終幕/前

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 平野ひらのが寺子屋に帰ってきたすぐあと。

 ハジメ、宗間そうま、平野、ツギの四名は寺子屋の居間で囲炉裏を囲む。ここまで平野らを連れて来たはたは用事があるからと、しぶしぶ、なくなく不参加だ。

 ハジメがひとり立ち上がり、

「まずは平野になにか食べてもらわないと。僕支度してきまず」

「いいよ別に……」

「なに言ってるんでずか。そんな如何にも病人みたいな格好で。早く隣のお兄さんくらいにがっしりしてください」

 ハジメは平野の隣で胡坐あぐらを掻いているツギを差して言う。

 平野はいや無理だろと思ったが、言う前にハジメは台所へ行ってしまった。

 居間にはハジメを除いた三名となった。

 平野はちらと両隣を見る。

 ツギはまったく緊張している様子もなく、でんと座っているが、なにか話す訳ではない。自分から話を振る奴ではないのだ。

 反対隣りに正座している宗間はというと、異様ににこやかだ。普段の五割増しぐらいにこにこしている。平野が帰ってきたのが余程嬉しいらしい。

 そんな二人に挟まれて、平野は妙な居心地の悪さを感じていた。居ればかしましい旗だが、今は居て欲しかったと、思ってしまう。

「……俺、様子見てくる」

 平野は四つん這いでその場を逃れた。

 といっても台所とは敷居で区切られただけのすぐ隣だが。

 台所側に来た平野はふぅと胸をなでおろす。

「あれ、どうしたんでずか?」

 しかしそれも束の間。ハジメの手に握られている物を見た平野は目を見開いた。

「手伝いはいりませんよ」

 ハジメの手に握られているそれは、炊事にはあまりに不釣り合いな漆黒の太刀だった。

「お……おま……なんだそれ……?」

「刀でずよ?」

「炊事に来たのになんで刀なんか握ってんだって訊いてんだっ」

「あぁ、包丁がなくなったのでその代わりに」

 先日、ハジメと旗が川沿いの旦那の元へ向かう道中の会話。『鬼』が現れていないにも係わらず普段から太刀を使っていると言っていたのはこのことだった。

 あれだけ太刀に恐怖を示していた旗だ。常日頃馳走ちそうになっていた食事がその太刀で作られていたと知ったら、あぶくを吹いて卒倒するに違いない。

「……その刀って、『鬼』を斬った……?」

「そうでずよ」

 平野は思った。

 これから出される料理を食べるべきか否かを。


 作った味噌雑炊をハジメが複雑な表情の平野に食べさせていると、縁側から来訪者がやってきた。

「宴会しましょ、宴会」

 行商に行ったはずの旗である。なにやらつぼを抱えている。

 旗は「どうぞ」と言われるまでもなく草履ぞうりを脱いで上がってきた。

「坊が帰ってきたお祝いにええ物持ってきたんですよ」

 そう言って抱えていた壺を差し出す。

 壺の中身は酒だった。行商に行ったのではなくこれを取りに行っていたのだ。

「旗さん、お酒なんて持ってたんでずか」

「旗さんだってお酒を飲むんですよー。たしなむ程度ですけど」

「おやおやよろしいんですか? 私物でしょう?」

 宗間が尋ねる。と、旗は笑顔で返す。

「このめでたい日に飲まないなら持ち腐れるだけです」

 てなわけで、寺子屋では昼間っから宴が開かれることとなった。

 始めの一杯を手に、一斉の乾杯から始まった。

 体にさわるといけないと形式だけの平野を除き、全員が一気に飲み干す。御猪口おちょこに一杯のため量は知れている。実のところハジメはこれが人生初の酒だった。

 ハジメが初酒の味を咀嚼そしゃくしていると、斜め前の旗が御猪口を上げる。

「さーどんどんいきまひょー」

 言ったと思ったらへろへろと崩れ落ちた。御猪口一杯の酒でもう酔っぱらっていた。

「どんどんいくろー」

 仰向けになりながらまだ言っている。

 そんな旗の姿に他の者は微笑を零す。

「僕、つまみに漬物でも切ってきまずね」

 そう言ってハジメは一度席を外した。

 皿に盛った漬物を手に戻ってくると、宗間と平野は何事か話し込んでいて、旗は変わらず横になって起きているのか眠っているのか判らない、ゆるみきった顔をしている。そして何杯目かわからない酒を飲んでいるツギ。

 客人だからだろうか、ひとり輪の外にいる印象を受ける。片膝立てて瞑目めいもくしている姿に、大人の男とはこういうものかと思わされる。その奥で転がっている行商人とはえらい違いだ。実は同齢だと誰か信じるか。

 ハジメはツギに声をかけようとした。

「…………」

 一言目に詰まった。名を呼ぼうとして出てこなかったのだ。

 そこで男の名を訊いていなかったことに気づく。

 ハジメは漬物を「どうぞ」と前に出し、自身も腰を落ち着けてから尋ねた。

「あの、お兄さん、名前なんて言うんでずか?」

「ん? ああ、そういや名乗ってなかったか」

「あんた名前忘れたって言ってなかったか」

 話が聞こえたらしい。平野も話に加わった。

「え、そうなんでずか?」

「あぁ……そうだな。おまえさんハジメっていったな。そんじゃ俺はその次に『鬼』を殺す力を手にした男ってことで、ツギにするわ」

「するわってあんた」

「名前なんてどうだっていいんだよ」

 胸の奥で石ころが動いた。

 ただ名前にこだわりがないだけとも聞こえる。それも事実だ。

 しかし似た境遇を生きていたハジメは、もう一つの事実を感じとった。

 この男は名を忘れたのでなく、過去とともに置いてきたのだと。

「ふ~ん……そんなもんか」

 平野もなにか思うところあったのかもしれない。それ以上なにも言わなくなった。

 誰からともなく漬物を手に取りかじる。

 ぼりぼりぼり……

「あ、美味い」ぽそりと平野が呟いた。

「えっ本当でずか? ……平野にそう言ってもらえると嬉しいなぁ」

 ずっと平野の味を目指して料理を作ってきたハジメには、そのぽそりと呟かれた言葉が心底嬉しかった。それが顔にも表れている。

(こんな表情するようになったんだな)

 平野がハジメの顔を見てそんなことを思っていると、

「わたしにもお漬物ください~」

 寝っころがったまま手を振る旗。親しい間柄とはいえ、他人の家でここまでくつろげるものか。

 ハジメが世話を焼くまでもなく、隣に座っているツギが漬物を口に放り込んでやった。

 一つ目を食べ終えると口を開け催促さいそくしてくる。

 ツギはそこにほいほいと漬物を放り込んでいく。動物に餌をやっている気分らしい。おもしろがっている。

「旗さん。寝て食べると体に悪いですよ」

「はーい」

 言って起き上がる。行儀は悪いが聞き分けはいい旗である。

 旗が口に残っていた漬物をぼりぼり盛大な咀嚼音を立てて食している中、ハジメは二杯目の酒を御猪口に注いで飲もうとしていた。

 それを見て、ごっくんと口の中の物を胃に送りきった旗が口を開いた。

「そういえばハジメ少年も成人したんですねぇ」

「そうでずよ」

「寺子屋を出て行く歳になったんですねぇ」

 御猪口を持つ指先がわずかに動いた。

「今までは坊の帰りを待つ言うてましたけど、その坊が無事に帰って来たし、これからはどうするのかなー思いまして。ここで先生の手伝い続けるんですか? それとも独立して他所よそで薬師をするとか」

「えぇ……っと……、他所に行くのは……。集落の人たちは僕を頼って来ているわけでずし」

(あ、昔と同じ顔)

 それは寺子屋に来た日。宗間に名を尋ねられたときと同じ顔をハジメはしていた。

 これ以上踏み込まれたらどうしようという顔。

「あっそうですね。失念してました。はなから他所へ行くのは難しかったですね」

 肩を落とし旗は続ける。

「……実は前々から思ってたんですが、各地を廻って『鬼』退治なんてのもええんじゃないかと……。――だってもったいないじゃないですか。『鬼』に対抗――いや、圧倒できる力があるのにそれを振るわないなんて」

 ハジメの反応をうかがいながらも、紡ぐ言葉に熱が帯びていった。続く言葉は更に熱く。

「日ノ本の英雄にだってなれますよ」

 旗には“かっこよくてつよーい特別な存在”への憧れがあった。

 今まで話したことがなかったのは平野の事で、旗なりに気を使っていたらしい。

「旗さん酔ってまず?」

「酔ってるかもしれませんが、本心です! 無理なのはわかりましたけどね。憧れてるんです。伝説を傍で見てその語り手になるのに」

 自身が伝説になりたいわけではなかったらしい。しかし、近くに居ながらハジメにツギと、唯二“『鬼』を屠る男”誕生の決定的瞬間を逃している辺り、望み薄ではないだろうか。『鬼』との遭遇を避けているという点では幸運なのだが。

「あっ、ツギさんはどうですか? これからも旅を続けるんでしょう? ついでにどうです『鬼』退治」

 矛先が変わってハジメは内心ほっとする。

「旅は続けるぜ。『鬼』が襲ってくりゃ自分の身を守るくらいのことはする。だが、世のため人のためにどうこうしようなんて気は起きねえな」

 ツギはニタリと、しかし突き放すように笑う。

生憎あいにく、英雄だの伝説だのに興味もないんでな」

 その表情と言葉は旗の誘いにまったく否と示しているが、あくまで誘いに対しての否だ。旗自身を拒絶したわけでも、それの夢を馬鹿にしたわけでもない。

 ツギという男にもっとも不似合いな言葉は「偽善」と「偽悪」だろう。己を善く見せようとも悪く見せようとも思っていない。かといって純然たる「善」でも「悪」でもない。「善」を受ければ「善」を返し、「悪」を向けられればいとわず「悪」で返す。なにも受けていない相手にはなにもしない。

 つまり、なにも受けていない相手――見ず知らずの誰かのために、ツギが『鬼』をほふることはないのだ。

 では何故見ず知らずの行き倒れだった平野を助けたのか。それは単に、目の前の事象を処理したに過ぎなかった。ツギからすれば、だが。

「そこをなんとか。ついででええんです、ついでで」

 一度ね付けられたくらいでへこたれる旗ではなかった。

 これから恩を売って売って売りまくれば、旗のためにとツギも首を縦に振るだろう。が、望み極薄だ。

 旗がツギに拝み手で迫っているところ、宗間が口を挿む。

「旗さん無理を言ってはいけませんよ。それにツギさんがいいと言っても、行商の仕事は誰が引き継いでくれるんです?」

 続く言葉はハジメに安堵あんどをもたらした。

「旗さんにもハジメにも、いなくなられては困ります」

 ――あぁ……よかった。

 先生が必要としてくれている。

 寺子屋を出て行かなくていいんだ。

 と。

 ハジメもツギと同様、英雄だの伝説だのには全く興味がなかった。

 集落の人を放っておけないというのも嘘ではない。が、一番の理由でもない。

 一番の理由は寺子屋を離れたくなかったから。

 宗間と、平野と、一緒にいたかった。

 ふたりとともにいることが、ハジメの、絶対の望みだった。

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