七 羽黒蜻蛉

     1


 少年は目を覚ました。

 木目の見える天井に、柔らかな布団の感触。横になって眠るのは数日ぶりだ。

 部屋には朝日が射し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。

 ぼんやりした眼で視線を巡らす。

 白い紙の貼られた障子。ささくれ立っていない畳。目立った傷のない柱や壁。あの日から変わらない、寺子屋の部屋だ。

 夢でも見ていたのだろうか。だとしたら、どこからどこまでが夢なのだろう。

 少年は上体を起こす。

 カチリ

 右手がなにか固い物に触れた。

 布団をめくると、漆黒の太刀がそこにあった。

 すべて現実。

 途端、喰われたときの記憶が蘇り布団に顔をうずめる。きつく布団を握りしめ記憶を抑え込む……

 ふと、右手になにか止まった感じがして、目を上げる。

 そこには黒い蜻蛉とんぼが止まっていた。羽も胴も目も真っ黒な蜻蛉。

 蜻蛉は少年の手を離れ天井近くを回りだす。見ると蜻蛉はもう一匹いた。

 二匹の黒い蜻蛉が蝶のようにひらひらと飛んでいる。

 障子が開いているから迷い込んだのだろうと、ぼんやり思う。

 いつのまにか記憶はどこかへ行き、浮かぶのは――

「……平野ひらの

 あれから平野はどうしただろう。

 無事に逃げられただろうか。

 いや、きっと逃げられた。だとしたら帰っているはずだ。

 部屋に平野の姿はない。

 少年は立ち上がり、平野を捜しだす。

 とててて、と、まずは台所に向かった。この時間なら大抵そこにいるはずだ。

「平野?」

 平野の姿はない。

 次は囲炉裏のある居間へ。

「平野?」

 平野の姿はない。

「平野?」

 教室にも平野の姿はない。

「平野?」

「平野」

 他の部屋にも井戸のある裏庭にも、平野はいなかった。

 あと見ていないのは宗間そうまの寝室のみ。

「平野、平野、平野平野平野……」

 向かう間、少年は平野の名前を連呼した。歩調に合わせて呼ぶ間隔も早くなる。

「――平野っ!」

 戸が開くと同時、それは呼び声というより叫びに近かった。

 どちらともなく開けた戸の向こうには宗間が立っている。

「先生平野。平野がいないんでず。ちゃんと……帰ってきてまずよね…………?」

 少年の顔にほがらかさはなく、笑顔が引きつっていた。

「……帰って、いません」

「――――」

 口から空気だけが漏れた。まるで肺を殴られたようで。

 よろけて足を着き。次の瞬間、少年は駆けだしていた。

「君っ」

 宗間の上げた制止の声は耳に入らない。

 四足獣と見紛う速度で駆け抜ける。

 脇目も振らず向かうは『鬼』に遭遇したあの場所。

 着くや否や少年は声を上げた。

「平野! どこでずか平野!」

 そこに後を追ってきていた宗間が息を荒げ追いつく。

「『鬼』ならもういないから!」

 そして、目の前の光景に目を見張った。

「僕が倒したから!」

 ――巨大な黒鬼が四肢を切断され、乾いた血の海に伏しているその光景に。

「だから出てきて大丈夫でずよ……っ」

 少年は着物をきつく握る。

「帰りましょう平野。一緒に帰ろうって、言ったじゃないでずかっ!」

 少年の体を温かいものが包み込んだ。

 少年は宗間の腕の中でぶつけるように声を上げる。

「一緒に帰るんだろって! 平野が言ったんじゃないかっ!」

 喉が痛いくらい声を張り上げていた。

 次の瞬間、目から涙があふれた。

「生きてたのに……僕、一緒にっ、帰れるのに……っ」

 少年は怒っていた。

「ばか。平野のばかあああああっ! 一発かましてやるーーっ!」

「……ええ」

 優しい声音だった。

 途端、少年は力が抜けて泣き崩れる。

 ああんと声を上げて泣くその様は、哀しくて泣く、ただの子どもだった。


 泣きじゃくる少年を宗間は黙って抱いていた。ただ優しく頭を撫でて、泣き止むのを待っていた。

 それほど長くはなかったと思う。

 涙が止まって、宗間の腕から出なければと思うのに心地よくて、いつまでもこうしていたくなる。

「着物、汚してごめんなさい」

「なんのことですか?」

 宗間は本当に心当たりがない様子だった。

「……いえ」少年は宗間の着物を掴んで身を縮める。

 その様子に甘えていると思ったのか、宗間はより強く抱きしめて「よしよし」と頭をぽんぽんしてくる。

 そんな気ではなかった少年は当然はてはてと戸惑う。

 ふと撫でる手を止め、宗間は声を落とした。

「わたしのほうこそごめんなさい」

「え?」

「その、なにも着ていなかったので寝巻を着せたのですが、他人を着付けるのは慣れていないもので……」

「?」

 言われて自分の恰好を初めて見た。思わずおぅ……と言いそうだった。

 寝巻の小袖を着ているはいいが、前は大きく開き、帯は何本もの糸が絡まっているかのような複雑な結び目を作っている。どうしたらこうなるのか知りたいくらいだ。

 少年は宗間に背を向け自分で着付け直す。帯を解くのは見た目ほど複雑ではなかった。

 帯を結び終わるとほぼ同時、宗間が思い出したように言う。

「君の名前。帰るまでに決めておく約束だったこと、憶えていますか?」

 もちろん憶えている。

 寺子屋を出てから黒鬼に遭遇するまで、そのことを考えて胸を躍らせていた。

「“ハジメ”――にしようと思うのですが、どうでしょう?」

 ハジメ。

 胸の中で繰り返した。

「気に入りました! ありがとうございまず」

 それはよかったと微笑を向け、「では帰りましょうか」と宗間は左手を差し出す。

 ハジメにはその意味がわからなかった。

 数瞬考えて思い当たる。自分には縁遠かったその行為に躊躇ためらいとむずがゆさを感じながら、差し出された左手に右手を重ねた。

 誰かと手を繋いだのは初めてのはずなのに、この感覚を知っている気がする。

 ああ、そうだ。今朝右手に蜻蛉が止まったときと同じなのだ。

 あの蜻蛉はまだ部屋の中を飛んでいるだろうか。


     2


 寺子屋に帰って、最初に部屋をのぞいてみた。

 不用心なことに障子を開け放したままだったが、あの黒い蜻蛉は出て行ってはいなかった。

 一匹は部屋から出てきてハジメの肩に止まり、もう一匹は太刀のつばに止まっている。

 太刀を見ても逆流するものはもうない。見れば太刀の鍔にも蜻蛉があしらわれていて、気持ちがほころびさえする。

 そういえば太刀が抜き身だが、さやはどうしたか。帰る前に探せばよかったかと、今になって思う。後で探しに行くことにする。

 残り少ない食材であたふたしながら朝餉あさげを作り、二人で囲炉裏を囲んだ。

 空いた三つ目の席を埋めるように、ハジメに付いていた蜻蛉がひらひらと飛んでいた。

 宗間は終始静かに食事を口に運び、蜻蛉が見えていないようだった。視界に入っても、自身の肩に止まっても、気に留めないというより認識できていないよう。

 不思議に思ったが問いはしなかった。

 こんこんこんっ

 空になったわんを片づけようとしていたとき、表の方から戸を叩く音がした。

「行商にきましたー。先生いますかー? 坊でもええですよー」

 聞き慣れない男の声で、西の方のなまりだ。

 表へ出てみるとかさを被った糸目の男が立っていた。

「あっ先生、おひさしぶりです。随分遅れてしまってすいません。理由聞いてくれます? まあ勝手にしゃべるんですけど。それが山の手前でなんと、『鬼』が出まして! もう身を隠すのに必死必死。早よどっかいけ~、念じてたんです。そしたら今朝、山空でからすえらい騒いでて様子を見に行ったら! 死んでたんですよその『鬼』が! 腹ぱっかー開いて手足ばっらばらに斬られて、辺り一面血の海で。それはもう、むごたらしく。どっかいけと思てはいましたが、まさかあの世にいってしまうとは。特異な力に目覚めてしまったかと……いうのは冗談ですけど。『鬼』の死体から東に向かって血色の小さい足跡が続いててぞぞぞーなりました。――ところで先生、その子誰です?」

 身振り手振り、表情豊かにこちらが入り込む隙を与えず男は話した。

 その怒涛どとうの勢いに宗間は終始にこやかで、ハジメは呆気あっけにとられていた。

「ご無事でなによりです。この子は先日寺子屋に入ったハジメです」

 我に返ったハジメは「はじめまして」と頭を下げる。

「これはご丁寧に。いつもお世話になってる行商人の旗振はたふりいいます。以後お見知りおきを」

(旗振り……?)

 ハジメの脳内では目の前にいる男が旗を振っていた。

「なに考えてるかわかりますわー」

 名前を聞いた者の半分は同じ顔をする。

「旗さんって、気軽に呼んでくれてええですよ。平野は呼んでくれないですけど……。そういえば、坊はどうしたんです?」

 場の空気が沈む。

「えっなんかまずいこと……」を言ってしまった空気をさとり、慌てて旗は荷の中からある物を取りだし「そっ、そういえばさっき話した『鬼』の近くでこんな物を拾ったんですよ。『鬼』を斬った主の物だと思うんですけど、わたしが持っていていい物かどうか」

 旗が差し出したのは刀の鞘だった。

 その漆黒の鞘には憶えがある。

「あ、それ僕のでず」

 旗は一瞬固まった。そして、

「いやいや、ハジメ少年。あれは人間の所業しょぎょうやありませんよ。ましてや君みたいな子どもがやったなんて。まあ確かに足跡は子どもくらいの大きさでしたけど」

 完全に冗談として受け取ったらしい。

「証明できる物を持ってくるのでちょっと待っていてください」

 そう言ってハジメは自室から太刀を持って来た。

「これでず」

 両手でそれを旗の前に差し出す。

 すると旗は「ひっ」っと短く悲鳴を上げ、戸の後ろに隠れてしまった。さきほどまでの調子が嘘のように鳴りを潜め、心底怯えた様子で。

 その様子にハジメのみならず宗間も驚いていた。

「どうしたんです、そんなに怯えて」

「先生は恐ろしゅうないんですか!? わたしは恐ろしくて堪らん。そんな……人が持てる物とは思えん……」

 平静を失っている。手は小刻みに震え、顔からは血の気が引き汗を掻いて。尋常ではない怯え方だ。あまりの様子にこちらが恐ろしくなるほど。

「し、信じる。信じるから、早よその禍々しいモンをしもてください……っ」

 鞘を差し出し旗は懇願した。

 太刀に鞘を穿かせ表から見えないところに持って行くと、旗を戸口に座らせ茶を出してやる。

「はぁ……やっと落ち着いてきました。あんなの見せられたら信じるしかありませんて」

 平静を取り戻してきたようだが、糸目が最大まで開いていた。顔色も良くない。

「あんなモノ、どこで手に入れたんです?」

 それはハジメにもよくわからなかった。

 刀を手にしたあの空間。『鬼』の腹の中と考えるのが自然なのだろうが、そうではない気がする。

 とりあえず経緯を話すことにした。

「僕、あの『鬼』に喰われたんでず」

「えっ!?」

「口の中に放り込まれて……気づいたら目の前にあの刀があって」

 まるで作り話だ。『鬼』に喰われた者が蘇り『鬼』を屠った。人が『鬼』に喰われたこと以外、なにからなにまで数奇なこと。

 しかし、証拠を見た旗が疑うことはもうない。

『鬼』の死体を見ていない者でも、あの漆黒の太刀を見れば信じることだろう。それほどに禍々しいモノだった。

 そのとき、旗の中で今の話と先程の沈んだ空気が結びついた。

「もしかして、坊も一緒にいたんですか?」

「僕が先に捕まったので、平野がどうなったかはわかりません。けど、帰ってこなくて」

 努めて明るく言ったつもりだった。けれど沈んでいくのがわかる。

 宗間も同じようだった。

 そんな二人とは裏腹に、明るい声を出したのは旗だ。

「知ってますか? 『鬼』は人を喰うても着物は喰わないんです。あの辺りに落ちてたのはぼろぼろの着物が一枚だけでした」

 理解力の高い二人には旗の言わんとすることがわかった。

「坊は喰われてないのと違います?」

 平野が『鬼』に喰われたところを見た者はいない。遺体が見つかったわけでもない。それは生きている可能性もあるということ。

 では何故。

「じゃあなんで、平野は帰ってこないんでずか?」

「なにか事情があるんですよ。ほら、坊はハジメ少年が死んだと思ってるんでしょ。辛くて帰れないのかもしれませんよ」

「そうですね」

「先生……」

「責任感の強い子ですから、作物が枯れるまでには帰ってきますよ」

 続く言葉になにも言えなくなる。

「待ちましょう」

 宗間は信じることにしたのだ。そうであって欲しい方を。

 しかし響きはどこか遠い。

 ハジメはそれに「はい」を返す。信じることにしたのだ。そうであると。

「て、あまりのことに呑み込めてませんでしたけど、人が『鬼』を斬った――つまりは『鬼』に対抗する術が見つかったいうことじゃないですか! こうしちゃ居れませんわ。みんなに知らせて回らんと。――あっ先生、とりあえず米と塩と諸々もろもろ。お代は後で取りに来ますので」

 失礼しますー、と、旗は寺子屋を後にした。

 嵐が去ったようだった。

 この後、まさに嵐が過ぎる勢いで“『鬼』を斬った少年”の話が日ノ本中を巡ることとなる。


 その日の晩。

 部屋のすみでハジメが寝入っているこく。宗間は灯りも持たず外に出ている。寺子屋の裏に自らが置いた墓石を前に膝を着いて。

 脳裏に浮かぶのは後悔ばかりだ。

『鬼』との遭遇は避けられたのに。

 どうして平野とハジメだけで行かせたのか。

 留守番などせずとも置き手紙でもしておけば事足りた。

 傍にいなくても髪や爪を持たせることはできたのに、どうしてそうしなかったのか。

 剃った髪を少しでも取って置けば。切る爪がなくともぎ取ればよかった。あの子たちの身が守れるなら爪の一枚二枚、どうということはない。

 なのに何故、何故そうしなかった。

 ――抜けていたから。

『鬼』がいつ如何なるときにも襲いくる「脅威」であるということが。

 人類にとって「脅威」でも、宗間にとっては「脅威」でないから。

 ――わたしがいると、『鬼』は出ないんです。

 それこそが真実。

 だというのに、自分が考えなしだったせいで、愛する教え子二人ともを失うところだった。

荒野あらの、わたしに教師は向いていなかったみたいです」

 頼める義理などないかもしれない。

 それでも手を組み合わせ、願う。

「平野を、守って」

 墓石に黒い蜻蛉が止まっていたが、その場ではねを動かすのみだった。

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