二 鬼穴島(二)

     3


 澄んだ海に小麦色の脚が膝下まで浸かっている。その傍に魚が一匹。

 ばしゃりと、魚を上空から手が襲った。

「ぅわっとっと……!」

 海から引き上げられた魚は激しく悶え、自らを抑え込もうとする手から逃れた。

「ああ~……」

 魚に逃げられたのはふんどしと上衣だけになったハジメだった。

「あはは、ハジメくん下手だなぁ。尻尾と顎の辺りを持つようにするんだよ」

 近くで見ていた近江おうみが言った。

「や、やってみまず」

 ハジメが再び海に目をやると、同じように海を覗いていた旗が声を上げる。

「近江さん近江さん! この毬栗いがぐりみたいなもんなんですか!?」

「ああ、それ海栗うにだよ。ごめん、注意するの忘れてた。食べられるけど素手で触らないでね。毒のあるやつもいるから。――はいっ。火箸貸したげるからこれで採りなー」

「そしたら近江さんの分の火箸がなくなりますよ?」

「大丈夫。俺は素手で採るから」

「どぉいうこってすの」

 そのとき、海面が盛り上がり、長身の男が現れた。ツギである。

 ツギは褌一丁で、手にはもりを持ち、その銛には立派な魚が二匹刺さっていた。

 ツギが獲ってきた得物だけで今夜は豪勢にやれそうである。

「きゃーツギさん男前っ」

 その姿に旗が黄色い声を飛ばした。

 そんなハジメたちの姿を物陰から覗いている者がいた。

 その気配に逸早く気づいたのは近江だった。

「そんなところでなにしてるんだ、河井かわいー」

 近江の声でハジメたちも振り向くと、気づかれるとは思ってもいなかったのか、その者は慌てた様子でまろび出てきた。

 出てきたのは穴のところで清水しみずに耳打ちしていた少女だった。

「なっ、なにしてるんだじゃないわよ。あんたこそ、そんな人たちの世話焼いて……清水が食事は自分たちでさせるように言ってたのに……っ」

 少女はきんきんした声で捲し立てた。

 そういえば女の子にはこういう声の子がいたものだと、ハジメは思い出した。そしてこの人は集会所の前で話しているときからこちらの様子を窺っていたのか、と。ひょっとして初めからか?

 一方、近江はまったく取り合う様子がなく、

「紹介するね。あれ河井。言ってることは気にしなくていいよ。清水にほの字なんだ」

「なっ! なんてこと言ってんのよ!? 違うから違うから! 違うったら違うから!!」

 違うと言いながら河井の顔は真っ赤に染まっている。

「ごまかさなくていいって。当の清水以外、みーーんな知ってることなんだから」

「みんな? みんなってみんな!? なんでみんなが知ってるのよ!? みちるがしゃべったの!?」

「聞かなくても見てりゃわかるって。おまえ幸せ者よ? いい歳なのに清水に嫁の話がないの、おじさんとおばさんも含めて、みんながおまえのこと応援してるからなんだぜ」

「はぁ~~~~あっ!?」

 少女は全身茹で上がって、ハジメたちのことなど頭から吹っ飛んでいる様子だ。

 近江も河井の相手でこちらにまで気が向いていない。

 その間にハジメはツギと旗を手招いて、二人にだけ聞こえるよう、ずっと気にかかっていたことを口にした。

「あの清水という人、おかしいと思いませんか?」

「どこがです?」

「歓迎してない奴をその必要がないのに泊めると言ったことか?」

「そうでず」

「え、歓迎してない奴って、もしかしてわたしたちのことですか? それに必要がないって?」

「僕たちが島に着いたとき、潮は満ち始めたばかりでまだ引き返すことができたはずでず。僕たちは『鬼』じゃないから多少濡れたところで問題ありません。それに海の道を渡れないとしても、島には舟がありまず」

「ああ、確かに。舟を出してくれたら済んだ話ですね」

「舟で追い返しゃ、潮が満ちて道は渡れず、舟も持ってない俺たちを、少なくとも一日は締め出せたはずだな」

「そうなんでず。他所に行けと言ったのに、あの人の行動は矛盾しているんでず。気になるので僕、様子を窺いに行こうと思うんでずけど、行って大丈夫でずか?」

「おう、行ってこい。こっちのことは任せとけ」

「はい!」

 言うとハジメはその場を後にした。

 残された旗はツギに疑問を投げかける。

「ツギさん、こっちのことって、食材の話ですか? なんや違うように思ったんですけど」

「……いや、飯の話だ」

 ツギは嘘を吐いた。

 ハジメは清水以外――近江のこともなにか裏があると疑っていた。近江は清水と親しい間柄である様子だった。ハジメたちに好意的であるのは、清水の意思を汲んでこちらからなにか引き出す、もしくは仕掛けようとしているのではと考えられた。ツギはそのことも察し、こっちのことは任せろと言ったのだ。仲間である旗に嘘を吐いたのは、その方がことが上手く運ぶと踏んだからだ。旗になにも知らぬ演技ができるとは思えない。

 旗はどうも腑に落ちないようだったが、とうとう河井が怒って行ってしまった――逃亡ともいう――ため、近江がこちらに振り向いた。

「あれ、ハジメくんは?」

「村を見て回りたいとさ」

「えー、言ってくれたら案内したのに」

「あんたにはもう少しこっちを手伝ってもらいたいんでな。それに、ハジメの話ならそこの旗振はたふりがたっぷりしてくれるぜ」

「え、わたしですか……?」

 旗振は自分を指し、きょとんとした顔で言った。


 陸に上がり、袴を穿いたハジメはさっそく清水を捜した。

 広い島であったが集会所まで案内された道を辿って行くと、清水はあっさりと見つかった。

 物陰に身を潜め、様子を窺う。

 しばらく観察したところ、そんな気はしていたが、清水は島民の間では中心的存在らしい。時折「若」と呼ばれていたことや、家と集会所が繋がっていることから察するに、島を治めている者の息子かなにかなのだろう。

 見廻りをするように歩いて回り、島民に声を掛けたり、掛けられたりしていた。

 ハジメたちに向けていた切っ先で刺すような眼ではなく、優しく丸い眼であったが、涼しい顔を崩さないのは島民たちに対しても同じであった。表情が乏しい質なのだろう。

 これといって怪しいところは見受けられなかった。

 ハジメたちのいない内になにか動きを見せるのではと思っていたのだが、自らはハジメたちのことを口にすらしなかった。島民に「誰か来ているのか」と尋ねられて「そうだ」と返すだけだった。

 これでは清水の日常を覗き見しているだけである。

 清水の言動の矛盾はなんだったのか。

 自分の考え過ぎだったのか。

 ハジメが悩み始めた頃、清水は人気のない方へ向かいだした。

 せみが鳴き交わす林の細道を進んで行く。

 覚られぬよう、ハジメは距離を開けて後をつけた。

 海が臨める島の縁までやって来た。

 そこには人の頭二つ分ほどの、大きな石があるだけだ。

 ハジメは樹の陰に身を隠し、清水はその石に歩み寄った。

 石の前に佇み、黙す清水の背に、ハジメはその石がなにであるかわかったように思えた。

「――居るのはわかっている。出て来い」やにわに清水が振り向き、ハジメは慌てて顔を引っ込めた。

 引っ込めたが、まもなく、ハジメは素直に姿を現した。

 鎌掛けの可能性もあったが、清水に驚いた様子がないため本当に気づかれていたようだ。

「……来い」

 これまたハジメは素直に従い、清水の半歩後ろまで歩み寄った。

 ハジメが立ち止まると清水は石に視線を落とし、言葉を継いだ。

「これは島民の墓標だ。ここには近江の家族も祭られている」

「…………」

「近江の両親は『鬼』との戦いの最中さなか、命を落とした。同じように、『鬼』との戦いで命を落とした島民が大勢祭られている」

 清水が振り向き、

「おまえはどうなんだ」

「っ?」

「おまえは本物の〈『鬼』を斬る少年〉なんだろう。容易く『鬼』を斬れるおまえはどんな気持ちで『鬼』退治だなんて言っている?

 俺たちは――島の仲間たちは恐怖を抱きながらも仲間のために、懸命に『鬼』と戦って生きている。

 島民を見てどう思った? おまえを――助けを待っていた者が一人でもいるよう見えたか? なにかにすがらなければ生きられないほど弱い者が、一人でもいるように見えたか?

 おまえはまだ、『鬼』退治だなんて言えるのか?」

 清水の顔から涼しさは消え、腹の底から煮えているような熱さがそこにあった。侮辱に煮えくり返っている顔だ。それも、これは自分ではなく大切なものを侮辱されたがための怒り。

 清水は初めて会ったとき既に、ハジメが本物の〈『鬼』を斬る少年〉だと確信していた。確信していたからこそ、ハジメたちを歓迎しなかった。

 清水たちはあくまで、『鬼』の被食者だ。

 しかしハジメ――〈『鬼』を斬る少年〉は『鬼』を凌駕する。『鬼』の天敵と云ってもいい存在だ。

 そんな者がわざわざ『鬼』を退治して旅をしていると言う。

 自分にとって容易いことを必死にもがいてやっている者たちを嘲笑っている、そんな風に清水は受け取ったのだ。

 ハジメは清水の想いを読み取った上で、慌てて取り繕うようなことはしなかった。

「……言えまず。僕は『鬼』退治をしまず」

「っ――」

「だけど、一つだけ謝りまず。僕は、僕がいなくてもこの島の人は大丈夫だろうかと心配していました。けれど島の人たちを見て、清水さんの話を聴いて、それがひどい思い上がりだったって気づきました。島の人たちは強いでず」

「…………」

「思い誤っていてごめんなさい」

 心からの言葉だった。清水の行動の矛盾に気づいていながら、ハジメが促されるままにしていたのはこの思い込み故だった。自分が居らずして人々は『鬼』を凌ぐことができるだろうかと。

 しかしそれは自らが言った通りとんだ思い上がりだった。ハジメらが島に足を踏み入れた今日この日まで、人々は営みを続けてきたのだ。ハジメなど居らずとも、強く、支え合って生きてきたのだ。それがハジメがやって来たからといって変わることはない。

「……謝って尚、旅を続けると言うのは何故だ?」

「……『鬼』退治を止めるなら……」

 風が吹いた。

 煩いほどの蝉の声が吹かれた梢の音に掻き消され、続くハジメの声はむしろよく聴こえた。

「――僕には、人を殺すか、殺されるかしか道がないからでず」

 長い沈黙が流れたように感じた。しかしそれは体感の上で、実際にはしたる時間は経っていない。

 清水が口を開いたときには、蝉の声が戻っていた。

「……どういうことか、訊いてもいいか……?」

 ハジメは瞼と首を動かし、頷くような仕草をした。

 顔を上げ、清水の目を真っ直ぐに見据えたその表情は、師である宗間が己の過去を話したときのような、意外な穏やかさを持っていた。

「清水さんは【人殺し】という集団を知っていまずか?」

「……いや」

「『鬼』の存在が許せず、人を滅ぼすことで『鬼』を飢餓に追い込み滅ぼすことを目的とした組織でず。僕が身を置いていた寺子屋にも、その【人殺し】がやって来ました」

「…………」

「その内の一人は幼い頃にも会ったことのある者で、真意はわかりませんが、相手は僕に、一日の猶予を与えると言ってきたんでず。逃げるか、迎え撃つか。逃げるのはその場凌ぎでしかありませんし、迎え撃つなら僕は「人殺し」といえど、人間を殺さなければいけません。

【人殺し】が、ただ人を殺すことを目的とした集団であれば、僕はどうしていいかわからなかったと思いまず。けど、彼らの目的は『鬼』を滅ぼすことでず。人殺しはそのための手段でしかない。

 僕には『鬼』を斬ることのできる刀があったので、交渉の余地があるんじゃないかと思ったんでず。

 それで【人殺し】の頭領と話をして、『鬼』を滅ぼす代わりに人を殺さないと約束を交わしたんでず。だから、『鬼』退治を止めたら約束を反故にしたことになって、また寺子屋や集落が襲われることになるんでずよ」

「…………その、そんな組織があるという話は信じがたいが、おまえは人質を取られて、『鬼』退治をするしかないという認識でいいか……?」

「まあ……そうでずね」

「こうしている間にも、向こうが約束を反故にしているとは考えないのか?」

「それはないと思いまず。約束を破れば僕が敵になることはわかりきっているでしょうし、彼らとしては僕が敵になるより、『鬼』を滅ぼす手段として利用した方が得でしょうから」

「……俺も謝る。おまえのことを、浮ついた気持ちで『鬼』退治をしているものだと思い込んでいた。すまない」

 頭を下げた清水に、ハジメは困ったような苦笑を向けたのだった。


「あ~ははっ。旗振あんた最高だよ」

「いや~、そない褒められたら照れますわ~、ははは」

 ハジメと清水が連れだって海岸へ戻ると、旗と近江が肩を組んで笑い合い、意気投合していた。

「ど、どういうことでずか……?」

 脇に居たツギにハジメが尋ねた。

「なにも言わず、あいつにまかせただけだ。あいつは他人の懐に入るのが上手いからな」

「はあ……」

 つまりは、相手が『鬼』でなく「人」ならば、一行の中で旗振が最強ということだろうか。

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