十一 繰り返す光景/後

     3


 今、そば処には六人居る。中年の店主にその娘、奥の部屋で休んでいる少年と連れの少女。そしてツギと平野ひらの

 呼吸が落ち着く頃、平野に再びさじが運ばれた。わんよそわれていた常人の半分の量のかゆを食べきると、ツギにこれまでの経緯を説明され、身の上を問われる。

「名前はあるか?」

「平……野……」

「帰るところは?」

「……ない」

「行くところは?」

「ない」

「……『鬼』に遭ったことは?」

 つたなくも返答していた平野が静止する。

 六年前遭遇した黒鬼が脳裏に浮かぶ。そして、少年が喰われる姿が――

 平野はたまらず唇に力を入れた。手で口を押えたかったが動かなかった。

「吐くなよ」

 平野は制した男を見る。その語気と眼差しに、負の感情は感じない。

 ――深呼吸。

 鼻で大きく息を吸い、ゆっくり吐く。逆流する感覚が収まっていく。

宗間そうまって奴が喰われたのか」

 吐くなと言いつつ吐きそうなことを言ってくる。的の中央は外しているが、あながち間違いでもない。

 平野は宗間が死んだものと考えている。あの後、黒鬼が寺子屋に向かった可能性は少なくない。運よく『鬼』の目を掻い潜っても飢え死にか、宗間のことだ一人で生き延びているとは考えにくい。

「俺とくるか?」

 どうしてそうなる? と言いたくなる問だった。平野もキョトンとしている。

「ずっとここに居る訳にもいかないぜ」

 そう言われると行かないとは言いづらい。またツギの言うことも尤もだった。

 平野は頷くしかなかった。

「よし、もうしばらく休んだら出るぞ。ここは人が多すぎる」

 その言葉の意味が平野にはわからなかった。

「大将、米はまだあるか? あったら握り飯をいくつか包んでくれ」

「へい。かしこまりました」

 店主がおむすびを三つ握り終えた頃。日暮れには早いというのに店内が暗くなる。

 雲でも出てきたのかと、外を見た平野の表情が凍りつく。

 店の出入り口から覗く、大きな目玉が一つ。

「出るのが遅かったみたいだな」

 その縦長の瞳孔どうこうが見開き獣のような腕が店内に押し入る。

 腕はツギをさらった。


『鬼』は人の多いところにやってくる。


 平野の悲鳴を聞き、店主と娘が何事かと店の奥から出てきてしまった。『鬼』の襲撃に遭ったと理解したとき、声を上げることすらできず。そして『鬼』の手に握られている者を目にした瞬間、顔から血の気が引いた。

 平屋の屋根より身丈が高い、トラ猫を思わせる『鬼』。その手は長身であるツギの体を半分以上隠すほど大きい。

 ツギはあと何秒生きられるかという状況で異常な顔をしていた。笑っているのだ。

 恐怖など微塵みじんもないような笑顔で吠える。

「喰え!!」

 ツギの頭部が『鬼』の口に収まる。

 次の瞬間、ツギは頭と首を失くしていた。

 店主と娘からは噴き出る血は見えてもその部分は見えない。しかし平野からははっきりと、それが見えていた。

 目の前の光景と六年前の光景が交互に襲い、平野を浸食していく。

 少年は一口で『鬼』の口へ消えた。男は何口にも分けて噛み千切られる。少年が噛み砕かれる音だけが聞こえてきた。男が咀嚼される音が聞こえてくる。音が重なる。

 耳を塞ぎたい。目をらしたい、瞑りたい。だけど手が動かない、体が動かない。逸らせない……。気持ちとは裏腹にどんどん目が開く。

 また、なにもできなかった。


(また、名前を呼ぶことすらできなかった……)


 ツギは草履ぞうりと服を残して『鬼』の腹へと消えた。

『鬼』は次の獲物を物色するように店中を覗き込む。

 そして平野に目を止めた。

『鬼』にも食の好みというものがある。多くの『鬼』は油が少なく身の多いものを好む。この『鬼』も例外ではなく、ツギは最高のものといえよう。

 そんな御馳走の後だ。痩せ細り弱っている平野は明らかに見劣りする。

『鬼』は如何にも残念そうに眉間にしわを寄せた。

 そこで止めればいいものを、『鬼』は腕を伸ばした。

 瞬きもできず静止している平野の眼前に『鬼』の手が迫る。

 掴まれるかという寸前、鋭い爪を光らせる指の隙間に見えた。『鬼』の腹を破り出る、男の姿が。

 大量の赤黒い液体が店に流れ込む。

 血と胃液が混ざったそれを、平野は全身に浴びる。

 迫っていた腕がその場に落ち、赤黒い飛沫しぶきを平野に飛ばした。

 平野は呆然ぼうぜんと男の姿を見ている。

 チンピラを踏みつけるように『鬼』を踏みつけ、腰に毛皮をまとうのみの身を赤く染めて、金棒を担いでいる男。

 長身に屈強な体つき、振り向いた精悍せいかんな顔立ちは喰われた男そのままだ。ただその双眸は黄金色に光り、瞳孔は猫のように縦長い。

「吐いてないか? 平野」

 男――ツギは死す前と変わらぬ笑顔を向けた。


     4


 そば処の店主と娘は鼻が曲がりそうな異臭を放つ、『鬼』の体液を掃除している。

 主に体液をかぶった座敷の畳は張り替えるしかないだろう。

 同じく体液を全身に浴びた平野とそれから出てきたツギは、近くの清流で体を清めている。

 色を落としたツギの髪は黒から茶トラに変わっていた。人間離れしたその髪と目は、そば処を襲った『鬼』を思わせる。

 水面みなもに浮かぶ平野に、ツギは旅の理由を語る。

「二年くらい前、『鬼』を殺す男の話を聞いた。情報が正しいかは判らないが、そいつは六年前にここいらで現れたって話だ。俺はそいつを探してた」

(六年前……)

 少年が黒鬼に喰われたのも六年前だ。そして懐かしい寺子屋もここからそう遠くない。

「会って『鬼』の殺し方を訊くつもりだったが、その必要はなくなったぜ」

 ツギは『鬼』に喰われ、間違いなく死んだはずだった。しかし、『鬼』の腹を破り蘇った。淡い期待を抱くには十分だろう。

「帰る、のか?」

 平野がツギに尋ねた。やはり呂律ろれつが戻っていない。

「俺もお前と同じで帰る場所はない」

「そ、か……」

 帰ってもいいが歓迎されないなと、ツギは言った。

「その……『鬼』を殺す男は、もう探さないのか?」

「なんで訊く?」

「……他に、目的もなさそう、だから」

 平野は確かめたかった。期待が現実になるか否かを。

「顔を拝むのも悪くなさそうだ」

 二人の旅の目的に変更はなかった。

「そんじゃ、行くか」

「行くって、店に戻って、掃除の手伝い、しないのか?」平野は身を起こそうとして失敗した。

「あれをきれいにするのにどんだけ掛かると思う。それに俺は掃除ができねぇ」そんな平野を清流から引っ張り上げ、清潔な着物を押し付ける。

「逃げるが勝ちだぜ」

 口角を上げ歯を見せるツギに、平野は着物を着せられながら反論する。自分で着ることができなかった。

 けれども着替えもできない奴が言うことじゃないなと正論を言われ、担ぎ上げられた。

「ひょろひょろの癖に働こうとしてんじゃねぇよ。お前は肉を付けることだけ考えてろ」

 ツギは平野を担いだまま歩き出した。

 途端に平野は瞼が重くなった。

 眠りに落ちてしまう前に、平野は男に尋ねる。

「…………あんた、名前なんていうんだ?」

 答えが返ってくるまでにほんのわずか、間が開いていた気がする。

「忘れた」

 聞きたかった答えとは違う。けれどそれを聞いた平野は安心したように、眠りに落ちた。


 幼い平野は誰かの背中で目を覚ます。

 大きくて温かい。頬にもさもさの髪が触れる。

 ――とーちゃん……?

 振り向いた顔は光が射してわからない。

 けれど口元が笑っていた。


 ――土に埋めた。

 寺子屋の裏。湿った地面を掘り返して、そこに血縁のない兄姉を、母を、父を埋めた。

 いつもの微笑みが消えた顔で、宗間が独り、穴を掘った。

 顔に土を掛ける前、宗間が言った。

 ――平野。お父さんにお別れを。

 平野は宗間の着物を左手で掴んでいて、右手で手を振った。

 ――じゃあね。


 平野は目を覚ました。

 いったい幾刻眠っていたのか。頭上を西に過ぎようとしていた太陽が、東の空から昇ろうとしている。

 辺りの景色に見覚えはない。どこか山の中。

 平野は木の根元で横になっていて、これまた見覚えのない上掛けが掛かっていた。

 隣を見るとトラ頭で長身の男がみきに寄りかかって座っている。

 ツギは瞼を閉じていたが、声をかけずとも瞼を開けた。

「起きたか」

「起きて、たのか?」

「いや。俺は浅寝が得意なんだ」

 一人旅の長いツギが必然と身に付けたものだった。

「俺……どれくらい、寝てた……?」

「一日も寝てないぜ」

 するとツギは風呂敷からおむすびを取りだし、平野に差し出した。

 そば処で頼んでそのままになっていたおむすびをちゃっかり持ってきたらしい。

「お前の分だ。食え」

「……あんたの分は?」

「俺はもうたらふく食った。他人の事気にしてないで食え。食って肥えろ」

 食べないと口に捻じ込んできそうな男なので、平野は言うことをきくことにする。

 起き上がろうと腕に力を入れるが起き上がれない。失った筋力はそうそう戻らない。

 見かねたツギが起き上がらせ、平野は木に背を預ける形になった。

 幸い、自力でおむすびを食べられる程度には回復していた。

 平野は渡された包みを開け、二つのうち一つを手に取り、頬張った。

 頬張ったおむすびには唐辛子でピリ辛く味付けされた味噌が入っている。平野が味噌好きと思った店主の計らいだろう。もちろん嫌いではなく味付けのお陰で食が進む。

 因みに平野にとっておむすびといえば梅干しや野沢菜で、野山で採れるものが主要だ。いっぽうツギはおむすびといえばおかか。次いで昆布の佃煮つくだにである。おむすび一つで育ちの違いが出るようだ。

 平野がおむすびを食べ終わる頃、ツギは上掛けをしまい支度を済ませていた。

「行くぜ」


 平野をツギが背負って、数刻が経った。太陽は真上より東にある。

 山の中を抜け、荒れた田畑に挟まれた畦道あぜみちを進んでいる。

 と、前方から軽い足取りで歩いてくる男。

 かさを被ったその男はツギの姿をみとめ、声を掛けてきた。

「あれ、人が居るなんて珍しい。旅の方ですか?」

「ああ」

「わたくしはこの辺りで行商をしている旗振といいます。お兄さんずいぶん風変わりな頭してますね。――て、よう見たらお兄さん、蕎麦屋さんで食い逃げした輩を懲らしめてた人じゃないですか! え、昨日の今日でどうしたんです!? あっ、今日は無視されんかった」

「無視……?」

 ツギは旗の事を憶えていなかった。無視したつもりすらなかったのだろう。今の話でやっとぼんやり、そんな奴も居たっけなと思い至る。

「そういえばお連れさんなんて居ましたっけ?」

 旗は事情を聴かぬうちに話を切り替えた。

 ツギの頭部に顔を隠した平野の顔を覗き込む。すると糸目をぎょっと見開き、

「…………もしかして、坊……? 坊やないですか……!?」

「なんだ、知り合いか?」

「…………」

 平野は答えない。

「そのぼさぼさ髪間違いない。坊や、坊が生きとった~~~~!」

 目尻に涙を浮かべて抱きついてくる旗。

 旗が悪いわけではないことをわかっていたが、つい、平野はいがった。

「もっと早く来いよ馬鹿っ!」


 なにがなんやらわからない旗だったが、『鬼』を殺した男――つまりはハジメを捜していると知るや否や歩いてきた道を引き返し、先導を始めた。

 行商の途中だっただろうにお構いなしで、一人で走って行ってしまいそうな様子だ。

 そんな旗の後ろをツギはゆったり、しかし見失わない速度で付いていった。

 道中、一度休憩を挿んだのみで歩き続けた。

 ずっとツギにおぶられている平野は申し訳なさを感じながらも黙っていた。休憩の際、

「さっき道で会ったとき、坊の顔を見てぎょっとしました。干物みたいなんですもん」

「ああ、俺もこいつが倒れてるのを見たときゃ、干からびた山犬かと思ったぜ」

「あれお兄さん上手いこと言いますね」

 盛り上がる二人の会話に早く肉つけてやる、肉つけたらなんか……なんかいろいろ言ってやる! と、平野は心に誓っていた。

 そうして太陽が西にきた頃。

 平野は山の頂上から故郷の景色を見た。

 初めての光景だった。

 荒れ果てて畦との境も判らなかった段々畑。それが耕され水を張り、稲の植え付けが済んだ棚田に変わり、一面に広がっている。

 人の気配の乏しかった周辺にぽつぽつと屋根が見える。

 湧き出る郷愁きょうしゅうはなく、平野に感動はなかった。

 山を下るとふもとに十数軒の平屋が並んで建っている。

 そこでは玄関先で主婦が談笑し、男児とさらに幼い女児が駆け。まだ建物が増えるのか、木材を担いでいる男の姿もある。

 平野は単純に驚き、戸惑っていた。

『鬼』が跋扈ばっこする世で建材や人出を集めることは難しく、小さな物でもそうそう建てられたものではない。だというのにこれだけの人が一ヶ所に集まり、まだ新しい建物が建ち並んでいる。この光景に驚かない者はそういまい。

 並んでいるのは民家だけではないらしく、だんごの旗が見える。

 が、一行は立ち寄らず。見物はそこそこに目的の場所へ向かった。

 ツギの背の上から平野は景色を眺める。

 昔、自分の足で歩いたときはもっと低い視点で、田んぼに水も張っていなかった。けれど、確かにこの道だ。

 寺子屋に続く道。

 と、平野の視点が一点に定まった。

 あぁ……昔と変わらない。

 寺子屋も、縁側に座るその男も。

 一目見て駆け寄りたくなった。

 平野は足をバタつかせ、ツギの背から下りる。

 しかし一足先に旗が駆け寄っていく。

 旗に気づいた宗間は顔をこちらに向け――気づいた。

 旗が話すよりも先に平野に気づき、驚いた顔で立ち上がった。

 ゆっくり、数歩近づくと、破顔した。口に手を当て、今にも涙しそうに。

 平野もまた、胸が締め付けられるようだった。

 けれど駆けていきたい衝動を不安が邪魔していた。

「……俺、帰っても……いいのか……?」

 ぽつりと零れた。

 そこに、肩を貸してくれているツギの声が降ってくる。

「家なんて、いつ帰ってもいいんだよ」

 ツギがばんっと背中を押した。

 平野はよろめいて、足が前に出た。

 すると、絡みついていたしがらみなどなかったかのように、自分の意志で踏み出した。

 衝動のままに。

 宗間は腕を広げ、

「平野っ」

「――宗間っ」

 平野はふらつく足で駆け寄り、あと数歩というところでよろけてしまう。

 それを宗間が受け止めた。

 しっかりと、腕に力を込める。

「あぁ……平野。本当に平野なんですね……っ」

「宗、間……ごめっ俺……ずっと、ずっと帰、らなくて、ごめん……っ」

 そのとき――

 かごを落とした音。

「…………平野……?」

 呼ばれた方を振り向くと、長い髪を一つに結った、袴姿の少年が居る。

 籠にのせて持っていただろうかぶを地面に転がしたまま、黒く丸い瞳をより丸くして立っている。面影の消えない顔……。

 ――生きてた。

 少年が駆け寄ってくる。

「……おま――」

 言いかけた平野に向かって、少年はおもいっきり――拳を叩き込んだ。

 拳は平野の額に叩きこまれ、それはもう鈍くいい音をさせた。

 宗間に抱えられているお陰で吹っ飛ばされることはなかったが、首は大きく後ろに反れ危うく失神するところであった。

 一瞬の出来事になにが起きたのか、平野が理解しあぐねていると、

「帰ってって言ったのに……っ」

 びくっとした。夢で聞いた言葉と同じで。

 平野は顔を上げた。戸惑った。

「六年もどこほっつき歩いてたんでずか」

 怒っているような言葉とは裏腹に、少年の顔は笑っているから。

 そして平野の顔も……

「なに笑ってるんでずか。僕怒ってるんでずよ!」

 そう言う少年の顔もやはり笑っている。

 平野は言いかけていた言葉を再度紡ぐ。

「おまえ――、名前は?」

「ハジメでず」

 やっと呼ぶことができる。

「ハジメ。おかえり」

「平野も、おかえりなさい」

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