十 繰り返す光景/前

     1


 寺子屋から数里離れた所に蕎麦そば農家の家がある。中年の父親と年頃の娘の二人暮らし。農業のかたわら、偶の来客にそばを出すそば処もやっている。

 客といっても顔ぶれは決まったようなもの。今日も顔を出していた。

「いや~お花ちゃん、今日もべっぴんさんですわ」

 かさに糸目が特徴のご存じ旗振る行商人である。行商のため定期的にやってくるのだ。

 家の娘に軟派な言葉を吐くのはいつものこと。娘には軽く受け流される。

「ありがとうございます。かけそばでいいですか?」

「温かくなってきたので盛りそばで。――今日はえらく繁盛してますね」

 土間を上がった座敷にははたの他に三組もの客が居る。旗以外の客など、放浪者が年に一度立ち寄るか否かだというのに、開店以降初の大盛況であった。

 三組とも初めて見る顔だ。最も出入り口の近くに座っているのは柄の悪そうな二人組の男。逆に出入り口から最も離れた位置に座っているのは、少年と少女の二人組。歳の頃は十代前半といったところだろう。そして双方の中ほどに長身で筋骨たくましい男が座っている。

 この長身の男、黙々とかけそばをすすってはおかわりを繰り返し、うん十杯。未だおとろえぬ勢いに感心を覚える。

 そばを啜り終えた長身の男からさらに追加の注文が入った。

「そば粉がなくなりそうだわ。旗さんの分なかったらごめんなさい」

「ええーそんな、楽しみに来たのに」

「あとでなにかお作りしますから」

 その一言で機嫌をよくした旗を置いて、娘は奥の調理場へ向かった。

 それを見計らったかのように二人組の男が席を立つ。

「おい」

 店を出ようとした男たちを少年が引き止めた。

 頭に布を巻いてくたびれた着物を着た、如何にも浮浪児な少年。しかし相貌は、儚げで美しい。苦痛に歪んだような眉もその儚さを強調している。

「お勘定、置き忘れてるぞ」

 見掛けの印象とは違い、少年の態度は強く男らしい。

 引き止められた男の一人が誰でも判る作り笑いを向けた。

「今持ち合わせがないんだ」

「金がないなら皿洗いでもしていくのが礼儀だろう」

「これから用があって時間がないんだ。必ず戻って礼をするからよ」

 男たちは再び店を出ようとする。

 その手首を少年が掴む。

「待て、せめて店の人に話してから」

 掴んだ瞬間。

「っせえな!」

 男は素の顔を見せた。

 少年は投げ飛ばされ、床にひどく背を打ちつける。短い嗚咽おえつを漏らした。

 悶絶する少年に旗が駆け寄る。

「ちょ、君だいじょうぶですか!?」

 旗は奥に居る店主と娘を呼んだ。

 二人が現れる前に男は舌打ちをし、唾を吐き捨て出て行った。

 男たちを追う者はいない。勇敢な少年は動ける状態になし、その連れの少女は平然と動こうとせず。調理場に居た店主と娘は状況を飲み込めずにいる。そして旗はこんなとき頼りにならない。

 そんな中、騒動の間もそばを啜っていた大物が居た。ずずっ、と音をたて、汁一滴残らず食い尽くす。

 長身の男は卓に代金の入った巾着を置き席を立つと、一言言い残しそば処をあとにした。

「大将、かつ節たっぷりのそば、頼んだぜ」


 食い逃げした男たちはゆっくり街道を歩いていた。突如、男の片割れは背後から強烈な衝撃を食らう。

 猪が突進してきたかのような衝撃の正体はそば処に居た、長身の男が見舞った跳び蹴りだった。突然隣を歩いていた相方が吹っ飛び、踏みつけにされている光景を呑み込めず、男は目を白黒させている。

 屈んでいた長身の男がゆっくり、背を伸ばす。

「兄さんたち山賊だろ」

 柄の悪い男より頭一つ半は高い大男。しかしその顔立ちは男らしく精悍せいかんながらも可愛げのある、若い男であった。

「用ってのは、またどっかを襲うのか?」

 啞然としていた男はやっと状況を呑み込んでなにか言おうと口を開く。が、その前に首が飛んだかという衝撃に襲われる。長身の男の右腕が横殴りに見舞ったのだ。

 柄の悪い男は衝撃で地面に叩きつけられ気を失った。

 相手が気を失っていようが気にもせず、長身の男は小指で左耳をほじりながら言う。

「――てのはどうでもいい」

 ふっと耳垢を飛ばすと、足元で伸びている男たちの身包みをいだ。

 剥ぎ取った着物を肩掛けに持ち、吐き捨てる。

「金も時間もねえなら身包み置いていきな」

 この男、後の名をツギと云う。『鬼』に対抗しうる、二人目の男となる。


     2


 店主らが旗から事情を聴き終えて間もなく、ツギはそば処へ戻ってきた。

「大将、さっきの兄さんたちの代金はこれで勘弁してやってくれ」ツギは男たちから剥ぎ取ってきた着物を店主に渡した。

「これは、もしやお客さんがあん人らを……」

「ところで大将、頼んでたそばはできてるかい?」腹が減ったとばかりに腹をさする。

「へ、へい! すぐに」

 店主は調理場へ駆けて行った。

「あの……」

 おずおずと娘はツギに声をかけた。

「この度は誠にありがとうございました。なにかお礼をさせてください」

「さっきの坊は旅のもんかい?」

「え? ええ。初めていらっしゃったので、そうだと思います」

 男たちに立ち向かった少年は打ち所が悪かったのか自力で立てず、奥の部屋で休ませていた。

「ここにしばらく置いて面倒みてやってくれ」

「まさか、それがお礼ですか?」

「ああ。断れないだろ?」

「ありがとうございますっ」娘は頭を下げた。

 そこに店主がそばを運んできた。注文通りのかつ節たっぷりのそば。

 ツギが席に着くや否や旗振る行商人が寄る。

「いやー、お兄さんかっこええことしますねー。あれだけ食べたそば代もぽんと払っていくし、惚れてしまいますわ。あ、言って置きますけど男色の趣味はないですよ」

「ごちそうさん」

 旗が一人で話している間にツギはそばを平らげ、勘定を置いてさっさとそば処をあとにする。

 店主と娘はその後を追い、表で深々とこうべを垂れ見送った。

 ツギの姿が見えなくなるまで見送って、中に戻った娘はすみうずくまっている男を見つけた。

「旗さんなにしてるんですか?」

「わたし……軽くあしらわれるのは平気でも、無視されるのは駄目なんです……」

「……すぐになにか作りますね」

「うん」


 そば処を後にしたツギは東に向かった。

 足を踏み入れた林の中。

 はぁ……はぁ……

 荒い息遣い。ツギのものでも、獣でもない。

「それ」は草を掻き分け道に出た途端、意識を失い倒れた。

 そこにツギが通りかかる。「それ」を無視せず歩み寄る。

「……生きてるな。おい、しっかりしろ」

「それ」は行き倒れだった。恐ろしいほど痩せ細った少年。眼球の形がはっきりわかるほど目が落ち窪んでいる。歳はツギより幼い、十代後半といったところだろう。

 ツギは少年――平野ひらのの頬をぺちぺち叩き呼びかけた。が、反応はない。

 口元が少し汚れている。

(吐いたのか……)

 触るのをためらうほど汚れた平野をツギは気にする素振りもなく、抱え上げる。

 平野の体は悲しくなるほど軽いものだった。

 ツギは来た道を引き返して行く。

 他に民家もなく、先のそば処へ戻った。

 かまびすしい行商人の姿はなく、出迎えたのは店主だった。

「あれお客さん」一刻も経たず戻ってきた客に疑問を抱くも、肩に担いでいる者を見て事情を察したようだ。「そちらの方は……?」

「林道で倒れてやがった。なんか食わせてやってくれねぇか? 金なら俺が払う」

「へい」

 店主はこころよく了承し、早速調理場へ向かう。

 ツギは座敷に平野を寝かせた。

「大将、悪いが湯か水も頼む」

 少しして湯を張った桶に手拭いを掛けた物を店主はツギに渡した。

 見知らぬ汚い人間を拭くのは嫌だろうと、敢えて拭く物は要求しなかったのだが気の利くことだ。ありがたく使わせてもらう。

 ツギは湯に浸けた手拭いを硬く絞ると、平野の顔を拭いてやった。


 ――陽が、山の向こうに沈みかけていた。

 平野は寺子屋に向かって山の中を走っている。

 どこまでも続いているような木々の群れと、茂る野草。懸命に振る、自分の小さな手が見えている。

 その全てが赤い。

 目に血でも滲んでいるかのように、視界が赤に染まっていた。

 駆けて駆けて、駆けただけ音が聞こえる。

 草を踏みつける音でも、揺らす音でもなく、噛み砕く音。

 誰かが――少年が『鬼』に喰われている音。

 堪らず耳を塞いだ。

 なのに、その手をすり抜けて少女の声が囁いてくる。


 ――ちゃんと聴いて。君が犠牲にした命が、消える音を。


 夜になっていた。

 寺子屋に向かっていたはずなのに、まだ山の中を走っていた。

 闇の中に光る目が浮いている。『鬼』の目だ。

 木と木の間に一対ずつ浮かんだ光る目が、こちらを見ている。

 足を止めれば喰われる。

 平野は山中を走り続けた。

 景色が流れていく。

 いつのまにか、『鬼』の目は白く浮き上がる無染の布にとって変わっている。

 布で覆い隠した“みんな”の顔。

 声が聞こえだした。

 誰とも知れぬ人々の悲鳴。

 途端に視界が揺れ出す。

 足元が不安定になった。

 野草が茂っていたはずの足元は――しかばねで敷き詰められていた。

 見たこともない人々の屍。

 平野はその屍を踏みつけて走っていた。

 踏みつけるたび、血に濡れた肉を踏む、嫌な音がする。

 その音も、悲鳴も聞きたくなくて、見たくもなくて。

 堪らず耳を塞ぎ、目をつぶった。

 山を抜けた。

 それなのに。

 塞ぐ手をすり抜けてささやいてくる少女の声。

 瞼をじ開けてくる――悪夢そのもののような少女の姿。


 ――ちゃんと見て。ひーくんが取りこぼしてきた命たちを。


 瞬間、少女のものとは違う声が聞こえた。


 ――帰ってって言ったのに。


 ――はっと平野は目を覚ました。

 いい匂いがする。

「気がついたか」

 声のした方へ視線を向けると、座っていてもわかる長身の男が居た。知らない男だ。

 平野は空腹のせいで意識が朦朧もうろうとしていた。それに加えて声も出せない。

「目が覚めましたか」

 店主がやってきてツギに声をかけた。

「丁度できあがりましたよ」

 店主は御粥おかゆが盛られたわんさじを卓に置く。

 横になっている平野からは立ち上る湯気と匂いだけがわかる。目が覚めたときから香っている匂いは椀からではなく、家屋に染み付いたつゆと蕎麦の匂いだった。

「すまねぇな大将」

「いえ。他にりようの物があったら言ってください」

 店主はお辞儀をするとまた店の奥に引っ込んだ。

「起きられるか?」

 平野はなんの返事もできない。

「起きられねぇか」

 自己完結したツギは半ば強引に平野を起き上がらせ、上半身を支えてやり言う。

「お前は間違いなく栄養失調だ。食えば治る。食え」

 上体が起きたことで平野にも椀の中身が御粥であるとわかった。

「俺の奢りだ。心配すんな」

 手を付けない平野の様子を見て言った。

 平野は金を持っていないが、手を付けないのは単に手が動かないからだ。意識もまだはっきりしない。それだけ衰弱していた。

 見かねたツギは匙で一口すくって運んでやる。

「食え」

 声は出ないが唇はかろうじて動く。平野は言われたまま口を薄く開けた。

 口に入れられた御粥を力なく、ゆっくり噛む。

 この七日間、なにを口に入れてもすぐに戻していた。しかし焼けた喉が痛むだけで、それを口にしても胃酸は逆流しなかった。

 様子を見て、ツギは二匙目を運ぶ。掬う前になにかを溶かし入れて。

 それを口にした平野の意識が鮮明になっていく。枯れたと思っていたのに、両目から涙が溢れる。

 ツギが溶かし入れたのは味噌だった。

 あぁ……懐かしい。帰りたくて、帰れなかった寺子屋。

「おや、味噌はお嫌いでしたか?」

 替えの湯と着物を持ってきた店主だ。

 店主からすれば偶々出たに過ぎない言葉。しかしその言葉に平野はあの男を思い出す。

「宗間あ゛ぁあ」

 呂律ろれつがはっきりしていない、大きな声でもない。けれど、心の底からの叫びだった。

 子どものように泣きじゃくる平野の背を、ツギは無言でさすってやる。

「一口で泣ける元気が出たんだ。嫌いなはずねぇぜ」

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