思い出す。

 このときのハジメは、清水に言ったのとは違う言葉を返していた。

 ――「一緒にいたい人たちがいるんでず」

 広岡は瞼を開け、言葉を継いだ。

「あれは人がいいくせに、情には流されてくれないだろうと思ってね」

「違いない」

 声が途切れ、会話が終わったかに思われたが、少しして広岡がまた話し出した。

「おまえさんはどうして旅をしてるんだい?」

「ハジメ殿と、その先生に頼まれたからだな」

「へぇ。あんたは頼みごとをされてもきかないもんだと思ってたよ」

「そのときは偶々そういう気分だっただけだ」

「じゃあ、偶々そういう気分で、ここに留まっちゃくれないかい」

 ツギが視線を動かした。その目には床に流れたすすき色の髪先だけが映る。

「俺に頼むと、逆に心配事が増えると思うがね」

「そうかもしれないね」

「……どうしてここを残すことにこだわる? ガキどもが心配なら、他の寺子屋に預けることだってできるだろ」

「……そうだねぇ……」

 それからぱたりと、広岡は黙り込んだ。

 いつもなら、ツギも黙り込んで会話は終わりだ。

 しかし今回は、

「あんたはいつからここに居るんだ?」

 ツギから話を振った。ツギから話を振るのはこれが初めてだった。

「ここに来たのは子どもの頃だよ。十くらいだったね」

「じゃあ、どうしてここに残った? 寺子屋は成人したら出ていくもんなんだろう」

「ふっ、ずけずけと。年寄りに昔話を訊いて、長くなっても知らないよ」

「俺は律儀じゃないんでね。つまらなかったら眠ってるよ」

 広岡は苦笑を浮かべた。そしてほつほつと、己の過去を語り出した。

「あの頃は、若い男の先生が寺子屋の世話役をしていてね。単純な話、あたしはその先生に惚れっちまったのさ。受け入れてはもらえなかったけどね。先生の傍にいたくて、世話役として残らせてもらったんだよ」

 そこまで話すと広岡は一度言葉を切った。様子を探るとツギは眠ってはいなかったが、言葉を挟む素振りもなかったため、話を続けた。

「この辺りは紅葉こうようがきれいでね……。秋になると一面あかく染まるんだ。

 先生の亡骸も、一等きれいな楓の根元に埋葬したよ。先生の気に入りの樹で――あたしも好きな樹さ。

 …………死ぬなら、紅葉の季節がよかったねぇ……。

 紅い絨毯に埋もれて、紅い梢の天井を見上げながら、眠りたかったねぇ……」

「……ここにこだわるのは、惚れた男との思い出のためか。自分のためか」

「……そうだね。自分のためだ」

 そのとき、するりと衣擦れの音がして、覆い被さるように、広岡の顔をツギが覗き込んでいた。

 黄金色の瞳と、蜂蜜色の瞳が交差する。

「あんたは、海のような男だねぇ。一見、眩しいほどに青く力強い真夏の海のようで、その実、凪いだ冬の海のようだ。凍てついて、波の音も聞こえやしない」

 そのとき、ツギの脳裏で波の音が鳴った。

 置き去りにしてきたはずの記憶。

 波音のする中で、床に臥せり、微笑んでいたのは――。

「俺はな」

 己の声で思考だけは強引に引き戻した。そしてツギは続ける。

「――人のためってのが嫌いなんだよ」

 言外に「おまえのためになにかするつもりはない」と、そう言ったツギの瞳は、まだ過去を見つめ。表情は凪いだ冬の海のように、凍てついていた。


     5


 ハジメ一行が広岡の寺子屋に来てから、一月が経とうとしている。

 今日も山で畑でと授業三昧で、寺子屋に帰るなり、子どもたちは泥のように眠りに落ちた。

 ハジメと旗も、暑い中歩き回り、子どもたちの傍でうとうとしていた。

 半刻はんときほどが経っただろうか。すっかり日が暮れて、室内までも茜色に染まっている。

 ハジメはゆっくりと瞼を開け、天井を見た。

 いつもハジメに付いて回っている真っ黒な蜻蛉とんぼが一匹、くるくると旋回していた。

(一匹だけ……)

 もう二匹は何処へ行ったのか……。

 はっと目が覚めたようにハジメは飛び起きた。

 太刀を手に外へ出ると、紅葉色の蝶が横切った。

 隣の部屋から紅葉色の蝶が湧き立ち、そこに広岡も立っていた。

「広岡さ……」

「来たね」

 それは、真っ直ぐ前方に――

 樹々の間を縫って現れた『鬼』に、向けられていた。

「ハジメ」

『鬼』に視線を向けていたハジメはすぐに、呼んだ広岡へ視線を戻した。

「子どもたちのこと、ありがとうね。あんたならいいようにしてくれるって信じてるよ」

「――――」

「あたしが仕留めきれなかったときは、悪いけど始末を頼むよ」

「っ――そんな、僕が――」

「あたしは十分生きたよ。それに、あんたたちのお蔭で心残りもなくなった。強いて言うならってのがあったけど……――夕焼けの中ってのも悪くない」

「っ……、……っ」

 ハジメは伸ばしかけた手を、声を、ぐっと押し留めた。

 そんなハジメに、広岡はふっと苦笑を向けた。

「あんたも聞いたかわからないけどね、あたしは生き返る前、声を聞いた。“死して生を得よ”」

 思い出した。ハジメも数年前、確かに聞いた、契りの言葉。

「あたしはあれを、「己は死んで、子どもたちの生を得よ」って意味だと思ったよ」

 それは、広岡の生き様そのもののように思えた。

 広岡は数歩、前に進み出た。

 片膝をつき、肩に銃を担ぎ構える。

 紅葉色の蝶が左右に分かれ、『鬼』の全容が露わになる。鹿のように枝分かれした角の、大きいがすらりとした『鬼』だった。

 広岡はしっかりと引き付け、落ち着いて、一切の震えなく発した。

【穿ち散らせ、『紅破こうは』】

 それは、死に際だからこそわかる、武具の名であったか。

 同時。部屋に置かれた狐の面がパキリと、人知れず割れた。

 そして、力強い一声とともに放たれた銃弾は狂いなく『鬼』の胸を穿ち、開いた小さな穴から赤黒い体液が花のように噴き出した。

『鬼』はゆっくりとくずおれ、樹々を道ずれに倒れていく。

 広岡も、背中から地に倒れた。

 これが、広岡の最期だった。


     6


 翌日。日が昇ってから広岡を埋葬した。

 広岡が特に気に入っていたという楓の根元にハジメとツギで穴を掘って、その中に広岡を横たえて。広岡がいつも羽織っていた楓の葉柄の着物を掛けたあと、みなで土を被せた。

 穴を掘っている間、めぐは竹内たけうちにしがみついて泣き続け、竹内はやっと泣き止んだような顔をして、中村なかむらはぐっと唇を噛みながらも大粒の涙を零して、あずまは伏し目がちに佇んでいた。

 土を被せ終わり、みなで黙祷を捧げた。

 と、子どもたちを後ろからそっと労わっていた旗がわんわん泣き出し、自分より狼狽えている大人を見て、子どもたちはすっかり涙が引っ込んだ。

 旗を連れて子どもたちは寺子屋へ帰っていく。

 楓の下にはハジメとツギが残った。

 ツギはまだ青々とした葉をつけた楓を見つめた。

 ――「…………死ぬなら、紅葉の季節がよかったねぇ……。

 紅い絨毯に埋もれて、紅い梢の天井を見上げながら、眠りたかったねぇ……」

 楓から目を外し、踵を返そうとしたときだった。

「……紅葉してるみたいだ……」

 楓を見つめるハジメがそう呟いた。

 ツギも再び楓へ視線を向けた。

「……この樹は、色づいてるか?」

「はい。あか色に、きれいに」

「……そうか」

 二人の見つめる楓の樹は、紅葉色の蝶が集って、紅く、色づいていた。


     7


 数日後。

 寺子屋を後にした一行は、西に向かおうとしていた。

 というのも、島で過ごした日のこと。酒飲み勝負が始まると、下戸の清水しみずは旗の介抱をしていたハジメの元に避難してきた。

 そのとき、特に行く方向は決めていないと言ったハジメに清水は、

「なら西に行くといい」

「どうしてでずか?」

「本土の者から「西へは行くな」と聞いたことがある。人が避ける所には大抵『鬼』がいるものだろう? 『鬼』を求めるなら逆へ行けばいいかと思ってな」

 更に、二人で話したときに広岡も、

「“汝、鬼なら西へけ。汝、人なら東へ行け。”ってのを、昔からよく言ったもんだよ」

 と。二人の人間が「西には『鬼』がいる」ことを示唆する話をしていたのだ。

 いつも『鬼』の情報があるでなし、取り敢えず西を目指そうというのは一行の間で決めていたことだった。

「行きましょう」

 ハジメの声でみなが歩を進めたそのとき、

「待て」

 上方から声がした。

 ハジメが振り仰ぐと、そこには斑模様の髪の少年と、少女が立っていた。

 少年は言葉を紡ぐ。

「西へは行くな」

 少年は手に漆黒の薙刀を持ち、その先端には一頭の紋黄揚羽もんきあげはが止まっている。

 ハジメとオワリの視線が交錯する。


 歴史は今、変革を迎える。

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