九 向こう岸の鬼

     1


 旅の男が林を歩いている。日ノ民らしく髪も目も黒。しかし背丈は日ノ民とは思えぬほど高く、屈強な体つき。

 はぁ……はぁ……

 林に聞こえる荒い息遣い。男のものでも、獣でもない。

「それ」はおぼつかない足取りで草を掻き分け、道に出た途端意識を失い倒れた。

 そこに男が通りかかる。

 男は「それ」を見つけ、一瞬山犬かと思う。無視せず歩み寄ると人であるとわかる。

 行き倒れであった。眼球の形がはっきりわかるほど目は落ち窪み、体は恐ろしいほど痩せ細っている。

 男は「それ」の頬をぺちぺち叩き呼びかける。

 が、反応はなかった――


 男が行き倒れに遭遇する三日前。

「『鬼』でずか?」

 ハジメははたに呼び出され、集落にある団子屋に来ていた。粒餡つぶあんの載った団子を頬張りながら、旗の話に問いを返した。因みに団子は旗のおごりだ。

「ええ、それがちょっと妙な話で。魚をおろしてくれてる川沿いの旦那さんが見たというんですけど、その『鬼』、襲ってこないそうなんです」

「確かに妙でずね。『鬼』が襲ってこないなんて」

「でしょう。それでハジメ少年に一度来てほしいと言うてるんです」

「……もしかして、この団子は手付料でずか?」

「やー、さすが話が早い」

「旗さんが刀を持ってきてほしいなんて言うから、なにかあると思ったんでずよ」

「『鬼』の事でハジメ少年以上に頼れる人はおりませんから」

 確かに、他に誰を頼れという話だ。

 ハジメは最後の団子を飲み込んで立ち上がる。

「じゃあ行きましょうか」

 団子屋を後にし、川沿いの家へ向かおうと歩き出したとき。ハジメは足を止めた。

「どうしました?」

「いえ」

 家屋の陰に無染の着物をまとった少女を見た気がしたが、きっと気のせいだ。


 川沿いの旦那というと六年前、平野と旗を捜して訊ねようとした人物だ。あのときは訊ねず仕舞いだったがご健勝であるらしい。

 一行はその者の家を目指し山中を歩く。膝まで伸びた草を分けた人一人通れる程度の細道を一列になって進む。旗が普段から使っている道は既に踏み固められていた。

 前を行く旗の足取りは行商をしているだけあって軽い。時折振り返って話しをする余裕もあるようだ。

「刀を持つのは久々なんじゃないですか?」

「そんなことないでずよ」

「え、でもあの日以来『鬼』は出てなかったのに?」

 集落ができてからも『鬼』は現れていない。人が集まっているというのに。

 ただ不思議なことではない。宗間の力が及ぶ範囲に集落も含まれているからだ。

 それを知らぬハジメからすれば、不思議なことに違いないが。

「刀自体は普段から使っていたので」

「獣でも狩ってたとか?」

「んー近いでずけど、旗さんが怖がるので秘密でず」

「えなに、ごっつい気になりますわ……」

 そうこうして約一刻。川沿いの旦那が住むという家に着いた。

 川沿いの――というだけあってすぐそばを川が流れている。鬱蒼うっそうとした森林の中で、晴れの昼間だというのにあまり陽は射し込まない。そのためか川端に転がる石をこけが覆う。静かな処。

 家は横穴を利用して造られていた。

 出入り口に立てられた柵越しに旗が声をかける。

「旦那さん、言うてた少年を連れてきましたよ」

 六畳ほどの空間に家主は座っていた。

「おおっ、よう来てくれた。ま、汚いとこだけんど上がってくれ」

 家主は齢五十を超える年配で、ハジメより頭一つ背が低く猫背気味だ。旗との会話から人のよさがうかがえるが妻子はおらず、身寄りもなく一人で暮らしている。

「そっちのあんちゃんがそうかい?」

「ハジメといいまず」

 ぺこりと頭を下げて挨拶する。

「ほんにほんによう来てくれた。寺子屋のもんだと聞いとるが、先生は元気かね?」

 ハジメが寺子屋に来る以前、交流があったらしい。因みに家主のいう先生とは、寺子屋の教師ではなく薬師の先生という意味である。

「元気でずよ。最近生徒が増えて楽しそうにしていまず」

「そうかい、そうかい。じゃあ、あの目つきの悪いちびも元気かね?」

 誰の事かわからずハジメが首を捻ると、家主は記憶を手繰たぐりだした。

「あ~なんといったか、小さいのにやけにしっかりしとって、毛がぼさぼさで……ああ、今はちびじゃなくてハジメと同じくらいの歳だ」

「もしかして、平野ひらのでずか?」

「そうだそうだ! 平野だ」

 今になってその名を聞くとは思わなかった。

「……平野、は……」

 どうしたことだろう。声に出すのがこんなにも、重い。

「坊は今寺子屋にいないんです。けど、元気にしてますよ」

 言葉に詰まるハジメの代わりに旗が答えた。

 旗の明るい調子に胸の辺りが軽くなったようだ。

「そうかい、そうかい」

 とうなずく川沿いの旦那に、ハジメは用件を切り出す。

「ところで、その『鬼』はどこで見たんでずか?」

「すぐそこ――川の向こう岸だよ」

 家主は朗々ろうろうとそのときのことを語りだした。

「あれは七日前の朝方、おいがいつものように釣りをしとったときだ。足音もなにもしなかったが、ふと向こう岸を見るとそこになにか居るのに気づいた。あの日はかすみが立っていて一瞬熊かとも思ったが、あれは間違いなく『鬼』だった。

『鬼』の中じゃ小さいほうだけんど、それでも九尺くれぇあってよ。全身長い毛生やしててよくはわかんなかったが、見た感じ痩せてるみてえだった。何日も食べてないって感じだ。

 そんときはおったまげてすぐに逃げようとしたんだけど、情けねえことに腰抜かしちまって、動けなかったんだわ。

 いつ襲ってきてもおかしくないからびっくびくして様子を窺っとたんだが、結局そいつは襲ってこんかった。目元も毛で隠れとるようだったしこっちに気づいとらんのかとも思ったが、そんなはずないわな。

 どのみちその日は仕事どころじゃないと思って、動けるようになったらすぐ家に戻ったんだ。しばらくして用を足しに外に出たらいなくなってたもんで、もう来ないだろうと思ったんだが、明くる日も釣りに出てみたら居たのよ。同じ向こう岸におんなじ『鬼』が。

 それから毎日だ」

「毎日でずか……」

 七日も前から現れ続けているのになにもしてこないというのは、やはり妙だ。

「日に日に痩せ細って、居る時間が長くなっとるんだ。もしかしたら今も居るかもしれん」

 川沿いの旦那に先導され、対岸に『鬼』が現れるという場所へ向かった。

 そこは横穴から歩いて一分もしない所だった。川幅が広がっていて、水深も深くなっているようだ。ここでよく釣りをするというから魚の溜まり場なのかもしれない。

 大岩の上から魚が見えないかと覗き込む。

 すると太刀に止まっていた黒い蜻蛉とんぼが水面を滑るように、対岸に向かって飛んだ。

 蜻蛉を目で追った先には、来たときには居なかった、『鬼』の姿があった。

「わっ、本当にいますよ旦那さん!」びびった旗は即座に岩の陰に隠れた。

『鬼』はじっとこちらを見ている。

 遠目に見えるその姿は川沿いの旦那が言っていたものと合致している。薄い色の長毛が身体を覆い、目まで隠し。ただ足には毛が生えておらず、黒い皮膚が覗く。確かに毛でわかりづらいが痩せているようだ。

「あれ、また痩せたんでないか?」

「少なくても一週間は食べてないんでずよね。『鬼』ってどのくらい食べなくても平気なんでしょう」

「聞いた話では十日はなにも口にせずとも平気だとか。まあ、実際どうだかわかりませんけど。一月ひとつきは食べなくていけると言う人もおりましたし」

「へぇ……じゃああの『鬼』はかなりの期間食べてないはずでずね」

『鬼』は変わらずこちらを見ている。

 どれだけの間喰っていないのかはわからないが、腹を空かせているのは間違いない。川沿いの旦那を狙っているのも間違いないだろう。今この瞬間に襲ってきても不思議はない。

 日に日に居る時間が長くなっているのも、狙っている時間が長くなっていると解釈できる。それは『鬼』の限界が近いということでもあった。

 益々襲ってこない理由がわからない。

「僕、ここでもうずこ様子ようずを見てみまず。二人は戻って待っていてください」

「心配いらないと思いますけど、気をつけて」

 と、早々退散する旗。

 川沿いの旦那も後に続くが、

「…………」

「どうかしましたか?」

「いや……気をつけてな」

 その表情はどこか気になるものだったが、ハジメはそれ以上引き止めなかった。


 ハジメは大岩の上に片膝をつき、『鬼』を見据えた。

 視線を外さず、太刀と共に持ってきていた般若の面を被り、柄に手を添える。

 ハジメははっきり感じていた。

 こいつは飢えている。

 だというのに何故襲ってこないのか、怪訝けげんでならない。

 こちらが向こうを見ているように、向こうもこちらを見ている。

 ハジメも『鬼』も動かない。しかし、視線を外すこともなかった。

 そうしてどれほど経っただろう。

 そうしていただけ、黒い蜻蛉は『鬼』の足元、川面に先を浸けた葉に止まっていた。

 ハジメは最後まで気づかなかった。そこに腐った魚の死骸がいくつも、転がっていることに。

 その瞬間、蜻蛉が舞い上がった。

 気配に気づき、ハジメもばっと振り向いた。

 そこには川沿いの旦那が居た。余程長い時間こうしていたのか、様子を見に来たのだろう。後ろから旗もやって来る。

 鼓動が耳につく。気を張っていたところに家主が突然現れたから。――いや、それだけじゃない。これは不安から来るもの。

 ハジメは面を少し押し上げ、顔を覗かせる。

「その恰好、どうしたんだ? もしかして――」

 川沿いの旦那が言い終える前、旗の声が割り込む。

「ハジメ少年どうですか? 殺さなくてもよさそうですか?」

「……殺さなくてもって、どういうことでずか……?」

 ――やめてくれ。

「いやな。実はこの数日のうちに情が湧いてしまって、このままにできないかと思ってるんだわ。ハジメに見てもらっても変わりないようだし」

 川沿いの旦那は明るい調子だった。

 が、ハジメは明るく捉えることなどできなかった。

 ――やめてくれ。

 このままになんて、とんでもない。

 ――そんな優しい眼で『鬼』を見ないでくれ。

 こいつは情を移していいものなんかじゃない。

 ――そんな優しい眼で『鬼』を見られるあなたの想いを、踏みにじらせないでくれ。

 そのとき、ハジメは『鬼』の微かな変化に気づいた。

 閉じられていた口が薄く開き、呼気が荒くなっている。

 ハジメの様子を見て旗と、川沿いの旦那も気づく。

 このとき、向こう岸の『鬼』から、川沿いの旦那はどう見えていただろう。


 ぼあああぁあああああっ


『鬼』は叫び声を上げながらこちらへ向かってきた。

 瞬間、ハジメの動きはとても素早いものだった。『鬼』が川へ足を踏み入れると同時、人とは思えぬほど高く跳躍し、抜刀した太刀で『鬼』の頭部を両断した。

 一拍置いて切れ目から血が噴出する。

 頭を斬られた『鬼』は川の中へ膝から崩れていく。

 頭部を斬ってもハジメは止まらなかった。『鬼』の身体が沈みきる前に両腕をほふり、頭部を首から斬り落とし。終いに胴も真っ二つにして、それを足場に向こう岸へ跳んだ。

 全ては瞬く間のできごと。

『鬼』の浸かった川面からは赤い煙が上がり、噴き出す血と混ざり、辺りを赤く染める。

 煙は上に昇り、血は下に、雨のように降り注ぐ。煙は鮮明な赤だが、血は赤黒い。

 そんな赤黒い雨の向こう、ハジメが振り返る。面から伸びる毛が返り血を滴らせ、抜身の太刀は禍々しく、一切その黒さを失わず。

 それを見て腰を抜かしている旗は、このとき、本当の意味で理解したことだろう。六年前、黒鬼を屠ったのが向こう岸に居る少年だと。この少年こそが、人類の希望なのだと。

 興奮ともいえる高揚感を抱く旗の隣、川沿いの旦那は、その光景をただ呆然と眺め。ハジメは面を外すことも、対岸に声を投げることもできなかった。


 合流してからも、横穴に戻ってからも、ハジメと川沿いの旦那は黙ったまま。そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、旗は一人しゃべり続けていた。

「――結局、『鬼』が今まで襲ってこなかったのはどうしてだったんでしょうね?」

「水に入れなかったんだと思いまず」

『鬼』を斬ってから初めて、ハジメは言葉を返した。

「水に?」

「戻り際見たんでず、水に浮かんだ『鬼』の足。火に焼かれたみたいにただれていた。水に入るのを恐れて、襲ってこなかったんだと思いまず」

 ハジメは返答の間もずっと俯いている。

 そんなこと関係なし。旗はいつも以上に舌が回っていた。

「そういえば、雨の日は『鬼』が出ない云いますわ。雨に濡れないように身を潜めていたんですね。――でもそれなら、今日襲って来たのはどうしてだったんでしょう? しかも最初様子を見に行ったときじゃなく、二度目だけ」

「最初は旗さん、すぐに隠れたでしょう。『鬼』は二人しか居ないと思ったんじゃないでずか?」途切れることなく答えを返すハジメは、やはり俯いていて、「それで二度目に襲って来たのは三人いると判ったから。飢餓感も限界で、足を犠牲ぎせいにしても食べたかったんでずよっ」苦しげだった。

「ハジメ」

 ハジメはゆっくり顔を上げた。

 川沿いの旦那の顔に、恨みや憎しみなど微塵みじんもなく。

「ありがとう。ほんに、ありがとう、ハジメ」

「…………」

 笑うその人に、ハジメも笑顔を返した。


 時は再び三日後。男が行き倒れを見つけた日。

 この日、男は「それ」の目の前で、『鬼』に喰われた。

 大きな目を二つ光らせる、トラ猫のような『鬼』だった。

 その腹を破り出る、一人の男があった。『鬼』と同じトラ柄の髪に縦長の瞳孔どうこう。しかし、高い背丈と屈強な体つきは喰われた男そのもの。

 腰に毛皮のみを纏い、全身に『鬼』の体液を滴らせる男。その手には黒い金棒が握られている。


「それ」の目の前で人が喰われるのは二度目だった。

「それ」の名は平野という。

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