幕間
六年前。
少年が
『鬼』が少年を噛み砕いているのをいいことに、平野はその場から逃げた。
駆けて駆けて駆けて、駆けただけ草を踏みつける音が、揺れる音が聞こえて。耳を塞がずとも、いつのまにか、他の音は聞こえなくなっていた。
脚に切り傷がいくつもできていたが、自分で気づくことはなく。無我夢中で駆けた。
途中、転びそうになっても無我夢中に駆けた。
寺子屋へ、
――駆けていたのに。
途端に足を止めた。
それは、寺子屋を認めたときだった。
夕暮れ時。寺子屋に淡い灯りが灯って見えた。
あの温かな光の場所で、宗間が帰りを待っている。
今すぐ駆け出して飛び込んで――どんな顔をすればいい……?
どんな顔なら
そこで気づく。
平野は、少年が『鬼』に捕まったそのときから、瞬きをしていなかった。
気づいた途端目から涙が溢れて、止まらなくなった。それは尚も出来ない瞬きの代わりに目を守ろうとする、身体の反応。そうに違いない。だって、――悲しみはないのだから。
平野の心に充満していたのは悲しみではなく、恐怖だった。
恐ろしくて
あのまま『鬼』に喰われてしまうよりなにより、帰ることが。
なにが恐ろしいのか、自分でもわからない。
けれどどうしても足を前に出すことができず、後退った。
すると、後ろになら足が動くことに気づいた。
駆け出した。
寺子屋とは逆の方向へ。
どんどんどんどん、寺子屋から離れるように駆けていた。
陽が沈みきってなにも見えなくても、息が苦しくても、脚が千切れそうでも、駆け続けた。
何度もなにかにぶつかった。始めは痛みがわからなかった。
しだいに痛みを感じるようになって、意識もはっきりしだして――、
空が白みだした。
平野はゆっくり足を止めた。
そこでやっと、顔が動いた。
朝日に目を細めるように。
そして、平野の意識は途切れた。
顔に冷たさを感じて目を覚ました。水を掛けられていたらしい。
「わ、目が真っ赤」
その声はまったく驚いていないようだった。
視線を向けるとそこには微笑みを浮かべ、竹の水筒を持つ少女が
可愛い子だと、平野は思った。
少女は動かない平野の頬をつんつん指で突いた。
「…………痛い……」
平野は小さく声を発した。突かれたところに痛みはないが、体中あらゆるところが痛んだ。
その声が聞こえたのか、少女は突く手を引っ込めた。
すると「その
少女は「殺っちまいな」とは言わず、平野に問いかける。
「君、家ないの? 一緒にくる?」
「…………家より……水が欲しい……」
平野の答えに、少女はその笑顔を強め、
「
人称が「わたし」とも「あたし」とも取れる調子で少女――佐島は言った。
なにをどう取られたのか、平野は一緒に行くことになった。
佐島の他に居たのは全部で五人だった。
彼女たちは一様に染色されていない生地で仕立てた、無染の着物を着ていた。佐島は小袖を着ていたが、他のみんなの恰好は変わっていた。旅装束に似ているがどこか違っていて、見たことない頭巾の被り方をしていたり、目や口を布で隠していたりと個々さまざまに。
佐島以外に子どもは居らず、関係性が知れない。わかったのはみんなの中に佐島の親はいないことと、佐島が中心の集団だということだった。
それは佐島がみんなに可愛がられている、わけではなく、佐島の発言で動いているという意味だ。
そしてみんなは佐島を「佐島」でも「さっちゃん」でもなく、「
何故「雀」なのか平野はわからなかったが、帯に付けている根付けからそう呼んでいるのだろうと思った。
彼女たちに関してはわからないことだらけだ。
佐島とみんなの関係性もそうだが、最もわからないのはなにをしているのかであった。
定住場所を持たず各地を転々としているらしく、移動した先で仮住まいを決めると不定期間滞在する。
転居するのは決まって佐島が帰ってきたとき。
仮住まいが決まると佐島はふらっと何処かへ出掛け、数日戻ってこなかった。その間みんなはほとんど滞在場所から動かず、佐島の心配をする素振りもない。
佐島だけ働かされているかにも思えたが、食料を調達してくるのはみんなの内の誰かだったため、それはないようだ。
ある日。平野は彼女たちの職を推測し、尋ねてみた。
「あんたたちって修行僧なのか?」
数瞬置いてみんなの一人が噴き出した。
代表して佐島が返す。
「どうしてそう思うの?」
「……行商人でもないのに転々としてるし、珍しい恰好だし……食事が質素だし……」
ぶふっとみんなの一人が更に噴き出す。他のみんなも口元を押さえていたり、小刻みに肩を震わせたりしている。
何気にみんなが笑うのを見たのは初めてだった。
「ねぇ、次から仕事を訊かれたら修行僧って答えようか」
佐島がみんなに向かって言った。
みんなは更に笑う。
平野は少し膨れっ面で、
「……本当はなんの仕事なんだ?」
佐島は愛らしい笑顔で、
「【人殺し】っ」
「……本当はなんなんだよ」
「本当だよぅ。あ、ごはんがおいしくないのはね、料理上手な人がただいないからだよ」みんな刀の使い方しか知らないから、と佐島。
「え、女って、みんなそうなのか……?」
無垢で無知な平野がよほど
先の会話をきっかけに、平野は炊事を申し出た。
初め、料理なんてできるのか、と疑っていたみんな。平野の料理を一口食べた瞬間。そんな考えはふっとんでいた。
彼女たちの胃袋をがっつり掴んだ平野は炊事番に任命された。
以後、みんなは平野を「炊事番」と呼んだ。
共に過ごす内に判ったことだが、みんなには名前で呼び合う習慣はないらしい。それぞれ見た目の特徴や役職で呼んでいる。例外に佐島だけは名で呼ばれたがり、平野のことも「ひーくん」とあだ名で呼んだ。
そうして彼女たちの仲間になった平野だったが、ある日――背が伸びた平野に新しい着物が与えられた日の事。
広げて見たその小袖は染色されていた。
平野は何心なく尋ねてしまった。
「俺も無染の着物じゃなくていいのか?」
一瞬、場の空気が凍りついたようだった。
佐島がふっと口端を上げ言う。
「“人殺し”になりたくなかったら、ね……」
佐島は何度尋ねても自分たちは【人殺し】だという。決まってそのときの佐島は笑顔で声の調子も軽くて、冗談だと思ってきた。
このときの佐島も笑っていた――けれど、平野はやっと気づいたのだ。佐島はいつも笑っているようで、笑っていないということに。
――そして、その日は
洞窟に居を構えて一年ほど経った、ある真夜中のことだった。
よい子の平野はいつものように眠りについていた。しかし深い眠りではなかった。
日暮れとともに睡眠に入った身体は浅い眠りに移行しだした頃で、微かな物音で目が覚めた。
それは誰かの足音で。
いつもなら再び
が、この日はいつもではなかった。
足音が多い。
みんなとは壁で
一人二人なら
平野は起き上がり出入り口へ向かった。灯りのない洞窟の通路を壁伝いに、慎重に。
そこには身支度を整えて、何処かへ向かおうとしているみんなと、佐島が居た。
平野に気づいた彼女たちは足を止め、振り返った。
「……どこ、行くんだ……?」
答えるのはやはり佐島だ。
「人を殺しに行くんだよ」
そして、やはり笑っていて、笑っていない。
「…………それ、は……冗談、だろ……? 冗談……なんだよな?」
思い返せば、平野は佐島が笑うところを見たことがなかった。
「冗談なんて――一度も言ったことないでしょう?」
それに、もっと早く気づくべきだったのだろうか。
それとも――、
「ずっと――」
目を背けて、
「気づいていたんでしょう?」
気づかぬふりをしていたらよかったのだろうか。
そのとき、宗間の優しい顔が脳裏に浮かんだ。
六年間、一度も思い出していなかった宗間の顔。
いつだって優しく微笑んでいて、温かかった。
――そうか俺は、向き合いたくなかったんだ。
名もないあの少年が帰らない寺子屋と、それを知った宗間と、現実と……。
朝起きたって部屋の
たった一週間の付き合いで、大して好きな奴でもなかったが、出会う前には戻れない。いなかったことにはできない。
あの日、あのときから、寺子屋は少年のいなかった寺子屋ではなく、少年の帰らない寺子屋になった。
そんな寺子屋を知りたくなくて、向き合うのが恐ろしくてあの日、逃げ出したのだ。
しかし、逃げ込む先を間違えた。
目の前の少女はいつも笑みを浮かべていて、しかし、宗間とは似ても似つかない冷たい笑みだった。
平野はその晩、洞窟からも逃げ出した。
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