三 鬼穴島(三)
4
日が暮れ落ちる前の集会所。長机には隙間なく料理が置かれ、醤油と酒の匂い、そしてがやがやとした話し声が辺りを満たしている。
ハジメ一行、
「潮が引き切る前に穴のところに集まって、一番視力のいいあいつが――」近江は数人挟んだところに座っている少年を指差した。「対岸の様子を確認して、『鬼』がいたら誘導役とその他に分かれて待機する。誘導役は他と比べてとびきり危険なわけだけど、穴まで真っ直ぐ来ない『鬼』がいないとも限らないから、どうしても必要なんだよね」
ハジメ、ツギ、旗の三人は、近江から島で取っている『鬼』の対処法を聞かされていた。
というのも、墓標の前で和解したすぐあと、清水から発つのは明日の朝、自分たちが『鬼』と戦う姿を見てからにしないかと言われたところから始まる。
そもそも清水がハジメたちを島に留まらせた理由が、軽薄な英雄志望者に自分たちが戦う姿を見せ、おまえなど必要ないということを思い知らせるためだった。
しかし、そうする前に誤解が解けたため、舟を出して帰らせることもできたのだが、当初とは異なる理由でハジメに戦う姿を見せたいと思ったのだ。おまえがいなくても“大丈夫”だ、と、伝えたいという理由で。
その思いをハジメも受け入れた。
近江は清水になにか考えがあるのだろうと察し、探りを入れるつもりで近づいてきたのだったと言うが、誤解が解けたことがわかった今は、こうして清水の代わりに説明をしてくれている、というわけだ。
「この役、今は
「河井さんが?」
「誘導役は足が速くて身軽でびびりじゃないやつがやるんだけど、今の面子だと河井が一番適任なんだよね。ほんとは男がやった方が『鬼』の食い付きがいいんだけど、身軽なのがね……。網の上を走らないといけないからさ。穴の上に網が張ってあったの見た? 誘導役はあれの上を突っ切って『鬼』が穴に落ちるよう仕向けるわけ。“通れる場所だ”って、思い込ませる寸法ね」
「人は通れるけど、『鬼』は重いから網が破れて落ちる……ってことでずか?」
「ふふん。ちょっと違うんだなこれが。あの網、編み方が変わっててさ。破れずに穴が広がるようにできてるんだ。縄の上を通れる人間は落ちないけど、『鬼』は――足のちっさいやつでもない限り、どうしても穴の開いたところを踏んじゃうからね。穴が広がって落ちるんだよ。しかも、重ければ重いやつほど一気に落ちる」
「はー……すごいでずね」
「あの網ができてからは死傷者の数がぐっと減ったんだ。もう婆様々」
「婆?」
「清水のばあちゃん。あそこに座ってる。網の編み方を考えたの、お婆なんだ」
「えっ」
ハジメは上座で飯を黙々と食べている婆を振り返った。
「あんなだけど実はすごいばあさんなんだぜ」
「おい。
「褒めてんだって。それに気にする仲じゃないだろ」
「はいはい、近江さん!」と、旗が手を挙げた。「そんなすごい網があるんやったら、誘導役以外の人はおらんでもええんとちゃいますか?」
「そうでもないんだよ。『鬼』が標準一体だけで、誘導が上手くいけばいいんだけどさ。そう都合よくはね。誘導役が途中で捕まっちゃったり、穴のとこまで来ても『鬼』との距離が近すぎると一緒に落ちたり。二体以上立て続けに来られたら網を戻す時間がないこともあるし、そうなると二体目以降は誘導役だけだと難しいんだよ。あと『小鬼』が出ることもあるしね」
『小鬼』とは言葉通り「小さな『鬼』」の総称だ。猫や人の子どもほどの大きさしかない『鬼』をそう呼ぶ。
標準的な『鬼』のように人ひとりを易々と食べることはないが、腕や脚を喰い千切っていく。
「『小鬼』だと誘導できても穴に落ちないやつがいてさ。こっちで叩き落したり、水掛けたり……まあ、「その他」もちゃんと役割があるってわけ」
「なるほどー。複数人で対処することでみんなの生存率が上がるわけですね」
「そゆこと。――て、説明はしたけど、俺どうせならハジメくんが『鬼』を倒すところ見たいんだけど」
近江は清水に向けて言った。
「ダメだ」
清水の返しに近江は肩を竦め、わかったよと。
「じゃあ
「もちろん、ええですよ」
近江と旗が席を立つと、清水まで席を立ち後に続いた。実は清水もハジメの話に興味津々だったのである。
旗の語りが始まるとみな会話を止め、聴き入りだした。
当のハジメは堪ったものではなく、一人背を向け箸を咥えている。誰も自分の存在に気づきませんようにといった様子だ。
こうしてみなに背を向けて座ると、目に入るのは締めの茶漬けを啜っていた婆だ。
みなが旗の語りに意識を傾けている状況でも、自分の調子を崩していなかった。そんなのは婆の他に、一人で大皿を空ける勢いで食事を続けているツギだけである。と、ツギのことは一先ず置いておこう。
このおばあさん、ほんとになにも話さないなぁ、とハジメが視線を向けていると、
「『鬼』が日ノ本に初めて現れたとされる日――」
唐突に婆は口を開いた。
「我らの先祖がいた町は、逃げた者の不始末か、倒壊した家屋からか、火の手が上がった。火は瞬く間に燃え広がり、『鬼』のいる町には逃げ場などなく、先祖は町を出るしかなかった。のちに軍が参ったというが、そのときには町は一面の炭と化し、人っ子一人生きた者はいなかったという。
先祖は新たな居住地を求めて彷徨う中、『鬼』に追われた。そのとき本土とこの島を結ぶ
『鬼』の断末魔と赤き煙に、散り散りに逃げていた仲間も島に集まった。すると彼の道は海に閉ざされ、これは天の導きに違いないと思った先祖たちは、この島に定住することを決めた。
以来、我らは千年近い時をこの島で生きてきたのじゃ」
炭になった町と聞いて、ハジメは【人殺し】の屋敷があったあの
時が止まったようなあの町を。
気づくと、
「島に、『鬼』を憎む人はいないんでずか?」
と、そんな言葉が口を付いていた。
出してしまってから、この婆が返事をすることはまずないだろうと思った。
しかし。
「『鬼』も食わねば生きていけぬ。しかし我らもただでは食われぬ。食われてなるものかと抗い、多くの種を残そうと足搔く。これは自然の摂理よ」
返答をした婆に、ハジメはもう一つ質問を投げ掛けた。
「……おばあさんは、『鬼』をなんだと思いまずか?」
婆は答えた。
「生きているもの」
その短い言葉に、ハジメの内で一つと言えぬなにかが湧き上がった。
そのとき、
「わーっ!? 旗振が倒れたーっ」
後方から近江の声が上がった。
どうも島民に勧められて旗が酒を飲んだらしい。旗は
ハジメは対処に向かうため立ち上がる。
そして、婆に向かって短く深く、頭を下げてから、席を離れた。
すっかり日も暮れ落ち、空には星が煌めく刻。
集会所では酔いつぶれ帰り損ねた者が数人、寝息を立てて転がっている。
旗が倒れたあと、宴会では酒飲み勝負が始まり、つぶれる者が続出したのだった。
因みに勝負は清水の父とツギの一騎打ちに
まだ酒のにおいが残る中、ハジメ、ツギ、旗も、借り物の
旗は荷を抱き込んでむにゃむにゃ言いながら眠り、ツギは寝息もわからないほど静かに肩を上下させている。
そんな二人の間で、ハジメは天井を見上げていた。
先の婆の言葉が思い浮かぶ。
なにを思ったろうか。ハジメはゆっくりと、瞼を閉じた。
誰も気づいていなかった。
夜の闇の中、対岸に島を見つめて佇むものが居ることに。
それはまだ見ぬ獲物を想うかのように、牙の並ぶ口を開いた。
5
「対岸に『鬼』を確認。標準一体」
見張り役の少年が樹の上から清水に報告した。
受けた清水は軽く頷くと、
「まもなく道が開く。全員持ち場に就け!」
近くで待機していた面々が方々へ散る。
誘導役の河井は一人道の口へ走り、他の者は穴を挟んだ反対側、黒松林の陰に潜み、事を待つ。
ハジメ、ツギ、旗の三名も、その後ろで事の成り行きを見守る。
周囲はしんと静まり返り、囁き声の一つも聞こえなくなった。
彼の道が開き、じわじわと『鬼』が近づいてくる気配をハジメは感じ取っていた。
同じく、いや、それ以上に『鬼』の気配を感じているのは河井だろう。
対岸から『鬼』の姿が徐々に大きくなっていくのを、目視しているのだから。
「…………」
いつでも走り出せるよう、河井は半身になり、肩越しに『鬼』の様子を窺った。
「…………?」
その姿に違和感を覚えた。
距離が縮まり、はっきりするはずの輪郭がぼやけたような……。
目を
「っ……!」
その正体を悟った。
そして声をあらん限りに張り上げた。
「『小鬼』よ! 『小鬼』多数確認!」
その声が届いた瞬間、清水は声を上げた。
「見張り!」
見張りの少年は即座に樹に登り、彼の道に目を凝らす。
「お、『鬼』の背にうじゃうじゃくっついてます!」
「っ」
清水は歯噛みした。
相手が『小鬼』だけであればすぐにでも駆け出し、島に上がる前に対処してしまった方がいい。しかし、今回は『鬼』がいる。
まず『鬼』を落とさなければ。それまでは、動くわけにはいかなかった。
しかし、そうすると河井の身は……。
河井の声が上がってから数秒後。走る河井の姿が現れた。
そして――
河井に迫る『鬼』が姿を現したのはあっという間だった。
白浜のような色の――どこか昨日の『鬼』に似た――『鬼』に、背や周りに似た色の『小鬼』が群れている。
『鬼』の背を離れ、『小鬼』が散りだした。
それでも島民たちは動かなかった。
「…………」
しかし一人、ハジメが動いた。
「ハジメ少年?」
小声で旗が呼びかけたが、ハジメは振り返りもせず、林の中を通って穴の横に回り込んでいった。
その間にも、河井は役目を果たすため走り続けていた。
誘導役をするだけあって河井の足は速く、『鬼』に捕まることなく穴の上まで来た。
――あと少し。
――あと少し。
――あと少し!
思ったそのとき、何者かに足を引っ張られた。
見ると、にたりと笑う『小鬼』が、足首を摑んでいた。
「――――」
河井の顔に絶望が走った。
気づいたときにはもう、『鬼』が穴に足を踏み入れたあとだった。
島民たちの顔が絶望に染まった。仲間を助けようと駆け出そうとした者もいた。
しかし、もう遅い。
『鬼』の爪が、河井の背を引っ掛け――
河井は『鬼』とともに落下を始めた。
そのほんの一瞬前、
ハジメは飛び出していた。
穴に飛び込んだハジメは河井を抱き、『鬼』を足場に跳び上がった。ひらりと穴の縁に着地する。
瞬く間の救出劇だった。
助けられた河井は放心している。着物の背が大きく破れているが、怪我はないようだ。足を摑んでいた『小鬼』も落下時に離れたらしい。
ハジメがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
落水した『鬼』の絶叫が耳を
それを合図とするように、静止していた島民たちの思考が動き出した。
仲間は助かった。『鬼』は落とした。あとは『小鬼』を一匹残らず倒す。
島民たちの動きは早かった。散った『小鬼』の対処にかかる。
と、河井の元に清水が駆け寄ってきた。
「河井、立てるか」
「…………」河井はまだ言葉が出ないようだったが、清水の顔を見て頷いた。
清水は河井に腕を回し立たせながら、ハジメを振り向いた。
「もう行け。道が沈むぞ」
まだ『小鬼』の残る状況、迷いを見せたハジメに清水は力強く、
「行け」
今度こそ、ハジメは迷いなく頷いた。
踵を返したそのとき、
「ありがとう」
清水の声だった。
その短く足らない言葉は、河井を――仲間を助けたことへの礼であろう。
ハジメは一瞬足を止めたが、振り返らず、また走り出した。
道の口で、先回りしていたツギと旗が待っていた。
今はそのように見えないが、ゆっくりしていては渡る途中で道は海に沈んでしまう。
ツギを先頭に旗、ハジメと続き、一行は対岸へと急ぐ。
道を少し行ったところで島から声が上がった。
きんきんとした女の子の声で、「結婚してくださいっ!!」と聞こえた。
返事の声は聞こえなかったが、まもなく、湧き上がるような祝福の声が届いた。
しばし足を止めていたハジメは、ふっと口元に笑みを浮かべると、また対岸へと向かいだした。
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