間幕 梅雨

入 洞穴の雨宿り

 夜の帳が下りた広い板間。灯台による僅かな灯りに二人の男の顔が照らし出されている。

 といってもどちらの顔も判然としない。一人は髪にしては長く、敷物のように広がった白い毛を被り目元が窺えない。もう一人はその傍らに立ち、「目」と書かれた布が顔の前に垂れている。こちらは顔だけでなく頭頂から爪先までを無染の着物で包み、肌が露出しているのは僅かに手先だけだ。

「目」の男が傍らの男に問いかける。

石上いしがみ様、あのような約束事をされてよろしかったのですか?」

 若い男の声だった。

 一方、問われた男は地の底から響くような年季の入った声で、問いに対し「間違いなく是である」との意を込め、指示を出した。

「……さぎを飛ばせ」

「かしこまりました」


 首に文をくくり付けられた白鷺が数羽、炭と果てた湾岸の町に浮き立つ屋敷から、明け方の空に飛び立った。

 それを山の樹々の間から黒い髪を一つに結った少年が見ていた。青の小袖に鼠色の袴。般若面と黒き毛皮を背に、腰にはかしらからこじりまで漆黒の太刀を佩いている、二匹の羽黒蜻蛉を従えた少年。

 少年はすぐに前を向き、歩きだした。


     1


 ピシャピシャピシャッ

 雨に濡れた地面を、草履を履いた足が蹴っていく。

 茂る枝葉の間を抜けて降りつける雨が頭から被った黒毛皮にはじかれ、後方に飛んでいく。けれども着物の前はぐっしょりと濡れていた。

 ハジメは一刻も早く寺子屋へ帰らねばという一心で、雨の中を休むことなく走り続けていた。

人殺ひとごろし】の頭領の元へ向かう前。ハジメは佐島さじまに集落を襲うのを止めるよう、仲間に言ってくれと頼んでいた。

 そのとき佐島はいつもの笑っているようで笑っていない表情で、「たしが帰らない限り、作戦は決行にならないから安心して」と言った。

 それが本当かどうかは半信半疑だった。しかし、ツギがみなのことを守ってくれるはずだという思いと合わさり、その場で疑いの目を向けるようなことはしなかった。

 だが、【人殺し】の頭領の部屋をあとにしたとき、もうそこに佐島の姿はなかった。

 一気にみなは無事だろうかという思いが噴き出した。

 佐島の言葉が本当だったとして、それは佐島が帰ったら作戦を行うということではないか? 【人殺し】の頭領は組員に人殺しをさせぬと約束したが、それが守られるかは別の話だ。

 もし佐島があの、【人殺し】の仲間の待つ洞窟へ戻ったのだとしたら……。

 不安が胸を掻きたて、急がずにはいられなかった。

 樹々の輪郭が捉えられないほどの速さで駆け続ける中、ハジメは視界の端になにかを捉えた。

 数歩戻って目を凝らすと、赤茶色の毛玉が灰色の岸壁に埋まっていた。『鬼』だ。

 それがなにであるかを瞬時に覚ったハジメは腰の太刀を抜いていた。

 近づいて見ればハジメの背の倍はある、毛むくじゃらの『鬼』の背。そこに漆黒の太刀が横一線、斬り込まれた。

 ハジメが後ろに跳び退すさると、切り口から赤黒い血が滝のように噴き落ちた。

 次の瞬間、

 ボァアアアアアアッ

 くぐもった『鬼』の咆哮が岸壁を震わせた。

 毛玉がうごうごと動き、身を岸壁から離した瞬間、ハジメの見舞う止めの一閃が『鬼』を斬り裂いた。

 雨に濡れた『鬼』の骸が赤い煙を上げ、形を失くしていく。

 しばしハジメはその様を見つめていた。

 と。ざりっ、と右手――岸壁の方から足音がしてぱっと振り向いた。

『鬼』が埋まっていたところに大きな穴が開いていた。『鬼』は岸壁に埋まっていたのではなく、洞穴の口にすっぽり嵌まっていたのだ。

 その洞穴の中から柔和な微笑みを浮かべた青年が顔を出した。右耳を痛そうに押さえ、左手は壁に添わせてよたよた歩いてきた。先の咆哮をもろに受けてしまったらしい。

「いや~驚いた。それは死んでいるのか?」

 青年はなんとも気が抜けるような声で尋ねた。

「ええ」

 ハジメは短く返した。

「君が?」

「ええ」

 また短く返す。ハジメは青年との距離を計っていた。

 青年は洞穴の口に立ったまま、表情を変えることなく言う。

「いや~助かったよ。そこの『鬼』がずっと出口を塞いでいたもんだから、後にも先にも行けなかったんだ」

「そうでしたか。では、僕は先を急ぐので」

 きびすを返したそのとき、がくっと膝が崩れた。

 ハジメは驚いて自身の脚を見た。ぷるぷると震えるばかりで立とうにも力が入らない。走り通した脚がここにきて限界を迎えたのだ。

 そこに青年が寄ってきて、

「大丈夫か?」

 言う声は、まるで焦った様子がなく、ハジメは脚だけでなく全身から力が抜けるような気持ちだった。

 青年は手を差し出した。

「少し雨宿りしていかないか?」


     2


 青年は青原あおばらと名乗った。

 ハジメより十年上としうえの優男で、藍で染めた着物を着ていた。

 青原はずっと柔和な表情をしていて、ハジメはそれが誰かに似ているような気がしていた。

「先を急いでいると言ったが、どこへ行くつもりだったんだ?」

「寺子屋へ帰るところだったんでず」

 青原の問いに、ハジメはいつもの「す」が濁る癖の表れた返事をした。

「寺子屋? 君は寺子屋を出る年頃かと思ったんだが」

「成人はしましたが、今も寺子屋に身を置かせてもらっているんでず」

「そうか。じゃあ、急いでいたのはどういうわけで?」

「……ちょっと……急がなければいけない用事があるんでず」

 ハジメは他に言いようを思いつかなかった。

 それに対し青原は笑い調子で「そうか」と言っただけだった。すると脇に置いていた荷をごそごそ漁り、平たい物を差し出した。

「干し芋、食べないか? なにも食べてないんだろう?」

「……いただきまず……」

 干し芋を受け取りながら、どうにもこの人と話すと気が抜けるなあとハジメは思った。特別話すのが遅いというわけでもないのにゆったりというか、間が抜けているのだ。きっと青原は独自の速度の中で生きているのだろう。

 そうこう考えているうちにも、青原は干し芋を咥え、本を読みだしていた。

 ハジメは思わず「はー」と感心の声を上げそうになった。どこかの糸目でかまびすしい行商人もよろしく、こういう人はどんなところでも笑って生きていかれるんじゃないかと、ときどき羨ましくなる。

「本、おきなんでずか?」

「ああ。僕は書物を探してあちこち旅して回ってるんだ」

「書物を?」

「この時代、知識や想いを遺すのに最も適しているのは書物だ。その場に伝える相手がいなくても、書き記しておけば、後生の誰かには伝わっていく。これだけ人との繋がりが乏しい世が続いているのに、文化が途切れず伝わっているのはそういうことなんだ。だから寺子屋では読み書きを率先して教えるし、紙も墨も、作り続けられている。

 僕はそんな書物から人の想いを感じるのが好きなんだ。人の心って本当におもしろいよ。

 本当ならすべての本を持っていたいところなんだけど、なにぶん嵩張かさばるから。この箱に入るだけって決めてるんだ」青原は傍に置いていた木箱を示した。背負って運べる小さな書棚のような物らしい。

「はー」

 ハジメは今度こそ感心の声を上げた。多くの者に出会ってきたが、これほど書物に関心を向けている者には会ったことがなかった。それに言うことも確かにと思わされる。平野がいないとき、平野が書き記していた手帳があった御蔭で随分助けられたことが思い出された。

「あ、そうだ。君の寺子屋にも書物はあるのかな? よければ読みに寄らせてくれないか?」

「えっと……」

 ハジメは答えに迷った。寺子屋――とくに教師である宗間の自室には、壁一面の書棚いっぱいに書物が詰め込まれている。宗間が断るとは思えないし、素直に教えれば、この青年は喜んで付いてくるだろう。しかし、今寺子屋に連れて行ってよいものか。

【人殺し】が待っているかもしれない寺子屋に。

 集落や寺子屋に死体が転がっていないという保障はどこにもない。

 親しい者たちが血の池に伏す、最悪の光景が脳裏をよぎり――

 じわりと、ハジメのこめかみに脂汗が滲んだ。それでも表情は変えなかった。

 ハジメは貰った干し芋に初めて口を付けた。そして噛んでもいないのに、

「この干し芋おいしいでずね!」

 と言った。迷った末に話を逸らすことにしたのだ。

「そうか? 僕は木の皮のようだと思ったが、気に入ったならたーんとお食べ」

 青原はハジメの脇にどっさり干し芋の入った包みを置いた。

「……ありがとうございまず」

 改めて噛んだ干し芋は頑固に歯を撥ね返してきて、青原の言う通り木の皮をしゃぶるのと変わりないように思えた。諦めずに噛んでいるうち、ほんのり甘味が出てくるのがなぐさみか。

「食べたら少し眠るといい。起きる頃には出立できるようになっているだろう」

 ハジメはなんとか干し芋を一つ食べきると、ひんやりとした岩壁にもたれ、毛皮を被って目を閉じた。

 体はくたくたに疲れていた。頭も、目を瞑った途端、夢との狭間にいるかのようにぼんやりとした。けれども、しばらく経っても眠れなかった。

 寺子屋や集落のみなが気がかりで、ハジメを眠らせなかった。

 ハジメは無意識に眉間に皺を寄せていた。

 すると子守唄のつもりだろうか、隣で本をめくっていた青原が歌いだした。

「遠くに見ていた山中歩く――」

 ばっと、ハジメは青原を向いた。目を大きく見開き、まるで――【人殺し】を見たかのように。

 聞き覚えのある歌だった。この数日幾度となく聞いた。佐島が――【人殺し】が歌っていた歌だ。

 ハジメが見ていることに気づき、青原は歌うのを止めた。ハジメの形相を見ても、柔和な微笑みを浮かべたままだ。

「眠れないようだったから慰みにと思ったんだが、余計なお世話だったかな?」

「その歌……」

「ん?」

「その歌、どこで……?」

「育ったところで……寺子屋じゃないけど、親のない子どもばかりのところだよ」

 ハジメは疑惑の眼を向けた。

 その眼と、先の挙動で十分だったのだろう。青原は、

「ああ、そうか――」

 と、青年がなにかを悟ったとき、ハジメもわかった。青原の表情が誰に似ているのか。

 佐島だ。

 青原の表情は佐島に似ているのだ。

 そして青原が紡ぐ。

「君は、【人殺し】に会ったことがあるんだね」


     3


 文を持たせた白鷺が屋敷を飛び立ってまもなくのこと。

 朝日が射し込み薄ぼんやりと明るんだ板間に、変わらず石上と「目」の男――右目みぎめがいた。

 頬杖をついている石上が年季の入った声で言った。

「後継ぎを決めねばならんな」

「そのような……」

 まだ早いのではないか、と、右目は言いたげだった。

「遅いくらいだ。千年生きた『羅刹らせつ』の毛を纏おうとも、この身が『羅刹』に変ずることはないのだ。それに、これからはこの首を狙う者が現れんとも限らん」

「『鬼斬り』との約束事のせいですね」

 石上は身動ぎもせず黙っている。肯定するだけのことには返事をしないのだ。

 それをわかっていて右目は言葉を続ける。

「石上様の意思を継ぎ、組員全員を抑え纏めることのできる者でなければ……。そうなると、やはり適任はだと思いますが、呼び戻されますか?」

「あれはここには戻らんよ」

「去ったのは殺しを忌避してのこと、今ならば……」

「あれは」右目の言葉を半ば遮るかに石上は言った。「解き放ったらもう戻って来ぬものだ」

 石上は微かにも表情を変えていなかったが、足元の換気窓から射し込む光が、その者の輪郭をあたたかな色に照らしていた。


 青原はハジメに、自分はもう【人殺し】ではないと語った。

 青原は【人殺し】の組員の誰かの子どもだった。誰かはわからない。物心つく前に組織内の保育所に置かれ、【人殺し】にするために育てられた。

 しかし青原は「人殺し」にはならなかった。十を過ぎても保育所で、下の面倒を見る役として身を置いていたが、「仕事」はしなかった。

 それを頭領は許した。

 頭領は青原が組織を出たいと言うのも、止めはしなかった。ただ一言、「狩る」側から「狩られる」側に立ったことを努々ゆめゆめ忘れるなと、そう言った。それは今後【人殺し】に会うようなことがあれば、かつての仲間であろうとも、情けを掛けられることはないということ。

 この話を聴いて、ハジメは青原に寺子屋のことを――そこで起こっているかもしれないことを含めて――話すことにした。【人殺し】と関わりのあった者なら、むしろ話してもよいだろうと思ったのだ。

 それに、青原の表情は佐島に似ているが、宗間にも似た、温かみも感じさせたのだ。


 動ける程度に脚が回復したハジメは、まだ雨が降っているというのに洞穴を発つことにした。

 青原は一緒には来ないと言った。ハジメはそれを責めるようなことはしなかった。

「それじゃ」ハジメが笑って言った。

「それじゃ」青原も笑顔で返した。

 来たときと同じように黒毛皮を頭から被ったハジメは、あっという間に樹々の中に消えていった。

 見送った青原は洞穴の口に佇み、空を見上げた。

「『鬼』から産まれ、厄病神と呼ばれた子が、『鬼』を屠る者となった。――最後に君は何者になるんだろうね、ハジメ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る