八 平野手帳
1
二日が過ぎた。
井戸水で顔を洗い覚醒。寝巻から着替え、髪を結う。
身支度を済ませると台所へ向かった。
いつも、ハジメが身支度を終える頃には
平野はまだ帰らない。
それでも腹は減る。
ハジメは
平野が不在の間の炊事番はハジメだ。
しかしながらハジメも炊事が得意ではない。一人のときは料理紛いのこともしてきたが、よく言えば豪快、悪く言えば大雑把で基本味付けはなし。しても塩をまぶす程度だった。美味い方がいいが食えりゃあ問題ないと思っているのだ。
そんな炊事番がこの日の朝餉に作ったのがこれだ。
水気の多い雑穀米に畑で採れた
それは、一口食べればなんとも言えない顔で小首を傾げる味だった。
味噌を入れたのに味噌の味がしない。ハジメは出汁という物を知らなかったのである。
良かれと思って入れた味噌が残念さを増し、おかゆにも雑煮にも成り切れない、微妙な料理にしていた。
ハジメはこれでも構わないのだが、この数日の食事時、宗間の静かさが気になる。
以前から食事中に談笑する質でなし、音をたてて食うこともなかったが、明らかに違う。
これは平野が帰らないせいではない。食事が不味いからだ。
口にこそ出さないが、全身で不味いと言っている。平野の料理を食っている時、口元を
このままではいけない。
しかし自分からやると言った手前、宗間には話し辛い。どうしたものか。
と、布団の天日干しをしながら考える。
(平野に訊ければいいけど、その平野がいないから困ってるんだよなぁ。他に訊ける人というと
包丁を持つ姿がしっくり来ないが今度来たときにでも尋ねてみるか、と、
山空でピーヒョロロと
陽が温かく心地いい……。
「そうだ、平野の布団も干しておきましょう」
押し入れから
小さい
とりあえず抱えている布団を下ろそうと体の向きを変える。
「――っ!?」
なにかを踏んで転んでしまった。葛籠以外にも落ちていたようだ。
上に乗った布団を押し避け、それに視線をやる。
それは数十枚の紙を糸で綴じた手帳だった。
這って近づき手に取って見る。
外側には文字の書かれた古紙が使われ、題名などは書かれていない。
ぱらぱらと
平野の物だろうか……。
(もしかして日記!?)
だったら悪いなと思いつつ、興味はある。しかし読めない。
湧き出た好奇心は満たされず、他の対象を探し出す。
手始めに一緒に落ちた葛籠を開けた。
中には先と同じような手帳が三冊入っていた。深まる日記説。
わくわくどきどき頁を捲る。
やはりほとんど読めず内容はわからないが、図の描かれた頁があった。図形で表されているものはわからないものの、なにかの葉や種子が描かれているものは判る。
どうも日記ではない気がする。
一番下にあった手帳を捲り、それは確信に変わった。
他よりも幼い字で、ハジメにも読める文字で――
“ぞうすいのつくりかた”
と、そう書かれていた。
誰が書いたか確証もないのに、心に陽が射したようだった。
そのまま続きを読み、出汁の存在を知る。
手帳には丁寧に出汁の取り方まで書いてあった。なんとありがたい手帳だろう。
今日の
早速取り掛かることにした。
「あ、布団」
平野の布団を干し、改めて台所へ向かった。
そして夕餉の刻。
「いただきまず」
そう言うも、自身は飯に手をつけず。ハジメは宗間が
口にして間もなく、静かだった宗間の表情が変わった。驚いた表情で椀を見て。ハジメに向け「いったい、なにをしたんです?」
食事中に笑う宗間を見たのは久しぶりに思う。
「えへへ」
この後食べた雑炊の味はまだまだ、平野の味には及ばなかった。
2
同じ日付。東の空が白む頃、ハジメは部屋の隅で目を覚ました。緩慢に立ち上がり、身に染み付いた動作で身支度を始める。
井戸水で顔を洗い覚醒。寝巻から着替え、髪を結う。先日もらった青色の小袖と鼠色の袴がよく似合っている。
襷を掛けて袖を上げれば、身支度は終了だ。
身支度を終えたハジメは台所へ向かう。
いつも、最初に足を踏み入れるのはハジメだ。土間になっている台所は他の部屋より少し肌寒い。
――六年が経った。
平野は未だに帰らない。
桶に汲んだ井戸水を水瓶に入れ、ハジメは朝餉の支度を始めた。
一晩水に浸けた煮干しに火をかけ、出汁を取る。出汁には昆布や
出汁を取った煮干しは鍋から上げるものだが、それをやる猫もいないため、上げずに具材にする。
そこに刻んでおいた蕪を入れ、軽く火が通った頃に味噌を溶かし入れる。
(うん、おいしい)
六年の内にハジメは美味い雑炊が作れるようになっていた。
「先生、朝食の支度ができましたよ」
部屋まで呼びに行くと宗間は身支度を終えて本を読んでいた。
丸めていた頭から白い髪が伸び、その容姿をより美しいものにしている。
髪を伸ばしたのは心境の変化、ではなく。単に髪を剃る刃物がないからだ。以前は剃刀を使っていたのだが、うっかり落として使い物にならなくなった。旗に修繕の仲介を頼んで早三年。未だ剃刀は戻らない。
宗間は本を閉じ、ハジメに歩み寄る。
「今日の朝食はなんですか?」
「蕪と煮干しの味噌
「蕪もいいですが、そろそろ
「食べごろには
畑もあの手帳のおかげでなんとかやれている。ハジメが世話をするようになってからというもの、蕪の割合が増えた。
向かい合って雑炊を食べていると縁側の方から元気な声がする。
「おはようございますっ」
男の子だった。
男の子にひっついて、より幼い女の子もいる。
「おやおやもうそんな時間ですか」
宗間は箸を置き縁側へ向かう。
ハジメも鍋に
「おはようございます。すぐ教材を持ってくるので上がって待っていてください」
彼らは寺子屋の新しい生徒だ。住み込みではなく外から通っている。
というのも、
人と人との繋がりが乏しいこの時代であっても“『鬼』を斬った少年”の話は瞬く間に広まっていった。大元はもちろん旗振る行商人である。そこから人伝いに別の行商人の耳にも入り、その行商人がまた話すもんで、どんどん拡大していったのだ。
そして話を信じた一部の人が『鬼』の恐怖から逃れようと集まりだし、寺子屋の周りに集落を築いた。
新しい生徒の男の子と女の子はその集落に住む兄妹である。
宗間に言われた通り、兄妹は縁側から上がり、並びの席に着く。
数分後、朝餉の片づけを終えたハジメが手習い部屋の前を通る。
「ハジメ兄ちゃんおはよう」
「おはようございまず」
挨拶を交わすが部屋には入らない。一年前に手習いを修了したからだ。
縁側から畑へ向かうため
蜻蛉が舞う空からは田植えが終わって間もない、棚田が広がって見える。
同日。
かつて山賊が根城にし、一人の男に奪取された洞窟で飯をかっ食らう集団がいる。
その体格や年齢に一貫性はなく、ただ一様に無染の着物を纏っている。
そして、無言で食事を続ける集団以外に二人。追加の雑炊を作る者と、それに話し掛ける者がいた。
「ひーくんの雑炊はおいしいからみんな夢中だね」
料理者の三白眼が声の主に向く。
「
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